「言えば、言った通りになる」「言えば、言ったことが現実化する」というのが、言霊主義者の主張だ。言霊主義者は、この内容が、正しいと言っているのである。しまいには、宇宙をつらぬく真実だと言いやがる。けど、ちょっとまて。「言えば、言ったことが現実化する」なら、言った内容は、なんでもいいことになる。「ある内容は、言えば、現実化するけど、別のある内容は、言っても現実化しない」と言っているわけではないのである。どんな内容でも、ともかく、言ってしまったら現実化すると言っているのである。なら、満員電車の中で、言霊主義者が、小便をしたくなったとき、どうするか? 瞬間移動して、一度、家のトイレにもどり、小便をすればいいのである。あるいは、「小便をしたくならない」と言えば、それで、問題解決できるのである。ところが、次の駅で降りて、小便をしようと考えて、ドア側によるというような行動をする。あるいは、「しばらくのあいだ、まとう」と思うわけである。言霊で、解決しようとしないのである。こういう現実的な問題に関しては、言霊で解決しようとは、思わないのである。自分が一倍速で経験していることは、一倍速で経験しているので、「理由が明らか」なのである。自分にとって、理由があきらかなのである。感情的な動きも、一倍速で経験しているので、時系列的な感情の流れが、自分にとって、明らかなことなのである。「自分にとって、明らかなこと」だと、普通に物理的な思考をしてしまうのである。言霊が出てくる余地がまったくないのである。自分にとって明らかではないことに関しては、言霊思考が割り込んでくるのである。未来の希望などは、未来のことなので、まだ自分が、一倍速で経験したことではない。だから、空想の余地がある。他人のことなら、自分が、一倍速で経験したことではないので、経験を理解するということが、不十分なのである。自分の経験ではないので、思考でカバーしなければならない。状態や、理由を、思考でカバーしなければならなくなるのである。自分が一倍速で経験したことではないので、自分にとって、「理由」や「感情の流れ」があきらかではないのである。言霊主義者が、「他人の理由」や「他人の感情の流れ」を空想で、おぎなって、理解するのである。つまり、解釈に余地がある。「他人の理由」や「他人の感情の流れ」を理解するとき、理解度が、人によってちがうのである。言霊主義者は、自分勝手で、自己中心的な思考をしてしまうので、「他人の理由」や「他人の感情の流れ」をうまく理解できないところがあるのである。ようするに、「他人の話」を聞いて、「どういうことが起こったか」解釈しなければならないのだけど、解釈するにしろ、それは、「自分の経験ではない」ということが、最初から決まっているのでる。自分のことではないので、解釈の余地がしょうじるのだけど、この解釈の余地が生じたときは、言霊思考になってしまうのである。「小便をしたくない」と言えば、小便をしたくなくなるのである。しかし、その場合も、けっきょく、死なない場合は、近い未来のある時間に、小便をするのである。小便をがまんすることができるのだけど、我慢は、体には悪いので、我慢のしすぎには注意しよう。「小便をしたくないと言ったら、なんとなく、小便をしたくないような気持になり、我慢できた」ということを、言霊主義者が言ったとする。「けど、どのみち、小便をしたんでしょ」と言いたくなる。体のしくみがある。からだのしくみの範囲内のことを、やっただけなのである。尿意をがまんするということは、別に、「小便をしたくない」と言わなくても、できることだ。からだのしくみによって、最初からできることなのである。それを、「言霊の成果」のように言ってしまうのが、言霊主義者だ。自分の経験について語っている場合は、体のしくみによって、可能なことが、多い。そして、ストレス対抗期間内のことが多い。しかし、それは、体のしくみによってできたことであって、言霊の力によってできたことではないのだ。「なんとなく、そういう気分になった」ということは、言霊の力ではなくて、言葉の力だ。言霊の力と、言葉の力というのは、峻別しなければならないのである。そうしないと、「言霊」と言われているものの正体がわからなくなる。
まあ、言霊主義者は、言霊の力で、瞬間移動できるので、満員電車の中にいるときは、なにか、ほかの理由で、満員電車の中にいるのだろう。まさか、通勤のために、乗りたくもない満員電車に乗るなんてことは、ないと思う。言霊主義者は、言霊の力を使えるので、そんなことは、しない。
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小便をがまんしすぎて、膀胱が破裂した人が実際にいるので、バカなことはやめましょう。
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自分の感情に関することは、「なんとなくそういう気分になる」とか「なんとなくそんな気がする」ということがある。とりあえず、「気分類」と言っておこう。実際にそうなるということを、とりあえず、「実体類」と言っておこう。その場合、気分類と実体類には差がある。よく、言霊の説明で、「気分になる」というのがでてくる。「眠たくない」と言ったら「眠たくなくなった」と言うような話である。「眠らない」と言ったら、眠らずにすごすことができた……だから、言霊は真実だと彼らは言いたいのである。けど、「眠らない」と言ったあとも、言ったあとのどこかの時点で、けっきょくは、眠るのである。死ななければ……。「眠らない」と言ったあと、しばらくのあいだは、起きていたということにすぎない。「眠らない」と言ったあと、実際には、眠っているのである。「眠らない」と言ったあと、実際には「眠った」のである。生きていれば……。 「眠らない」と言うことに関しては、気分類であって、実体類ではない。しかし、言霊主義者は、気分類と実体類の区別をしていないので、気分類の例で、実体類を説明しようとする。「言えば言ったことが実体化する」ので、気分類と実体類の区別をしていない。つまり、言ったことの内容には、気分類と実体類が含まれているのである。気分類で成り立ったことは、実体類でも成り立つと、仮定しているのである。しかし、言霊主義者にとっては、仮定ではなくて、事実なのだ。これが、やっかいなところだ。ここでも、言霊主義者は、一〇〇%詐欺をして、法則性詐欺をしている。
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相手も「気分類」なら、できることなのである。気分類は、一倍速で体験可能なことであり、体のしくみに依存しているものであり、ストレス対抗期間内のことだ。しかし、相手の状況や相手の状態をまったく理解していない、言霊主義者は、相手に対して「実体類」であることを、おしつけるのだ。おしつける根拠は、自分が気分類で体験したときは、言霊の力で乗り切ったと思っているからだ。実際には、言霊の力で乗り切ったわけではないけど、ストレス対抗期間内に、言霊的な対処をしたので、言霊的な対処が「どんな場合でも」有効だと誤解をしている状態なのである。言霊的な対処と書いたけど、これは、言葉による対処だ。まるまるというような気分になった。「アファーメーションをした」「言葉で気合を入れた」ということだ。これらは、言霊の力で現実化されたことではないのである。そして、気合を入れるにしろ、身体がかかわっている。身体のしくみがかかわっている。身体のしくみをこえたことは、できないのである。
言霊主義者は、誤解をして、相手にむりなことをおしつけることがある。言霊主義者の「助言」というのはあ、相手に、むりなことをおしつける内容であることが多い。相手の状態を推し量ることが、苦手なのである。相手の状態が、わからないので、「気分類」を根拠にして、言霊が永遠の真理だから、言霊的な助言が相手にも役に立つと思っているのだ。しかし、実体類に関係することは、言霊主義者・本人だって、言霊で問題を解決することができないのである。ここがまったくわかってないないのが、言霊主義者だ。