風呂から出たあと、右足首が猛烈にかゆくなった。あとは、あごのしたがかゆくなった。どっちも、かいたので、ひっかきキズができている。
こういうのが、不愉快なんだよ。はやくここから離脱しなければならない。離脱しなければならないのだけど、エネルギーがない。離脱するべきなんだよな。
もう、全部がいやなんだよね。特に、手続きとか……。自分がいつ起きているのかわからないから、たとえば、不動産屋の人といっしょに物件を見る予約を入れるということができないんだよね。不動産屋に、ふらりと入ることはできるけど、そのあと、「いついつに、こういうことをしましょう」ということになると、それは、かなりやりにくいということになる。けど、そうなるでしょ。まあ、だいたい、だいじょうぶそうな時間で予約するけど、「予約の時間」を気にすると、どれだけ眠たくても、実際には眠れないということになる。これは、ヘビメタ騒音の繰り返しでそうなった。きちがい兄貴がきちがい的な意地で、毎日毎日、毎時間毎時間きちがいヘビメタを、とてつもなくでかい音で鳴らさなければ、こういう状態になってない。これが、行動に影響をあたえているか、ほかの人はわからない。
普通の人は、きちがい家族にやられると、こういうことになるということがわからない。自分がきちがい家族にやられたことがないのでわからない。自分の経験をとおして、毎日、何年間も、家族の騒音によって、睡眠時間が削られるということがどういう意味をもつかわかってない。「そんなの、お兄さんにいばいい」と言う人は、きちがい兄貴のことがわかってない。「どれだけ、騒音を鳴らされたって、寝る時間に鳴ってなければ関係がない」という人は、実際に、きちがいによる騒音によって、日常生活のあれやこれやがみだされるということを経験してないのでわからない。実際に、一日に、数時間、あの音のでかさで、きちがいヘビメタを聞かされると、眠れなくなるということがわからない。そして、ヘビメタの影響を無視したり過小評価するので「自分なら、そういうことをされたとしても、影響をうけないで普通に暮らせる」と思ってしまう。そうなると、常識人・佐藤(仮名)のように「自分なら、そういうことをされたとしても、影響をうけないで普通に暮らせる」という無意識的な前提のもとに、ヘビメタ騒音の影響をうけた人にはできないことを、やれと言うようになる。実際には「やったほうがいい」という表現なのだけど、やらない以上は、一人前の人間としてあつかわないという態度をとる。そういう行動をする。しかも、そういう行動をすることが悪いことだと思ってないのである。こういう、まぬけ。まぬけに、わかったようなことを言われるようなことになってしまうのである。うちの!!家族が、きちがい的な意地で、きちがい的な騒音を鳴らしていると!! これ、ほんとうは、せめられるべきは、きちがい的な意地で、きちがい的なしつこさで、きちがい的な音のでかさで、きちがいヘビメタ騒音を鳴らした、きちがい兄貴が責められるべきなのに、常識人・佐藤(仮名)のような人間は、きちがい兄貴のことはまったくせめずに、俺のことをせめるのである。俺が、ヘビメタ騒音の影響で、働けなくなったと言っているのに、「働くべきだ」と言ってくるのである。俺の発言を無視していやがる。こういうろくでもないやつが、多い。非常識なことをやったのは、きちがい兄貴なのに、非常識なことをやられて、能力をなくした俺が、だらしがないとせめられ、自己責任だとせめられることになってしまうのである。何度も言うけど、べつに常識人・佐藤(仮名)は悪いことをしているつもりはないのである。そういう、意識のずれがある。ぼくとしては、「できないと言ったらできない」「俺ができないと言ったらできないということなんだ」ということを言うしかない。どうしてかというと、普通の人間としての能力を破壊されたからだ。これ、ヘビメタ騒音なかった人が、「通勤ができない」と言っているわけではないのだ。俺だって、ヘビメタ騒音の前は、通学できた。通学ができるということは通勤ができるということだ。しかし、ヘビメタ騒音期間中に通学をしてしまった。毎日、たえにたえて、通学をしてしまった。その結果、通勤・通学ができないからだになった。これが、事実なのである。影響をうけるつもりがなくても、そういうことになるのである。不可避的にそうなる。ところが、佐藤(仮名)のように、きちがいヘビメタ騒音に毎日さらされたことがない人は、そういうことが、わからないのである。自分の感覚として『そんなことはないだろう』と思ってしまうのである。どうして、そのように思ってしまうかというと、トートロジーになるけど、経験がないからだ。経験がないから、わからない。自分のからだをとおして、それがどういうことか、学習してないからわからない。わからないだけなのに、自分のほうが「能力がある」「能力的にうえだ」と思ってしまうのである。なので、意識しているかしてないかは別にして「自分のほうがエイリさんより能力がある」とか「自分はエイリさんより能力的にうえだ」と思ってしまう。たぶん、明確には意識してないと思う。しかし、そうう無意識的な意識内容が、実際のエイリ(他者)に対する(自分)の態度に影響をあたえるのである。実際のエイリというのは、現実的な対象であるエイリさんという意味だ。佐藤(仮名)の前に他者としてエイリが存在しているのである。まあ、これは、親友のダイヤでもおなじだよ。どーーしたって、そういうことになる。
説教する人というのは、みんなおなじだよ。そういうところではね……。説教だと思ってないだろうけど……。