たとえば、なんだけど、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということが、事実だとしよう。
これは、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」場合があるということではなくて、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という一〇〇%構文の文が、文として正しいということにしておくということだ。
その場合、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と文が正しいと思っている人は、実際につらそうな人を見た場合、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と助言する確率が高くなる。善意の助言だ。「事実そうなのだから、楽しい楽しいと言えば、楽しくなるのだ」と思っている。
けど、相手が、「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならなかったとする。
そうなると、事実を否定されたと、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と思う人は、思うことになる。そうすると、高確率で機嫌が悪くなるのだ。絶対に正しいことを否定された」と思うわけ。「せっかく、助言してやったのになんだ」と思うわけ。
ようするに、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という「思考的な構え」があると「楽しい楽しいと言っても、たしくならなかった」と言ってくる人に、不愉快な感情をおぼえるようになるのである。あるいは、「言い方が悪いから、楽しくならない」ということを言ったりする。
これも、へんな話で、一〇〇%構文の文で言っているのだから、言えば楽しくなるのである。楽しくならないのであれば、一〇〇%構文の文が間違っていたというとになるのである。
ところが、一度、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という一〇〇%構文の文は正しいと思っているので、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という一〇〇%構文の文は間違っているということを、肝がんることができない状態になっているのだ。
しかし、これは、理論的に破綻している。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」のだから、どれだけ、へたくそな言い方で言っても、楽しくなるのである。楽しくならないのであれば、自動的に、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という一〇〇%構文の文は間違っているということになるのである。
ところが、理論的な思考ができないので、「言い方が悪いと、楽しい楽しいと言っても、楽しくならない」という文を正しいと思ってしまうのである。
これ、「言い方が悪いと、楽しい楽しいと言っても、楽しくならない」という文が正しいのであれば、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という文は、自動的に間違っているということになるのである。
これが、わかっていないのだ。
これは、感情の問題ではなくて、理論の問題だ。これは、経験の問題ではなくて、理論の問題だ。理論の問題だけは、認めなければならないのである。
「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という文と「言い方が悪いと、楽しい楽しいと言っても、楽しくならない」という文の両方が正しいと考えることは、理論的に不可能なのである。
これがわかっていないやつが多い。
そして、こういう人たちに、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という文と「言い方が悪いと、楽しい楽しいと言っても、楽しくならない」という文の両方が正しいと考えることは、理論的に不可能だということを言ってしまうと、こういう人たちは、かなりの高確率でおこってしまう。「理屈じゃないんだよ」などと言いだすことがある。
しかし、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という文が語っている内容も、理屈なのである。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という理屈は、理屈じゃないのか?
ただ単に理論的な帰結を認めることができないから、苦し紛れに、もっと破綻したことを言っただけなのである。
「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という文と「言い方が悪いと、楽しい楽しいと言っても、楽しくならない」という文の両方が正しいと考えることは、理論的に不可能ということが、理屈なら、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」ということも、理屈だ。
最初から、自分自身が、理屈を述べているのである。それを、「理屈じゃねーーんだよ」と否定してしまう。
こんなやつばかりだ。
こういうやつがどれだけ多いか、ぼくは経験的に知っている。
「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という文を「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という命題として考えるなら、最初から、この命題は『偽』なのである。
これを理解しないやつが、「言い方が悪いから、楽しくならない」と言い出す。
「言い方が悪いから、楽しくならない」という文は、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という文を……いわば「否定」しているのだ。両方とも正しくないか、片方は正しいけど、もう片方は正しくないということになる。両方とも正しいというのは、理論的にあり得ないことなんだよ。
ヘビメタ騒音に毎日やられると、こういうやつになめらることになる。こういうやつに、あわせることはできない。どうしてかというと、毎日ヘビメタ騒音にやられたからだ。まあ、こういうやつに、上に書いたようなことを言えば、こういうやつは、かなり高確率で、ぼくに嫌悪感をもち、ぼくをうらむことになる。
これが、現実。たいていの場合、説明したことが、まったく伝わらないのだ。
これが、現実。
ぼくの経験の範囲で言うと、すべての場合において、言ったことが、伝わらなかったね。
この伝わらなさはなんだ?
これ、兄貴に対して、俺が言ったことも、まったく兄貴に伝わらなかったんだよ。そういうことを、想起させてしまうような態度なんだよ。
こいつらの態度は、きちがい兄貴の伝わらなさを(ぼくに)想起させてしまうような態度なんだよ。こいつらの態度は、きちがい兄貴の頑固さを(ぼくに)想起させてしまうような態度なんだよ。
ぼくの経験の範囲で言うと、こういうレベルの思考しかできないやつが、みんな、ぼくのことを、見下してくるのである。そして、バカにするのである。そして、次から次へと理論的に間違ったことを言ってくるのである。
こんなの、いやだ。どういう、罰ゲームだ。きちがい兄貴にやられただけで、まわりのこういうやつらかも、やられるようになる。
こいつらは、俺がきちがい兄貴の騒音にやられているということで、根本的に見下してくる。どうしてなら、『自分なら平気だ』と思っているからだ。
そして、 「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」という命題が『真』であると思っていて、ぼくに、助言してやっているつもりだからだ。
こいつの頭のなかには、たいていの場合『せっかく助言してやったのになんだ』『せっかく、いい解決方法を教えてやったのになんだ』という考えが浮かぶんだよ。
たいていの場合、「『楽しい楽しいと言えば楽しくなる』という命題は『偽』だったのか」……なんて、思わない。
たいていの場合、「『楽しい楽しいと言えば楽しくなる』という文が正しいという考え方と『言い方が悪いから、楽しくならない』という文が正しいという考え方は両立しないのだな」と思わない。
こういうレベルのやつに、軽く見られ、バカにされるのである。
きちがい兄貴が、きちがいセンスで、よそのうちでは絶対に鳴らせないようなでかい音で、ヘビメタを自分が満足できる時間、鳴らし続けるとことにこだわると、こういうことが(ぼくとほかの人の間で)しょうじる。
* * *
文を書き始めたときに言いたかったことを、書いておこう。「楽しい楽しいと言って、楽しくなろうとしないからダメなんだ」という言い方について、ちょっと説明しておきたい。「たとえ、どれだけつらくても、楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」ということを信じている人は、楽しい楽しいと言って、楽しくなろうとしない人に、不満を言うのである。つまり、「楽しい楽しい」と言うような努力をしないから、ダメなんだ」ということを言いたくなるのである。この場合、悪いのは「楽しい楽しいと言わない人」だ。きちがい兄貴のヘビメタ騒音で、くるしい状態で暮らしている。けど、どれだけ、つらくても、楽しい楽しいと言えば、楽しくなるのである。俺は、一日に何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も何時間も続く、爆音ヘビメタ騒音でつらいのである。別に「楽しい楽しい」と言わないから、つらくなっているのではないのである。本当の理由を無視してしまう。そういう言い方をすることで、ほんとうの原因を無視してしまう。本当の原因は、ぼくの場合、ヘビメタ騒音なのである。相手がつらい思いをしているとする。相手には相手がつらいと感じるような原因がある。その原因について、間違った考え方をもっているのである。これは、批判につながる。「自分で楽しもうとしないからダメなんだ」「楽しい楽しいと言わないからダメなんだ」と言うことになってしまうのである。けど、ほんとうは、そういうことではなくて、「自分で楽しもうとしないからダメなんだ」「楽しい楽しいと言わないからダメなんだ」と言っている人たちが、無視している原因で、つらい思いをしているのだ。その原因は、相手にとって、無視できるような原因ではないのである。ところが、「気にしているかダメなんだ」「ことだ割るからダメなんだ」とダメ出しをしてくる確率が非常に高い。そりゃ、「自分で楽しもうとしないからダメなんだ」「楽しい楽しいと言わないからダメなんだ」などと言っている人たちにとっては、ほんとうの原因は、どうでもいいことなのである。この人たちは、ほんとうの原因は、「こだわりだ」と思っている。あるいは、この人たちは、ほんとうの原因は、「楽しい楽しいと言わないことだ」と思っている。ちがうんだよ。ちがう。こうやって、相手にとって重要なことを無視して、わけのわからない妄想的なことを言うのである。
これ、非難に長るんだよね。相手の悪いところをせめているわけ。けど、相手の悪いところと言うのは、「自分で楽しもうとしないからダメなんだ」「楽しい楽しいと言わないからダメなんだ」と言っている人たちが、勝手に作った「相手の悪いこと」なんだよね。
自己責任論でもおなじことが成り立っていて、「相手が、人のせいにするからダメなんだ」とせめる。ほんとうは、いろいろなケースがある。たしかに、ほんとうは人のせいではないのに、人のせいにしている人もいる。けど、ほんとうに人のせいである場合もある。けど、ほんとうに人のせいである場合は、すべて、ないことにして無視してしまうのである。ようするに、自己責任論者は、個別の理由について考えないで、相手が「ひとのせいにしているからだめなんだ」と相手をせめはじめる。自己責任論は、非難の道具なのである。基本的に、相手を非難するための言葉なのである。「相手がなっていない」から「相手は、ほかの人せいだと思っている」という考えを頭のなかに作ってしまう。あるいは、「相手がなっていない」から「相手は、社会のせいだと思っている」という考えを頭のなかに作ってしまう。そうしたら、その人たちにとっては、そうなのである。この決めつけは、簡単にはくつがえらない。最初から、決めてかかっているからだ。そういう思考スタイルを採用しているのである。