ほんとうに、ヘビメタ騒音の不利感が並じゃないのである。
ほんとうに、あんな音で鳴ってたのは、うちだけ。うちだけなんだよ。
俺の部屋だけ、きちがいの音で満ちていたんだよ。普通の音じゃなかったんだよ。普通の人が普通の家でやるような音……鳴らすような音じゃなかったんだよ。
きちがい兄貴もきちがい親父も普通の人じゃないけど、自覚がない。
普通の人は、きちがい兄貴がどういうふうにくるっているか、きちがい親父がどういうふうにくるっているか、まったくわかってない。
だから、俺が、不可避的に、いつも、誤解される。
「自分だって苦労した」と言っているやつだって、ほんとうは、きちがい家族と一緒に住んでいたわけじゃない。そのきちがい家族が、きちがい感覚で、自分がこの世で一番嫌いな音を、大音響で鳴らしていたわけではない。
ところが、「できると言えばできる」「眠れると言えば眠れる」「そんなのは、あまえだ」「俺だって騒音ぐらいあった」「俺だって苦労した」と、無理解発言をする。こいつらも、無理解発言をしているという自覚がない。認識がない。
まったくない。
「差」がでかすぎる。そして、あんなにも長い期間、あんなにも長い時間、自分がこの世で一番嫌いな音を聞かされ続けたら、不可避的に、鬱になるのに、それがわからない。意欲がなくなるのに、それがわからない。つかれるのに……つかれはてるのに、それがわからない。ほかの人には、わからない。
わかっていないやつが、えらそうなことを言ってくる。これも、きちがいヘビメタ騒音とセットだ。そして、きちがい親父は、きちがい兄貴が鳴らしているときも、きちがいなのである。ほかの人が、信じないような反応をする。
だから、俺がうたがわれる。不可避的にうたがわれる。きちがい兄貴が鳴らしているとき、ほとんどの時間、きちがい親父はうちにいなかった。よりつかなかった。
だから、「きちがい兄貴が鳴らしているとき」というのは、きちがい兄貴が、きちがい的な意地で鳴らしていた期間のことだとする。全体を通して、きちがい親父の、きちがい兄貴に対する態度がきちがいなんだよ。ほかの人がわかるわけがない。
だから、「そんなに鳴っていたら、絶対に家族が注意するはずだ。家族が注意しなかったのだから、そんなにでかい音で鳴っていなかったのだろう」というような推測はまちがっているのだ。
けど、これだって、俺が説明したって、まちがった推測をしている人は、わかってくれない。