ヘビメタ騒音の毎日を……六年以上……経験したことがない人にはまったくわからないのだけど、憂鬱なのである。
これ、騒音で憂鬱というのは、わかりやすい部類のことだと思うけど、やはり、経験したことがある人とない人では、ぜんぜんちがうのである。
そして、きちがい家族による騒音なので、きちがい家族による騒音を、最低で六年以上、毎日経験した人じゃないとわからないことがある。「朝、憂鬱」と言っても、まったく、なにもかも、通じないのである。
そりゃ、ヘビメタ騒音にやられた、毎日の朝が、ないからである。
その人たちには「ない」からである。
「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言うけど、そういうことを言う人たちは、実際に、ヘビメタ騒音の毎日を……六年以上……経験したことがない人たちなのである。
憂鬱の憂鬱がちがうのである。
ぜんぜん、ちがうと想像できる。
この人たちは、「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」というけど、そのあとに、あるいは、そのまえに、「Xの欠乏を満たすように、頑張ればいい」ということを言う。
正しいと思って言うわけだ。
ぜんぜんちがうと思う。
そして、なによりも肝心なのは、この人たちが、通学不可能な状態、あるいは、通勤不可能な状態になっていないのだ。なっていない。なっていないのだから、ちがう。
通勤不可能な状態と、「朝の憂鬱」は、関係がある。きちがいヘビメタ騒音で「夜、眠れなくなる」ことと、通勤不可能な状態は関係がある。関係があるなんてものではなくて、通勤不可能な状態になった……直接の原因が……「朝の憂鬱」と「夜の眠れない状態」なのだ。
夜、眠れない状態であるとき、俺が、楽だったかというと楽ではなかったのである。夜、眠れない状態であるとき、俺が「楽しい楽しい」と言えば、俺が楽しくなったかというとちがうのである。
この、夜のくるしさがわかっていないのである。
夜のくるしさも朝の憂鬱もわからないやつが、「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」というのである。
そして、「Xの欠乏を満たすように、頑張ればいい」と言い、「どれだけつらいことがあったときも、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言うのである。こんなのは、ない。
そいつらは、一万分の一も、わかっていないよ。一億分の一かな。一兆分の一かな。一京分の一かな。一不可思議分の一かな。まるでわかっていない。
そして、ほんとうに、「負の積み重ね」がないのである。ぼくが経験したような負の積み重ねがない。それじゃあ、話は、食いちがうよ。
ヘビメタ騒音で「眠れなくなる」状態と、普通の理由で……みんなが経験したことがあるような理由で……眠れなくなる状態は、まったくちがう。「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言う人たちは、そのちがいが、まったくわかっていない。
このわからなさが、ひどい。
ぜんぜんわかっていないのである。
けど、「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言っている本人たちは、わかっているつもりなのである。どうしてかというと、自分が経験した眠れなくなる状態と、エイリが(ヘビメタ騒音で)経験した眠れなくなる状態は、おなじだと仮定しているからだ。
おなじじゃないのである。ぜんぜんちがうのである。
この人たちは、毎日の「つみかさね」を軽視している。あるいは、無視している。「毎日のつみかさね」というと、普通は、いいことのつみかさねだから、言いがたいものを感じてしまう。きちがい兄貴が、きちがい的な意味で、鈍感で、こっちが、くるしんでいるということを、つねに無視してきたのである。
つねに無視して、毎日、何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も鳴らしてきたのである。きちがい兄貴は「ゆずってやった」と思っているけど、ぜんぜん、ゆずってくれなかったのである。
きちがい兄貴の無理解ぶりと、「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言っている人たちの無理解ぶりは、だいたいおなじだ。ほんとうに、わかっていない。気にしていない。
無視して、見積もっていないか、軽視して、ものすごく低く見積もっている。まあ、無視している状態なのだろう。
「自分だって憂鬱なときはある」「自分だってつらい思いをした」と言っているから、見積もっているような部分もあるのだけど、無視していると言っていい。
これ、「無視しているレベル」の理解度なのだ。
しかも、この人たちは、言霊主義者とおなじように、認めない。きちがい兄貴は、きちがい兄貴のしくみを通して、認めない。きちがい兄貴のしくみは、言霊主義者のしくみとは、ちがう。
きちがい兄貴が無視する機制は、言霊主義者が理解しない規制とはちがう。ちがうのだ。ちがいすぎる。
しかし、無理解ぶりは、おなじだ。
しくみはちがうけど、理解度が低いということは、おなじだ。
あるいは、理解していないということは、おなじだ。両者とも、まったく、理解していないのである。