2016年10月31日月曜日

「悪貨は良貨を駆逐する」というのが、本当に、成り立つんだよね

いやーーーー、俺も明るいことを書きたい。けど、ヘビメタ騒音以降無理なんだよな。嘘になってしまう。で、まあ、虚勢?を張って、あるいは、積極思考?で、明るいことを言っても、無駄なんだよね。そういう地点はとっくにすぎたというのが、現実だ。ヘビメタ騒音が三ヶ月で鳴り止んでくれれば別なんだけどな。鳴っているあいだ、どれだけ俺が、そういう積極思考で乗り越えようとしたか? 全部の試みが無駄に終わった。



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さみしいな。本当に追い込まれた。お・い・こ・ま・れ・た・ー。長年のヘビメタ騒音で追い込まれた。これ、毎日続くというのが本当にきつかった。ほんとーにきつい。今日はもう、なんかおかしいんだよね。睡眠時間がおかしいから、へんな感じになっている。なんか腹が減って、起きてご飯を食べるということを繰り返している。いまさっき見た夢は、二階にいるのに床上浸水して、手で水が出てくるところをおさえているというものだ。で、寒いんだよ。水が冷たく感じる。夢でも、寒いとかわかるのな。起きたら、たいして寒くない。

これから、風呂に入るよ。風呂は、工事をしなければならないかもしれない。工事というか、修理か。うまく行かない機能がある。めんどうくさい。全部がめんどくさい。人との交わりを絶ったのもヘビメタ騒音のせいなんだよ。やられたことがない人はわからないと思うけど、そうならざるを得ないのだ。わからないと思うけど。毎日数年間にわたって続くとそうなる。自然にそうなる。わからないだろうけど。俺は、ヘビメタ騒音が続いているあいだも、わりと交友はあったんだよな。けど、ヘビメタ騒音が続いているから、どれだけいい人との交流も、苦しくて苦しくてたまらないものになる。わからないだろうけど。ごく自然にそうなるんだよ。全プロセスを説明するのはしんどいけど、ごく自然にそうなるという説明で勘弁してくれ。

ふつーーにそうなっていく。すべての交流がフカノーーみたいな状態になる。それが、一日に平均七時間、長いときは一日一四時間のヘビメタ騒音の結果なんだよ。あれ、だれでもそうなると思うけど、そういう経験をした人が少ないから、わからないだけ。で、張本人のきちがい兄貴は、まったくやったつもりがないんだぞ。

全自動で、やるくせに。

どれだけこっちが「やめろ」と言っても、顔を真っ赤にしてやるくせに。頭がおかしい。本当、殺さないとやめさせることができない。殺す以外のやめさせる方法がない。これも、そういうきちがいと一緒に住んだことがない人にはわからないのだろうけど、そうなんだよ。きちがい兄貴は、そういう意地でやっているのに、同時に、「ゆずってやった」「やってない」と思っているわけだろ。頭がおかしいから。そういう態度の、わりをくった。そういう態度についてわかる人なんて、そんなにいない。だから、俺が正直に本当のことを言っても、「なんかわからないことを言ってやがる」と思うわけ。「そんなの注意すればいいだろ」「お兄さんだってわかってくれるよ」「そんなに鳴っているのに、どうして、親は注意をしないんだ?」なんて言ってくるわけだから。で、親父について説明しても、普通に育った人にはわからない。

一番頭にくるのはきちがい兄貴がわかってないということだ。どれだけの意地でやったかわかってない。本当に一秒でもやめて、静かにしようという気持ちがない。まったくない。もちろん、一秒間だろうがヘッドホンをするつもりもない。ともかく、自分が思ったとおりの音で、スピーカーから鳴らしたい。だから、一秒も折れることがない。ゆずることがない。けど、本人は、一日中ゆずってやったと思い込んでいるような状態だ。きちがいだから!! どれだけ言っても通じないんだよな。きちがいだから!!

そんなこんなで、交友というか、すべての人間関係がだめになった。これ、だめになるんだよ。時間をかけてね。時間はかかるんだよ。まあ、人間関係なんていつでもスイッチをオンオフできるものだと思っていたところもあったけど、そうじゃないんだよな。やっぱり、生活が影響する。その人の生活の、一部分なんだよ。だから、その人の生活が影響する。きちがいヘビメタにやられて、体力、精神力、お金がない状態(稼げない状態)だと、もう、ダメなんだよ。それでも、つきあっている人はいたけど、だんだん少なくなっていく。

あとは、これ、言っちゃなんだけど、掲示板の交流は失敗したと思う。八割方が、悪い人なんだよ。この悪い人というのは、部分的に親父や兄貴に似ている人という意味だから。認知がおかしい。いい人もいるんだよ。けど、いい人とうまいことやっていると、悪い奴が破壊するみたいなことが繰り返し起こって、だんだん嫌になっていく。本当に三角さんみたいな人がいるんだぜ。しかも、俺が、悪い人を仲間はずれにしたと思われるのか嫌だから、いい人に連絡を取れなかったんだよな。(これ、説明しにくいことをいろいろ含んでいるので、説明しないけど。あいつがやっていることが、面倒なんだよな。)まあ、いいか。「悪貨は良貨を駆逐する」というのが、本当に、成り立つんだよね。

使命感に燃えて、スパム行為をして、別のハンドル(名前)でいい人たちとやりとりしているなんてやつが、ごろごろいるんだよ。で、ばらすのもかわいそうなんだよな。迷惑行為をめちゃくちゃな意地でやるけど、本人はいいことをしているつもりだから、嫌になる。そういう悪い人がいっぱいいるんだよね。ばらすのもかわいそうなんだよ。あーいやだ。そういう、困った人がいっーーっぱいいるわけよ。

ともかく、掲示板は、精神を消耗しただけで、良くなかったな。だいたい、なんで、掲示板に書き込みをしなければならなくなったかというと、ヘビメタ騒音が何年も続いて、他の交友がなくなったからなんだよな。


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この掲示板というのは2ちゃんじゃありません。もっと安全なところかと思ったら、ぜんぜん違ってた。管理人がおかしいひとだから、2ちゃんの数倍、悪い。裏設定があったんだ!!!!

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あーつかれた。ともかくつかれた。寝てもつかれがとれない。それが、人生の悩み。ほーーーんと、つかれたから。夜も朝も、昼も、ヘビメタ騒音の雰囲気がおそってくる。

これ、どれだけ書いても無駄だな。けど、苦しい。書かずにはおれない。ところで、「騒音サイコパス」の14を校正して、電書にしたから買ってくれよ~~

いま、15と格闘中だよ。校正はきつい。書いてあることが俺にとってきついことだからきつい。まあ、とりあえず仕上げてあとで宣伝しよう。


2016年10月29日土曜日

痛快に行きたいよな。痛快に生きたい。 しかし、現実はどうだ?

くちょ~~めんどうだなぁ~~
行きたくない~~~行きたくないよ~~~


さみしいな。無意味。なんか無意味な感じがする。

生きててもしかたがないんじゃないか。ヘビメタ騒音に汚染されたこの人生は、もうだめなんじゃないか。


なんとか行かないと~~

めんどうくさい


あーあ、夢ではハッピー?だったのに。
痛快に行きたいよな。痛快に生きたい。

しかし、現実はどうだ?


ここに書かないと、近くのコンビニにすら行けないような状態だ。さみしーから。これ、わからないだろうな。ヘビメタ騒音が影響している。でかい。もう、なんか、地獄の道なんだよ。そこの道路が。どうしてかというと、ヘビメタ騒音が鳴っていたときに「通っていた」道だからだ。破滅破綻を感じる。

2016年10月28日金曜日

リトルわくわくですら無理か

で、わくわく」だけど、あんまり「わくわく」できない。この世に生まれて、きちがいヘビメタ騒音をやられる前の経験があるから、だいたい「わくわく」した状態についてはわかる。

けど、きちがいヘビメタ騒音を十数年間毎日やられたあとは、そういう正常な気持ちがなくなってしまった。だから、そこからの話しなんだよね。他の人は、きちがいヘビメタ騒音がないわけだから、昔のぼくの状態なんだろうと思う。

そうすると、「わくわく」できるものがなかなか見つからない人も、そこそこ、わくわくできるものを、探し当てることができると思う。きちがいヘビメタ騒音の十数年間で、ぼくのそういう回路がこわれてしまった。だから、どうにもならない。だから、ヘビメタ騒音前のぼくの気持ちというのはとりかえせないと思う。ようは、ヘビメタ騒音以前のわくわくした気持ちというのは、ぼくには一生ないのではないかと思う。だから、「わくわく」はあきらめることにした。

で、ほんのちょっとでも、やる気になることをやることにした。けど、それは、いままでとかわらないんだよな。たとえば、これを書くときぼくは「わくわく」してない。ぼくがヘビメタ騒音にやられずに、普通の人の状態でとどまれたなら、ぼくにも「すぐにわくわくする方法」を書くことができたのだけど、それは、もう、まったくできない。だから、そういうことでも、きちがいヘビメタ騒音「体験」というのは、ぼくに、いろいろな負の影響を与えている。で、これ、他の人はわからないことだから、なんていうのかな、「シェア」できないんだよな。「あるある」。「わたしもそうだった」。なんてことがないわけだから。

ああ、そう言えば、六ヶ月間ヘビメタ騒音にやられた人に会ったことがある。

あの人は、たとえ、六ヶ月間でも、あれだけの音でやられたらどういうことになるか、わかっている。だから、その人は、わかってない人たちに、ぼくの代わりに説明してくれたのではないかと思う。ぼくは、その会をすぐにやめたから、あとのことは知らない。ヘビメタ騒音のことを言っても、「そんなひといるのかな?」「そんなことってあるのかな?」と疑問に思って、受け入れられない人?がいるんだよ。で、そういう人は「どうして、働かないんだ?」ということを、ヘビメタ騒音のことを話したあとも、言ってくる。


だから、「もう、いい」という気分になって、やめる。そういうことは、よくある。


で、なにを言いたいかというと、そういう人でも、なんとか、少しずつ改善できる方法はないものかと思っている。けど、まずぼくがその方法で成功しない限り、人に紹介することができないので、当然、紹介するような本も書けない。だから、わくわくじゃなくて、リトルわくわくでいいんじゃないかというようなことを書こうとしたんだけど、リトルワクワクもないということに気がついてしまった。

ぼくは、ちょっとだけ、スキーをやりたいと思っているんだけど、たぶんやらずに生涯を終える。まあ、やれたらやるけど。けど、それは、いまなんじゃないの?と思う。たとえば、一年後に死ぬとして、いまが一番若いわけだから、やっておいたほうがいいんじゃないかと思ったりする。けど、ヘビメタ騒音という重荷・重石(おもしの変換に手間取っていたら、書きたいことが書けなくなったので、省略)


けっきょく、たいしてわくわくしてない?あるいは、ぜんぜんわくわくしてないけど、自分が思ったことを書くというような行為しかできない。自分の思ったことを書くというのは「わくわく」ではないんだよ。さらに、校正して本にするというのは、ぜんぜんわくわくじゃない。「校正」は嫌いだから。日本語は漢字変換があるから楽じゃないんだよな。

最初の変換結果を見たとき、間違っているのはわかっているけど、そのまま、書き進む時がある。そのまま、書き進まないと、書けなくなってしまう。実際、変換で戸惑って、それまでの思考の流れが切れて書けなくなってしまったということが何回もある。だから、間違いに気がついているけど、書き進めることがある。その場合、あとで、探すのがけっこうむずかしいんだよ。

ブログの場合特に、読むとわかる間違いを、入力欄に戻って、修正しようとすると、場所がわからないということがある。だから、一度エディターにコピーして、検索するとかそういうことをしなければならなくなる場合がある。

まあ、それでも、なぜか書きやすいから、ブロガーの入力欄で書いているんだけどさ。

わくわくというか、わりとおもしろいなと思ってできたことは、Fireworks、Dreamweaver、illustrator、Photoshopなどの、操作だ。これ、操作を覚えるときがおもしろかった。案外覚えちゃったら、もう、なんか、だいぶ興味がなくなったところがある。Fireworksはいまでも好きだけどさ。Illustratorよりおもしろい。まあ、ともかく、できるようになると作業はマンネリ化して、おもしろくなくなるよね。


2016年10月26日水曜日

なにか目標に向かってがんばっている人と、愚痴ばかり言っている人だとどっちが魅力的ですか

ヘビメタ騒音というブレーキ。これが手強いんだよな。たとえば、本にこういうことが書いてあったとする。「なにか目標に向かってがんばっている人と、愚痴ばかり言っている人だとどっちが魅力的ですか? 目標に向かってがんばっている人のほうが魅力的ですよね。だから、愚痴を言わないで、なにかに向かってがんばったほうがもてますよ」と。まあ、目標に向かってきらきらがんばっている人でもいいんだけどさ。上の文章は、いま俺が勝手に作った文章だから、どこかに書いてあるものではない。けど、わりと似たようなことは書いてあるでしょ。で、じゃあ、目標に向かってがんばっている人のほうが魅力的だから、目標に向かってがんばれるかというと、そうではないのだ。ヘビメタ騒音で崩壊しているのはそういう部分だ。人間として魅力的とか、そういうことを言われても、無理は無理なんだよ。あとは、たとえば、目標に向かってきらきらがんばっている人と、愚痴ばかり言っている人では、どちらの方を助けたくなりますか? 目標に向かってきらきらがんばっている人ですよね」でもいいわけ。助けたくなるのは、がんばっている人なわけ。だから、誰かから、助けられたい人?は、まず本人ががんばって、なにごとかに立ち向かうことだと言うことが言えるわけ。けど、けど、うつ病寸前の人、うつ病にすでになっているひとは、こういう文章を読んだだけで、暗い気持ちになる。「自分」は魅力的な人間ではなく、助けたくなるような人ではないと言われているのに等しいからだ。ちなみに、「助けたくなる」は「協力したくなる」でもいい。要するに、暗い人間は、それだけで、魅力がなく、協力してやりたくない人なのである。「きらきらがんばっている人は魅力的で応援したくなる」という一般論を述べている人は、別に、そうじゃない人は、魅力的ではなく、応援したくならないと言っているわけではない。けど、理論的必然としてそうなる。で、まあ、一般論として正しいとしても、どうやっても、どうしても、いままでのいきさつから、がんばれないというのがある。要するに、うつ病患者だって、そういう理論はわかる。けど、現実の場面で、「もうだめだ」というようなことをたくさん経験してきているわけだから、きらきらと目標に向かってがんばることがもう無理なわけ。だから、一般論としては正しいのだけど、うつ病寸前の人やすでにうつ病になってしまっている人が、そういう本を読むと、どれだけ、一般論として正しくても、落ち込んでしまうわけだ。けど、きらきらと目標に向かってがんばっている人は、それが、他の人から見て魅力的だからがんばっているわけではない。もしそうだとすると、それは、「ふりをしているだけ」ということになる。だから、きらきらと目標に向かってがんばっている人は魅力的だけど、きらきらと目標に向かってがんばっていると魅力的に見えるから、がんばっているいるふりをしている人は、魅力的に見えないと思う。たとえば、「なにか目標に向かってがんばっている人と、愚痴ばかり言っている人だとどっちが魅力的ですか? 目標に向かってがんばっている人のほうが魅力的ですよね。だから、愚痴を言わないで、なにかに向かってがんばったほうがもてますよ」というような文章を読んで、「よし、がんばろう」と思った人ががんばっても、そんなにはいいことにならないと思う。「魅力的に見えるから」「応援してくれる人が増えるから」やっているということになると、そこには、不自然さがただようから、魅力的に見えず、応援してくれる人も増えないのではないかということが予想できる。これは、効率を求めているわけでしょ。外から見た場合の自分の姿を考えているわけでしょ。けど、きらきら目標に向かってがんばっている人は、じつは、そういうことは考えてない。そういう損得をこえたところで、きらきら目標に向かってがんばっているのである。それは自発的なやる気であって、効率とか、外から見たときの自分のイメージを考えるということとは、無縁なことなのだ。

けど、じゃ、一般論としてはどうかということを考えると、がんばっている人のほうが魅力的で、協力したくなるというのはある意味、正しいんだよな。で、うつ病寸前の人、すでにうつ病になっている人でも、他人のことを考えた場合、「そうだよな」と思ってしまうところがある。そうなるとどうなるかというと、やはり、「自分はダメだ」という方向に流れてしまうのである。

女の人が書く「引きよせ」「開運方法」「鏡の法則」「スピリチュアリズム全般」は、一般論としては正しいけど、うつ病寸前の人やすでにうつ病である人が読むべき本じゃない。

なにかに打ち込んでいる人は、その方が魅力的にうつるからというようなことは考えてない。内側から発生してくるなんらかの考え、気持ちにしたがって動いている。外側からどうみえるとかそんなのは、あとまわしだ。というか、考えてない。

それにしても、ヘビメタ騒音なんだよな。でかい。こんなの本当にきちがい兄貴が一日目に、鳴らさないで静かにしてくれたらそれでおしまいなのに……解決なのに。きちがい兄貴が、いま、「よその家で」静かにしているように、一日中ヘッドホンをして聞くようにしてくれたら、それでおしまいなのに……解決なのに。きちがい兄貴の気持ちひとつで、俺の人生がない。これは、他の人にとっては、愚痴に聞こえるだろうけど、そうじゃないんだよな。どう考えても、ヘビメタ騒音がなかった人の世界じゃない。ヘビメタ騒音がなかった人が「なにか目標に向かってがんばっている人と、愚痴ばかり言っている人だとどっちが魅力的ですか」なんて言ったって、ぼくの胸にはこたえない。そういう問題じゃないんだよな。そういう問題をとっくのとうに超えている。そういうレベルじゃない。けど、それは、鳴らされている最中、問題だったことなんだよ。足を引っぱられている最中、つねに問題だった。これ!! ヘビメタ騒音というカタチで足を引っぱられたことがない人が、「なにか目標に向かってがんばっている人と、愚痴ばかり言っている人だとどっちが魅力的ですか」なんて言ったってむだだ。だって、そうだろ。その人はものすごい力で邪魔されたことがない。そういう「生活」が続いたことがない。

やっぱり、ゆるせない。いま、午後九時四四分。きちがいヘビメタが鳴っていた。足を引っぱられた。この「足引っぱられ度」が普通の人が考えるそれよりも、でかい。本当にでかい。強い。きちがい兄貴は、足を引っぱっているつもりが、まったくない状態だからな。それこそ、どれだけ、こっちが注意しても、ぜんぜん「(弟の足を)引っぱっている」という感じがしない。試験前にそれだけやれば迷惑だろ。午後四時からずっと言っているだろというのが、まるで通じない。頭がおかしいから、まるでつうじない。本当に全力でやって「やったってやってない」の世界なのである。全部の時間やりやがって。本当にゆるせない。

これ、どうなんだよ。本当に一般の人が一般論を言っている。で、一般論のほうがうける。「そういう世界」であれば、どれだけ助かったか。一般論が思い描く世界はこうだ。ある日、きちがい兄貴がヘビメタをものすごい音で鳴らし始めた。きちがい的な大きさで鳴らしたので、三分ぐらいならしたときに、ぼくは、兄貴に注意をしに、兄貴の部屋に行った。そして、「うるさいからやめてくれ」と言った。それを聞いた兄貴は、それ以降ずっと、毎日、鳴らすときはヘッドホンをして鳴らしてくれた。……よかったよかった。……こういう世界に住んでいるなら、ぼくだって、「なにか目標に向かってがんばっている人と、愚痴ばかり言っている人だとどっちが魅力的ですか」という問いかけに素直に答えることができるしなんの疑問も感じない。いや、導入しようとしているというのは、ちょっと気になるな。「なにか目標に向かってがんばっている人と、愚痴ばかり言っている人だとどっちが魅力的ですか」のあとには、かならず「がんばっている人のほうが魅力的ですよね。だから、がんばりましょう」というような文言が続く。実際には「がんばりましょう」ということを言いたいために、前の文章「なにか目標に向かってがんばっている人と、愚痴ばかり言っている人だとどっちが魅力的ですか」というような問いかけがある。そういう結論に追い込んでいる。追い込むための、言葉だ。問いかけだ。

それは、うつくしくない。そういうやり方は、好きじゃない。

2016年10月25日火曜日

「将来どうなるか? こんなんじゃだめだ」と思ってあせっていた

ほんとうに色あせているな。ほんとうに……。
ずっとこういう気分だった。きちがいヘビメタ騒音のなかで、あせっていた。「将来どうなるか? こんなんじゃだめだ」と思ってあせっていた。きちがいヘビメタが鳴っていた。きちがい兄貴は、俺がヘビメタを聞くように、……聞かさせるように騒音を経験したことがないのではないか。きちがい兄貴の態度は、きちがい親父の態度そのままなんだよ。だから、やったって、平気だ。全部やることに、きちがい的な意地でこだわる。全部やることにきちがい的な意地でこだわってやったことは、本当に全部、「やってないこと」なんだよ。「やったとしても、そんなにやってないこと」なんだよ。「やったとしても、知らなかったから、やったこと」なんだよ。これ、全部、嘘なんだけど。大嘘。で、そういう嘘が、嘘じゃないんだよな。自分のなかでは!! で、やっている最中も……ガンガン鳴らしているときも!!……「やってないこと」「やったとしても、そんなにやってないこと」「やったとしても、知らなかったから、やったこと」……ということが成り立っている。最中から、成り立っている。言いはしないけど、なんて言うのかな、本当に無意識として成り立っている。こだわりつくして、どれだけ何回「やめろ」と言われても、頑固に執着してやりきることなんだけど……一秒だってゆずらずにやりきることなんだけど……やってないつもりでいる。言われたけど、知らないつもりでいる。(注意された記憶がないのとおなじ状態でいる)。で、その時は!知らずにやりきる。一日に何十回怒鳴られても、知らないままなのだ。そういう態度だ。そういう態度が、ごく当たり前に成り立っている。だから、期末試験期間中だろうがなんだろうが、絶対にやりきることは決まっているので、自分ができる時間は全部、思い通りにならすということになる。期末試験期間中だから、一時間鳴らさないでゆずってやるとかそういうのは、絶対にない。一時間どころか一分だって、一秒だってない。そういう「意地」なんだよ。「意地」と言えば、「意地」なんだけど、きちがいの意地だ。だから、自分にとって不都合なことは全部捨象されている。言われたって、言われてないのである。鳴らしたって、鳴らしてないのである。ものすごくでかい音で鳴らしたって、そんなにでかい音で鳴らしてないのである。一秒もやめるつもりがないから、絶対に一秒もゆずらずに、自分がやりたい音で鳴らす。きちがい兄貴が、ゆずったと思っているわずかな時間……一日に五分ぐらい……も含めて、きちがい的なでかい音で鳴らしている。だから、ずっと鳴らしていることにはかわりがないんだよ。きちがい兄貴は、一日に五分でも、きちがい兄貴の基準で静かにしてやったら、もう、「静かにしてやった」ということになる。そのあと一三時間三三分鳴らしたとしても、「(静かにしてやったから)静かにした」ということになってしまう。もちろん、こんなのは、「うち」でだけ成り立つわけで、「よそ家」だったら「おまえふさげんな」と言われてそれでおしまいだ。そういう態度はとれなくなる。鳴らせなくなる。一日一分だって、きちがい兄貴が最大限ゆずってやった音以上の音で鳴らせなくなる。けど、「うち」だから、それであたりまえなんだよ。「親父」のうちだから。で、一旦そう決めてしまったら、うちのやつにどれだけ何万回、何億回言われたって、態度を変えない!! そういう人種!なんだよ。だから、ふつーーにそうやって、なにもやってないつもりでいる。だから、そのあと、二〇年経とうが三〇年経とうが、自分はなにもやってない」という気分しかないんだよ。じゃ、やっているときに、一分間でも、鳴らさないで我慢できるかというと、それは、もう絶対に我慢でない。一分だろうが、一秒だろうが、自分が鳴らさないで我慢するなんていうのは、考えることさえできないこと。そんな選択肢は、どれだけ何万回、何億回言われても考えつきもしない。最初から、選択の候補にならない。そういう選択肢は、最初からない。で、きちがい兄貴にとっては、なんて言うのかな? 結婚をして家を出て行くまでの一四年間ずっと、そうなんだよ。ヘビメタ騒音道具を手に入れてから、ずっと、一分でも、ちゃんと静かにしてやることは候補としてない。一日に一分でもちゃんと静かにすることはない。で、これ、本人が意地を張ってそうしていたのだから、そういう認識があっても良さそうなのに、まったくそういう認識がない状態なんだよ。だから、ぼくの時間は、いつも、きちがいヘビメタ騒音に蹂躙される。で、それが「あたりまえ」の状態。きちがい兄貴は全然変なことをしているつもりがない。あたりまえのことをしているつもりしかない。どれだけ言ってもそういう部分で変わらない。だから、本当に、まったく悪気なく、どれだけ言われも、自分がやれる時間は全部、フルの音かフルの音より〇・一デシベル静かにしてやった音で鳴らすのである。〇・一デシベル静かにしてやった音で鳴らす時間はせいぜい五分か一〇分だ。それが、きちがい兄貴の「最大限の譲歩」「できる限りの譲歩」なのだ。全然譲歩になってないんだけど、きちがい親父とおなじで、全然譲歩になってないということに、気がつかない。これも、どれだけ何万回、何億回、はっきりとそう言われても、気がつかないのである。どれだけ、「損なんじゃ譲歩したことにならない」「そんなんじゃ、静かにしたことにならない」と言われても、自分のなかで、譲歩してやったら、それはものすごいことなんだよ!! この、も・の・す・ご・い・こ・と!!! の意味がわかるかな。相手は、死ぬまで感謝してもいいようなものすごいことなんだよ。そういう大盤振る舞いのつもりなわけ。本当は、まったく役に立たない譲歩で、まったく意味がない譲歩なんだけど、本人が「やってやったぁ!!!」と思ったら、それはともかく、すごいことなわけ。これも、親父とおなじなんだよ。だから、まったく役に立たない譲歩をしてやって、ものすごく感謝されていると思っている。本当は、「ふざけんな!!!この野郎!!」と思われているのだけど、本人は、どれだけ言われても、気がつかないんだよ。これ、発狂して言い合いになる。発狂して言い合いになっても、そのあと、全然静かにしてなくても、気がつかない。そういう時間なんだよね。絶叫して喧嘩したあとの時間というのは、そういう時間。鳴らし切って、感謝されていると思っている時間なんだよ。「静かにしてやったから!!」。静かにしてないのに!! だから、さんざん文句を言って、怒鳴っているのに、一度譲歩してやったら、ものすごくいいことをしてやったつもりでいる。ぜんぜん、譲歩になってないということを、きちがい的な意地で、認めない。で、普段から、つねにそういうスイッチが入っている状態なんだよ。きちがいだから!!! どれだけ言っても、なにも通じない。で、キレタら、キレタで、

2016年10月24日月曜日

さみしい

おちてきた~~。さみしい。あれ、本当にきつかったんだよ。ヘビメタ騒音。夏もきつかったけど冬もきつかったな。この気分。鳴り終わったあと、急激に血がひくように、切羽詰まった絶望的な気分になったけど、あんな感じだ。けっきょく、六ヶ月間ヘビメタを鳴られされていた人以外、一日中……ならされているという場合の、つらさがわからないと思う。まあ、「うるさい」というのはわかるだろうけど。「うるさい」では済まないつらさがいっぱいあるんだよな。人は本当に自分の常識に従って、簡単に人を決め付ける。きちがいによるヘビメタ騒音のように、他の人が経験しにくいことだと、他の人にはわからないんだよな。根本的には。「きちがいによる」というのが大切なところで、これが、わからない。どれだけ人の生活を破壊するパワーがあるかわからない。きちがいには人の生活を破滅させるパワーがあるんだよ。それが家族ならなおさらだ。隣の部屋に住んでいる他人だったら、どれだけ助かったか。大家も他人、隣の部屋できちがい的な音にこだわって、きちがい的な意地で鳴らすやつも他人……これだったら、どれだけ話がスムーズに進んだか。あるいは、ぼくがその時すでに成人していて……鳴り始めたときに成人していて、……どうしても鳴らすというのであれば引っ越せる状態だったら、どれだけ助かったか。きちがい親父のしたで、こどもを「やっていたから」騒音から逃れらない状態になった。きちがい兄貴は、いまでもまるで考えてないけど、あいつがやったことはひどい。あいつは本当催眠術にかかったように、「うちではやっていい」と決め付けて、頑固にやった。あとは、親父流の「やったってやってない」を使って、毎日やりきったら、やってないことにしてしまったのである。これも、きちがいだからこそできる裏技だ。というか、きちがいでなければ、あんな音にこだわりつくして、鳴らしてない。きちがい兄貴のこだわりはものすごいものがあって、本当に、些細なところまでこだわっている。だから、自分が本当にゆずるなんてことはないのである。髪の毛よりも細い、レコードのキズが気になるようなこだわりだからな。それとおなじで、髪の毛よりも細いキズよりも細い「分量」しか譲歩しないのである。本当に、テレビの音ぐらいに落としてくれるということが絶望的にないんだよな。

この気分。

これ、どうするんだよ。

2016年10月23日日曜日

一国一城の主

まずやって、結果がついてくる人というのは、すごいと思うよ。

普通の人から見ると高すぎる目標を書いている人であって、それがすんなり頭に入るという人は、本人が意識しているかどうかにかかわらず、なんらかの、成功体験をしている可能性が高い。だから、そのひとには、すんなり頭に入ってくる。むなしくならない。



で、強運交流会だけど、これは、やはり、一国一城の主じゃないと意味がないのではないかと思う。一国一城の主といっても、規模は問わない。個人事業主でもいい。あるいは、いまは一国一城の主ではないけど、それを目指しているとか、目指して用意をしているとかいう人じゃないとあんまり意味がない感じがする。いまは、ぺーぺーだけど、そのうち旗揚げをするつもりがある人じゃないと意味がないような気がする。会社に属している場合も、ある程度裁量権があるひとじゃないとむいてないと思う。

あとは、健康か。健康は強烈に大切だ。とりあえず生きるということが最大級の目標になるときがある。そういう場合は、やはり、高い目標はまぶしすぎる。


ほめ言葉は、……。
自分を褒めてやるというのは重要だと思う。



あっ、俺わかってきた。


成立条件と有効範囲があるんだ。
そういうことか!!!!!


   *     *     *

まあ、そうは言っても、ヘビメタ騒音がでかすぎる。
実は「ヘビメタ騒音克服!!」とでかい文字で書いて、柱のところに貼っておいた時期がある。俺が、それを、どれだけむなしい気持ちでみつめたか。そういう時間があったか。
ともかく、ヘビメタ騒音七年間(通学)、合計一四年間のヘビメタ騒音期間があったあと、ぼくは「普通」ではなくなっている。こわれている。だから、……だからこそ、強運を呼び寄せる必要があるんだけど、……。
まあ、生きていることをよく考えると強運とは言える。しかし、そもそも、きちがい親父のもとに生まれてしまったこと、きちがい兄貴の騒音を阻止できなかったことがでかすぎるんだよ。

これ、いま、元気になって、タイプができるから書いているけど、さっきまで、グロッキーで寝てた。むなしさがとれない。普通に普通の生活が回ってる人じゃないんだよね。普通に働いていて、それで、なんか起業しようと思っている人だと、そういう方法が役に立つのだろうけど……。死ぬか生きるかみたいになっている俺だと、かなりきつい。だいたい、普通に働けないというのは、たとえばの話しだけど、底辺の仕事に就けないということだ。もちろん、上辺や中間の仕事も無理だ。なんと言っても、底辺の仕事ができないのだから。

一番、就職にあたって、ハードルが低い……だれでもできる仕事と言われている底辺の仕事が、できない。「だれでもできる仕事」って、よっぽど気力と体力がある人じゃないとできないんだよ。底辺の仕事が一番苦しくてつらい仕事なんだよ。上辺の仕事に行けば、なんていうのかな、甘い汁が吸える。これは、制度としてそうなっている。



で、なんというのかな?



だから、みんなやりたくもない勉強をして上に上がろうとするわけだろ。俺は、学問がやりたかっただけだけどな。けど、貧乏家にうまれたら、勉強ではい上がるしかないんだよ。試験制度を利用して、上に行くしかないんだよ。それを、きちがい兄貴が、毎日毎日、邪魔しやがって、それが、一〇年も一四年も続いてしまう。これが、不幸でなくてなんだ。俺は、非公式だけどIQは一三八ぐらいはある。それも、ヘビメタ騒音をやられている最中のIQだから。一一年目あたりか。

ともかく、普通に通うことができなくなってしまったというのがでかすぎる。毎日通うことができなくなっただけではなくて、一日でも無理なのである。一日でも、かなりむずかしい。交流会やオフ会、読書会などに出ることもできない。そういうからだになってしまった。
まあ、集合時間が決まってないなら行ける感じもするんだけど、集合時間はたいていの場合決まっている。そうすると、「ヘビメタ騒音の朝」とおなじ気分をあじわうわけで、やっぱり、道中、苦しい気分になる。ついた頃にはへこんでいるけど、まあ、明るく振る舞うわけ。けど、それは、本当のぼくじゃない。

ヘビメタ騒音が鳴らなければ、あるいは、きちがい兄貴が三ヶ月ですっぱりやめてくれれば……いま住んでいるところで鳴らすようにヘッドホンをして鳴らしてくれれば……そういうことはないわけ。普通の気分で暮らしていて普通に集合時間に行けるわけ。でもって、普通の気分で、ニコニコと人と接することができるわけ。けど、ヘビメタ騒音一四年という長い期間に、そういうものを、根底から失った。だから、でかい。けど、それは、言わなければ他人にはまったくわからないことで、言ってもしかたがないというものだ。そんなの、言われた方だって、「それは大変でしたね」と答えるしかない。で、一瞬楽になるかもしれないけど、「やられた経験」というのは、消えない。だから、そういうことで重くなっていく。


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なるべく明るいことを書きたいけど、人生上のいきさつで、こんなことになっていて、書けない。本当、長すぎるんだよな。ずっーーっとかたがつかなかった。かたがつかないうちに、「これからの人生を生きていく上で必要なこと」の大半を失ってしまった。だから、本当に、せめて、三ヶ月で、ヘビメタが鳴り止んでくれたらなと、本気で思う。普通の人じゃないんだよ。普通の人とちがってしまった。いい意味で言っているわけじゃない。生活の根本が変わってしまった。能力を普通に発揮できない状態になってしまった。普通に生活がまわっているというのが、ものすごく、重要なことなんだよな。


ともかく、自分で飯を作って自分で食べて、自分で片付けるとか、風呂に入るとか、洗濯をするとかそういうことで、けっこう、大変なんだよね。いまの体力だと。あとは、やっぱり、気分か。いま、これでも、かなり「うえ」のほうの気分だな。机の前に来て、タイプできる。まあ、こういう文章は、金にならない。もっと他のことをやるべきだというのはわかる。

案外、金儲けはぼくにとってそんなにむずかしいことではないかもしれない。けど、むずかしい部分もある。まあ、人脈か。(あー、いまは、比較的体調がいいから、こんなことを書いているけど、……)これで、体調がわるくなると、絶望的な気分になるんだよな。

まあ、「騒音サイコパス」は金にはならない。けど、ものすごく重要なことも書いてある。けど、この重要なことというのは、ひとによる。

まあ、金儲けは……あんまり「ねらわないで、気楽にやった方がいい」のかな。俺みたいな人間だと。


「ねらって、集中してやらなきゃダメだろ」という考え方もあるな。けど、あんまりねらいすぎると、動けなくなっちゃうからな。

まあ、いまは、体調がいい方なので、……。このレベルでいいからずっと、続いたらなぁ……。




2016年10月22日土曜日

ともかく、交流会自体は否定しないわけで、そこんところよろしく

いま、俺がめちゃくちゃにだるいんだよな。本当に、ベッドとトイレの往復も、相当にきついときがある。セミナーというか、交流会はいいんじゃないかな。けど、交流会に行くことを考えただけで、ヘビメタ騒音時代の記憶がおそってくるんだよな。俺の場合。

やっぱり、やみあがりみたいな状態というのがずっと続いている。すぐに風邪を引いちゃうようなところがある。だるくて動けない時間が長い。そういう時は、横になりながら破滅的な気分になる。さっきまで、病弱な人のための開運方法について考えていたのに、そんなのは、どうでもよくなる。きちがいヘビメタの冬の雰囲気がする。風邪を引いてからだがだるくて、試験がちかいのだけど、ヘビメタが鳴っているという魔の時刻の、からだの感じがよみがえる。

ヘビメタ騒音がなければ普通に「ものを教える」職業についてたと思うな。で、セミナー自体は、問題じゃないんだよ。ぼくのなかでイメージがわるいセミナーというのがあって、それは、アフィリエイト系のセミナーだ。うそ情報のセミナー。情報商材とおなじなんだよな。とくに、儲け話というのはよくないよ。もちろん、そうじゃない本当に役に立つセミナーもあるわけだから、セミナーによる。情報商材系、儲ける系のセミナーをやっている人はほとんどが、嘘情報を教えているだけだけど、それは、彼らがわるいのであって、セミナーをやっている人たち全部がわるいわけじゃない。そのくらいの違いはわかる。

あとは、ぼくは占いは好きなんだけど、テレビに出てた占いおばさんが嫌いで、どうしてああいう人のセミナー?に行くのに金を払う人がいるのかな?と疑問に思っていた。これも、別に、占い師がわるいんじゃなくて、あの占いおばさんがわるいわけ。

けど、ここで、そういうことを書くと、占い全体に偏見を持っているように思われるかもしれないなと思った。セミナーもおなじ。読書会もおなじ。オフ会もおなじ。交流会もおなじ。

けど、ぼくは、時間通りに会場に行くということが、どうしてもできない。これが、問題だ。きちがいヘビメタ騒音で生まれた負の効果にはいろいろあるけど、この時間通りに目的の場所に到達できないというのが、俺の足を引っぱる。これ、働くと言っても、おなじことが成り立ってしまう。これ、ヘビメタ騒音に最低でも六年間毎日やられた人じゃないとわからないと思うけど、こうなる。

本当は俺は交流会とかにも、気楽に行けた人間だったんじゃないかと思う。そこで、いろいろな良い人と知り合うこともできたんじゃないかと思う。睡眠回路をズタボロにされる、学歴をズタボロにされるということだけで、ものすごく不利なことになる。で、それだけじゃなくて、精神的にも、きつい。それは、電車を見るときついとか、駅のホーム立つと死にたくなるとか、そういう次元で苦しい。これ、ヘビメタ騒音にたたられながら、三年間学校に通ったんだけど、その時の記憶が、いまでも、生きている。「つい、この間」のように、苦しいのである。

これ、普通の人には絶対、わからないだろうから、俺が変なことを言っているようにしか、聞こえないと思う。「そんなの気にしすぎだよ」と思うだろ。けど、ちがうんだよ。ヘビメタ騒音におなじようにたたられている状態で、三年間、電車を使って通えば、気持ちがわかる。状態がわかる。

まあ、ともかく、交流会自体は否定しないわけで、そこんところよろしく。人による。やっぱり、思いやりがあるかどうかなんじゃないかと思う。おなじスピリチュアリズムでも、思いやりがある人の書いた本と、思いやりがない人の書いた本だとまったく受ける感じが違うんだよな。とくに、どうしようもない状態を経験してきた人に対する思いやりの有無は、文章全体に影響を与える。



2016年10月21日金曜日

セミナー自体は否定してない。幸運を身につけるセミナーで、実際にいいほうに回転し出す人もいる

俺、ひょっとして誤解されてんじゃないかなと思う。いい人とわるい人がいる。いいひとが開運セミナーをやっている場合にはよいのである。それだけ。高額といったけど、高額というのは、だいたい、三〇万ぐらいで、普通の飲み会にかかるぐらいのお金は、高額のうちに入ってないから。


貧乏な考え方をするから貧乏になるのであって、貧乏だから貧乏な考え方をするのではない……ということについて、数日前に書いたのだけど、ちょっと、誤解されているみたいだから、付け足し。




(注意)セミナーとか集まりをすべて否定しているわけではありません。いいひとのセミナーはいいし、わるい人のセミナーはわるいでしょう。ようするに、人による!! なんか、誤解されている感じがするけど、アマゾンアンリミテッドで、三人の女の人の本を読んだときに感じたことです。


それからここで言っている「セミナー商法」というのはアフィリエイト系のセミナー商法のことだ。アフィリエイト系のセミナーはやめておいた方がいい。情報商材とおなじだから。




たとえば、底辺労働をしている人が、職場で社長のふりをしていると社長になれますか? なれるのであればいいけど、なれないのであれば、むだな行動になってしまう。というか、職場で社長じゃないのにあたかも社長のようなふりをしたら、きらわれるでしょ。「なんだあいつ」と思われる可能性が高いでしょう。


けど、なんていうのかな? 人間というのは、「げんをかつぐ」といのがある。だから、行動を起こすときにお守りが必要だというのであれば、別に、お守りの効果は否定しない。そういうことなんだけど、わかってくれるかな。

まわるかどうか、というのは重要だし、この世は、なんていうのかな?まわしたもの勝ちみたいなところがある。善人が苦汁をなめて死んでいき、悪人がいい思いをしてしあわせに生きるということもある。一代限りだと、そういうことが言えてしまう。そりゃ、たましいというのものを想定して、生まれ変わりを想定すると、最終的にはバランスがとれるということを言えるのだけど。


ともかく、セミナー自体は否定してない。強運を身につけるセミナーで、実際にいいほうに回転し出す人もいる。こじんまりとしたら交流会ならそういうこともあるかもしれない。

ぼくは、ビジネス書やスピリチュアリズム系の本も読んでいたときがある。で、そういう期間が長い。一日に一〇冊ぐらい読んでたときもある。ともかく、本は好きだから。だから、その界隈、そういった本で、どういうことが言われているか、だいたいわかる。だから、特定の誰かの開運セミナーを批判しているわけじゃない。伝統的な考え方……について、ぼくがずーーっと考えてきたことを書いているわけで、特定の誰かを批判しているわけじゃありません。

積極思考ポジティブシンキングがものすごくはやったときがあるでしょ。けど、いまは、そんなにはやってない。積極思考で成功した人が少ないからだ。多くの人……俺のような経験がある人……は、積極思考について行けない部分があったのである。だから、そういう弱点みたいなものがある。


いまは、引きよせがはやっているけど、書いてあることを実行してもうまく行かないとか、書いてあることを実行しようと思ったけど、全然うまく行かない(実行すらできなかった)というようなことが、出てくる。だいたい、引きよせって、そのままの現象を引きよせと言い換えているだけだから。たとえば、パチンコが好きな人は、パチンコ屋に行く。

で、パチンコ屋には、パチンコが好きな人が集まっている。で、そこで、ちょっとでも人間関係ができれば、それは、「引きよせだ」ということになる。実際にパチンコ屋に行かなくても、たとえば、パチンコブログを書いていて、パチンコブログを読んだ人が、コメントを入れたとする。それも、引きよせだ。あるいは、たまたま起こったことも、引きよせなのである。たとえば、家がちかいというのも、引きよせなのである。親がおなじ地域に住んでいたということも、「引きよせ」なのである。

だいたい、そのうちに生まれるということ自体が、強烈な引きよせなのである。実際に何ごとかが生じたら、それが、偶然に起こったことなのか、ひきよせで起こったことなのか、区別することができない。要するに、なんとだって言えることなのだ。昔から、偶然なのか必然なのかという問題がある。ひきよせは、偶然じゃなくて、必然だと考える流れをくんだ流れなのである。一種の支流。

なんらかの事柄が発生した場合、それを必然というか、偶然というかは、言い方次第でなんとだって言えることなのである。だから、必然だといっても、はずれることはないし、偶然だといってもはずれることはない。ある事柄が発生した場合、それが、「ひきよせだ」と言っても、否定はできない。本当は、肯定もできないのだけど、ともかく、否定はできない。だから、これは、その人の考え方の問題だということになる。

人間が、理由を求めるのは、しかたがない。知的な生命体の宿命みたいなものだ。とくに、わるいことが起こった場合、どうしたって、「どうして自分が……」と思わずにはいられないところがある。他のだれだっていいのに、「どうして自分が……(こうなるのか)」ということに関しては、時にして、生命をかけた問いかけになるから、ものすごく関心があることになってしまうのである。理由なしではすまされない場合がある。もちろん、理由なしでは済まされないという状態におちいっているだけなんだけどね。


以降文章が続くはずだったんだけど、やめた。
あまりにも、考えることが多すぎると、だめだ。

ともかく、開運方法、強運を身につける方法に関しては、
成立条件と有効範囲があることがわかった。

ついてない人あるいは、ついてないと感じる人は、それなりの開運方法?がある。
一般論のほうは、普通の人の話だから。これは、たとえば、病人と普通の人はちがうという意味でちがう。たとえば、普通の人にはいいことでも、病人は無理なことがある。ジョギングが健康にいい……という話があったとする。で、ぼくはこれはけっこう疑っているのだけど、ともかく、そういうことは、一般に言われる。で、かなりの大病を煩っている人は、ジョギングなんてできないし、もし、無理してやったとしても、健康にはならない。逆に、倒れて、危機的な状況に陥ってしまうかもしれない。なので、たとえば、かなりの大病を煩っている人に、ジョギングを勧めるのは良いことではないかもしれない。それと同じように、弱っている人、不幸な人、貧乏な人に、普通の開運方法を勧めるのは、良くないかもしれない。……そういうこと。弱っている人、不幸な人、貧乏な人には、そういう人たち向けの、開運方法?があるのではないかと思う。

スピ系でいわれることが、ほっとんどおなじであるように、開運系でいわれることもほとんどおなじだよね。一般読み物的心理学でいわれることも、ほとんどおなじ。心理学の場合は、おなじであっていいと思うけど、本来ならいろいろあってもいい開運系で、おなじことが言われるのは、どうしてだろう。たとえば、開運系の作者が一〇〇人ぐらいいて、その一〇〇人が、一人一冊ずつ、一〇〇冊の本を書いたとする。で、その場合、その一〇〇冊に出てくる方法が、どれもこれもおなじということになる。定番というのがあるんだよな。で、定番を、ひとりひとりの作者が、自分の話として、話しているだけ。全部、基本はおなじ。だから、なんだというと、これは、ただで手に入る。本当に利用するか利用しないかの違いだ。で、だれでも、よくいわれていることは、一回ぐらいは実行したことがあるんじゃないかと思う。けど、普通は続かない。まあ、続く人もいるけど、それは、ものすごく少ないと思う。たとえば、開運関係の本を書いている人は、そういうひとは、続いた人なのだろう。

   *     *     *

苦しい人向けの、気楽にできる開運法を考えている。
けど、苦しい人は気分の波が激しいので、毎日そうするとか、続けてそうするということが、むずかしい。まあ、俺のことだけど。気分の波というか、体調の波なんだな。

(けど、いまは、そういう仕事をしているけど、一旗あげるつもりがある人は、その職場じゃなくて、ちがうところで社長のようにふるまうことがいい場合もあるかもしれない)




2016年10月19日水曜日

不幸量と愚痴係数(草稿)

人間というのは、生きていればいいこともあれば、わるいこともある。というわけで、とりあえず、普通の人が普通に生きている場合、不満を感じることが一〇回起きるとする。いいことも一〇回起きるとする。これは、一日で一〇回だから。で、不満を感じた場合、それを表現する場合と、表現しない場合にわける。表現する場合を「愚痴を言う」ということにする。さらに、愚痴係数」というものを考える。これは、個人に特有の数値で、どのくらい愚痴を言いやすいかという傾向を表すためのものだ。たとえば、愚痴係数1の人は、一日のなかで一〇回不満を感じる場合、一〇回愚痴を言う。愚痴係数〇・五の人は、一日のなかで一〇回不満を感じる場合、五回愚痴を言う。愚痴係数〇・一の人は、一日のなかで一〇回不満を感じる場合、一回愚痴を言う。ということにしておく。それで、一日のなかで、「不満かを信じることが起こる」回数は、人によってちがう。いままで、説明したのは、平均一〇回ということにしておくということで、あくまでも平均だ。不幸な人は一日に一〇〇回、三〇〇回、五〇〇回不幸なことが起きるかもしれない。きちがいヘビメタ騒音が、午後四時から午後一一時まで鳴っている場合であって、さらに、三〇回、「やめてくれ」と怒鳴り込んでも、相手がやめないときの「不満」は、不幸量一〇〇〇をこえる。とりあえず、不満量五〇〇〇ということにしておこう。ぼくの愚痴係数が〇・一で、普通の人よりも、不満係数が低くても、愚痴を言う回数が五〇〇になる。ちなみに、普通の人の愚痴係数は〇・五だとしておく。だから、普通の人の愚痴を言う回数は一日に五回ということになる。五回と、五〇〇回をくらべると、五〇〇回のほうが多いと言える。一〇〇倍も愚痴を言っていることになる。けど、それは、ぼくが「愚痴を言いやすい性格」だからではなくて、不満量が多いからだ。だから、実際不満量と、愚痴を言う回数が、直結しているわけではない。で、「不満を感じる」というのは、人によってちがう。たしかに、同じことをされても、「不満に感じる」人と「不満には感じない人」がいる。なので、不満を感じるかどうかは、実際の出来事に直結しているわけではない。が、しかし、だれもが「不満に感じること」というのはある。というよりも、なんていうのかな? 多くの人が不満に感じる傾向があるものというのがある。たとえば、「騒音」だ。この、「騒音」もそもそもが、不満に感じるからこそ、騒音だと思うわけで、音の物理量に直接対応しているわけではない。しかし、ある程度の傾向は出てくる。その音が、中立的な音であるならば、音のでかさと、不満を感じる回数あるいは、どれだけの人数が不満を感じるかということには、関係がある。「中立的」というのは、その人にとって、特別に聞きたい音ではないということを意味している。特別に聞きたい音なら、物理的にでかい音で鳴らしても、本人は、騒音とは感じない。気持ちがいい音なのである。でかければでかいほど、気持ちがよくなってしまうかもしれない。しかし、あまりにもでかい音に関しては、鼓膜が破けるとか、あるいは、そこまで行かなくても、一時的に耳が聞こえなくなったり、永続的に耳が聞こえにくくなったりするという性格がある。まあ、兄貴の場合、いわゆる「ヘビメタ難聴」になっていたわけで、そういう音で鳴らしていたということだ。きちがい兄貴がどれだけ言い訳しても、そういう証拠がある。兄貴の友達が兄貴の部屋に入ったときの、発言や、俺の友達が俺の部屋に入ったときの発言も証拠として、成り立つ。と言うわけで、きちがい兄貴は、物理的にそんなにでかくない音で鳴らしていたということにしたいのだろうけど、そういうことは、成り立たない。

ようするに、ここまで述べてきたことで言いたいことは、ぼくは、愚痴を言いにくい性格だったと言うことだ。実際に、学校に通っている七年間は、ずっと、ゴクゴク親しい人にしか、ヘビメタ騒音の愚痴を言ってない。で、きちがい兄貴が認めないところなのだけど、きちがい兄貴の態度はひどい。普通なら絶対にわかることなんだよ。実際、きちがい兄貴が、いま住んでいるところで、鳴らそうとしてないだろ。それは、きちがい兄貴も実は、自分が鳴らしていた音が、常識外れにでかい音だと言うことを認めているからだ。もし、俺(弟)がうるさい音で鳴らしていた、でかい音で鳴らしていたと言っているけど、本当はそんなにたいした音で鳴らしてないというのであれば、いま住んでいるところでも、たいした音ではないのだから、鳴らせばいいとずっと言っている。もう、何十年も前から言っているからな。で、その間ずっと鳴らしてないのである。一日に一分ですら、「そんなにでかい音ではない音」で鳴らしてない。これは、きちがい兄貴が本当は、自分が鳴らしていた音はでかい音だと言うことを、認識しているということを意味している。そういうところに、矛盾があるから、きちがい兄貴は、考えた方がいい。で、これ、どれだけ言っても、通じないんだよな。で、そういう「ちから」が働いて、鳴らしているときは、通じなかったんだよ。感覚がおなじなんだよ。いま、「そんな音で鳴らしてない」と言っている感覚と、当時どれだけ「鳴らすな」「静かにしろ」と言われても、「でかい音で鳴らしきった」感覚がおなじ。しくみがおなじ。心理的な力動がおなじ。おなじしくみで、言い分けてしているだけだから。おなじしくみで、「そんなんじゃない」「たいして鳴らしてない」といっているだけだから。おなじしくみが成り立っているだけ。そういうふうに言って無視して、鳴らしてたんだよ。そういう感覚で、どれだけこっちが、本気で言っても、きちがい兄貴が深刻に受けとめることがないまま、ずっと、きちがい兄貴にとって「自分が鳴らしたい音」で鳴らしてたんだよ。で、「自分が鳴らしたい音」というのは、非常識にでかい音だ。

出来事が生じたということと、それを不幸だと感じることの関係性は、相対的なものだ。主観が成り立っているから、人によって、おなじ出来事が生じた場合の解釈がちがうのである。けど、ある程度、人間として決まった反応を示すという傾向があるから、すべてにおいて、無制限に「相対的」とは言えない側面がある。まず、これを言いたい。

2016年10月18日火曜日

どれだけ兄貴がやったことでも、兄貴にとっては、まったく他人がやったこととおなじ

やっぱり、起きたあと「俺はどうなってしまうんだ」と言うことを考えるなぁ~~。はっきり言って、この時間はむだだ。完全にむだ。むだむだむだ。けど、「俺はどうなってしまうんだ」と考える時間が長い。長すぎる。本当にむだな時間なんだけど、やめるわけにはいかない。

どうしても、ヘビメタ騒音のことを考えてしまう。朝の光を見たとき、そうなる。朝の雰囲気というのは、きちがいヘビメタ騒音の朝の雰囲気そのものだ。で、これはたぶんぼくが生きている限り続くと思う。脳みそに、きざまれすぎ。若いときの脳に、きざまれたものは、なかなか消えないんだな。本当に、きちがい騒音できざまれた。きちがい兄貴はまったく気にしてないけど、きちがい兄貴が「好きな音でやって良い」という法はないんだよ。きちがい兄貴は、無理矢理そういうふうに思って、そうし続けたのだけど……。これ、本当は、ひとこと、言えばわかることなんだよ。ひとこと!!! そのひとことが、一四年間も通じない。それ以降も何十年と、伝わらない。本当に、自分がきちがい的な意地でやったことは、全部!!!!!……本当に全部が全部!!!……やってないと思っている状態だからな。頑固にそう思っている状態だ。で、やっているときも……まさに鳴らしている最中も……そういう状態なんだよな。だから、どれだけやったって、「ソンナノシラナイ」ということになる。どれだけ兄貴がやったことでも、兄貴にとっては、まったく他人がやったこととおなじなのである。だから、(いまの)自分は、知らないことなのである。他の人がやったことなのに、なんで、俺に文句を言ってくるんだ」みたいな気持ちがある。本人は、やってないつもりなので、そうなのである。まさに、鳴らしているときから……そうなんだよ。で、言われたら、言われた途端に、真っ赤な顔をして怒る。これも、親父とおなじで、どれだけ、「うるさいからやめてくれ」と言われても、理解しない。「うるさい」という感情がまったくわからない……という態度なのだ。自分が鳴らしている音が「物理的にでかい音だ」ということを、まず認めない。そこからなんだよ。じゃ、本当にわかってないのかというと、そうではないのだ。実際、いま、兄貴が住んでいるマンションでは、そういう音で鳴らせない。これは、一〇年、二〇年で、一分も鳴らせない。そういう音なのである。鳴らしてない、……あるいは鳴らせないということから考えて、物理的にでかい音だと言うことは、きちがい兄貴はわかっていたと判断するべきなのである。しかし、当時の兄貴には、それがわからない。どれだけ、何回言っても、……まるで親父のように……わからない。で、「まるで親父のように」と言ったって、他の人は、本当にわからない。うちのなかで、「親父」がどういう態度だった……どういうことをしたか、他の人にはまったくわからないようになっているのである。で、これも、親父自身は、「まったくつもりもないし、やってない」と思っているのである。ごく自然に、いつもいつも、「そういう態度」で「かならず、爆発していたのに」、本人は、つもりがないし、やってないのとおなじ気分でいるんだよな。で、そういう「うそ」が日常的に成り立っている。本当に、あれだけ、こだわって、理由もないのに、何回も何回も、やったことなのに、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」ってなる。で、やっているときから、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」って言いやがるんだよ。「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」と言って逆上すれば、それで、「やってないことになって、親父の言い分が通った」。……殺してしまうわけにはいかないのだから、そうなる。真実として、やったとしても、きちがい親父が「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!やってないやってない!!」と言って逆上してしまえば、親父のなかでは、「やってないのとおなじ」ということになる。認知、認識、記憶、どれをとっても、やってないのとおなじで、じっさいに「やってない」ということになってしまうのである。で、そうやって、やるんだよ。そうやって、意地を通して、わのわからないことをする。あるいは、こっちに、悪さを仕掛けてくるときも……おなじなんだよ。対象が違うだけだから。親父が、思いつきで、なにかを修理するというのも、親父が思いつきで、こっちに文句を言ってくる……八つ当たりをして逆上するというのも、まったくおなじなわけ。で、修理と言ったけど、こっちにとって、どうでもいい修理は、してもらっていいのだけど、こっちにとってどうでもよくない修理だと困るんだよ。「そういうふうにされると困る」ということがある。たくさんある。


   *     *     *

2016年10月16日日曜日

「感情」→「表現型」の一連の流れは、一対一に対応しているわけじゃない

楽しいから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ

このように説明できるのは、一部の現象だけだ。じゃ、なぜ、一部にしろ「笑うから楽しい」と思ってしまうのかということを説明しよう。実は、楽しいから笑う機会が多かったからこそ、笑うと楽しく感じるように「なった」のだ。

だから、楽しい→笑うという反応のほうが先だ。楽しい→笑うということを、小さいときから繰り返してきたので、笑うと楽しく感じるだけなのだ。だから、「楽しい→笑う」という連関のほうが先。じゃあ、なんで、楽しいと笑うのかということに関しては、人間はそうできているからそうなんだとしか言いようがない。

別に笑い顔を作ろうと思っているのわけではないのである。感情に対する顔の筋肉の反応が、そうさせる。顔の筋肉の反応を見て、人が、「笑っている」と判断しているだけなのだ。人がというのは他の人がということだ。本人が、笑い顔かどうか、あんまりわからないのである。

ただ、ごく自然に、楽しいときは、そういう筋肉の反応があるので、そうしているだけだ。けど、そういうことを繰り返していると、だいたい、こういうふうに筋肉を動かせば、「笑い顔」と言える表情になるんだなということを、「学習」するのである。


あと、もう一つ言っておこう。

悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ

これに関して言っておくと、人間というのは、悲しいから泣くだけではなく、痛くても泣く。要するに、泣くというのは、悲しいという感情だけに「対応」しているわけではない。

これも、泣くというのは、涙が出るという生理的な反応なのだけど、悲しいときには、そういうことがよく起こるので、そういう連関ができあがっているだけだ。泣くから、悲しいというのは、そういうことを多く繰り返してきた人間だからこそ、「感覚的に」わかる話なのである。

ところで、痛いから泣くのではなく、泣くから痛いのだということは、あまり言われない。しかし、人間は痛くても泣く。悲しいときだけ泣くわけじゃないのである。ここが、わかってないのである。「感情」→「表現型」の一連の流れは、一対一に対応しているわけじゃない。だから、「表現型」→「感情」は、主なものに関して言われるだけだ。たとえば、嬉し泣きというのがある。この場合は「嬉しい(感情)」→「泣く(表現型)」という連関がまず成り立っている。しかし、嬉しいから泣くのではなく、泣くから嬉しいのだとは言われない。「嬉しい」→「泣く」という反応がレアだからだ。

「表現型(理由)」→「感情(結果)」は、一対多の関係なので、以下のようなことも成り立たなければならない。

(一)悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ
(二)痛いから泣くのではなく、泣くから痛いのだ
(三)嬉しいから泣くのではなく、泣くから嬉しいのだ

けど、普通は
(一)悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ
としか言わない。

痛くないのに、泣くと痛く感じるだろうか? そんな感じもしなくない?
嬉しくないのに、泣くと嬉しくなるのだろうか? そんな感じもしなくない?

「表現型(理由)」→「感情(結果)」はやはり、倒錯している。
「感情(理由)」→「表現型(結果)」が、その人間なかで繰り返されてきたからこそ、そういう理論がなんとなく、正しく感じられるだけなのである。「感情(理由)」→「表現型(結果)」が、その人間なかで繰り返されてきたからこそ、「感情(理由)」→「表現型(結果)」という連関がすでにできあがっている。だから、「表現型(理由)」→「感情(結果)」もなんとなく、正しいのではないかと思えるだけなのである。

で、「悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しいのだ」流の言い替えが、「貧乏だから貧乏な考え方をするのではなく、貧乏な考え方をするから、貧乏になる」ということにも、成立してしまう。前回話したけど、生まれながらの貧富の差は、そこではまったく問題にされないのである。

ただ、「考え方」だけに、理由を求めている。「貧乏だから貧乏な考え方をするのではなく、貧乏な考え方をするから、貧乏になる」「楽しいことがあるから笑うのではなく、笑うから楽しいのだ」「不運だから不運だと感じるのではなく、不運だと感じるから不運になる」「笑う門には福来たり……笑っていると福が来る……福が来るから、笑うのではない)」……こういう言い方がはやる。

けど、こういう言い方は、それまでの文脈というのもを無視している。だから、一見正しそうに見えても、正しくない。まあ、「運・不運」とか「幸福・不幸」とか「福相・貧相」ということになると、「泣く」とか「笑う」というような表現型とは違った話になるんだよ。それこそ、「なんとだって言える」範囲が広くなる。だからこそ、「感じ方の問題だ」というのはわかる。けど、それもその人の人生上に起こった出来事というのを無視してはいけないのである。

この「笑っていれば幸福になれる」というのは、なんとなく正しいそうなんだけど、ものすごくつらい思いをしている人がやると、そんなにいいことにならない。すでに元気な人がやることなのである。あるいは、普通のことが普通にできている人がやることなのである。弱っている人が、そういうことをしたら、本当に気の毒な話になる。深く自分の心にふれあわなければならないのである。そういう時間が必要なのである。それなのに、「自分は幸福なんだ」「自分は楽しいんだ」「笑い顔笑い顔」と自分を無理矢理励ますと、不自然なことになってしまう。よけいにつらくなってしまう。



補足

「貧相」と言ったところで、なにが「貧相」なのか定義がない。Aという人とBという人がいて、Aという人が「Bさんは貧相だ」と決め付けているだけなのである。鼻の高さが、何センチ以上だと福相、それ以下だと貧相と決まっているわけではない。「なんとなく、そういうふうに感じる」と言うだけの話しだ。




2016年10月14日金曜日

まじ、やばいわぁ~~ この雰囲気~~やばい。

まじ、やばいわぁ~~
この雰囲気~~やばい。


やっぱりヘビメタ騒音で人生がない。この二〇年俺はなにをやってたんだ。

なんけ、げそーーっとくる。

「ナニワの金融道」を読んだのが原因か。いや、いつものことだ。このままだと、このまま死ぬ。
やっぱり風呂に入っていても、文章を書いていても、英語の勉強をしていても、全部、きちがいヘビメタ騒音の感じがする。なっている感じがする。そして、疲弊して人生がなかった。きちがい兄貴の態度に憤慨する。怒りっぱなし。普段、他のことをしていても、きちがい兄貴の態度を思い出して、一人で頭にきている。この生活……何十年も前からだけど……この生活は……きちがいヘビメタ騒音生活の延長だ。疲労をそのまま受け継いで続いている。死にたい。いや、より良く生きたい。そりゃ、そうなんだが……。

2016年10月13日木曜日

思いやりのある人なら、生まれながらの差というものを無視したりしない

(注意)セミナーとか集まりをすべて否定しているわけではありません。いいひとのセミナーはいいし、わるい人のセミナーはわるいでしょう。ようするに、人による!! なんか、誤解されている感じがするけど、アマゾンアンリミテッドで、女の人の本を読んだときに感じたことです。

それからここで言っている「セミナー商法」というのはアフィリエイト系のセミナー商法が根底にあります。

たとえば、底辺労働をしている人が、職場で社長のふりをしていると社長になれますか? なれるのであればいいけど、なれないのであれば、むだな行動になってしまう。というか、職場で社長じゃないのにあたかも社長のようなふりをしたら、きらわれるでしょ。「なんだあいつ」と思われる可能性が高いでしょう。

けど、なんていうのかな? 人間というのは、「げんをかつぐ」といのがある。だから、行動を起こすときにお守りが必要だというのであれば、別に、お守りの効果は否定しない。そういうことなんだけど、わかってくれるかな。

まわるかどうか、というのは重要だし、この世は、なんていうのかな?まわしたもの勝ちみたいなところがある。善人が苦汁をなめて死んでいき、悪人がいい思いをしてしあわせに生きるということもある。一代限りだと、そういうことが言えてしまう。そりゃ、たましいというのものを想定して、生まれ変わりを想定すると、最終的にはバランスがとれるということを言えるのだけど。


   *     *     *


けど、やっぱり、神様はいじわるだな。俺にこんな家族、こんな無理ゲーを押し付けやがって。あの気持ちは、ない。きちがい兄貴のヘビメタにさらされているときの、あの気持ちはない。明日、自分にとって大切な試験があるという日、一分も静かにしてくれなかったからな。きちがい兄貴よ。何回言ったと思っているんだよ??

倒錯理論について、ちょっと説明をしておく。これはもう、説明したことなんだけど、もうちょっとわかりやすく説明したい。

問題なのは、貧乏だから「貧相」になったのではなく、「貧相」だから、貧乏になったのだと言う考え方だ。「貧相」じゃなくても、たとえば、「貧乏になる考え方」でもいい。

彼ら曰く。「貧乏だから、貧乏になる考え方をしているのではなく、貧乏になる考え方をしているから貧乏になったのだ」。こういうことを言う人たちがいる。で、こういう人たちは、そろって、スピリチュアリズム系のことも言う。けど、彼らのなかにながれているのは、思いやりじゃない。貧乏になっている人を救いたいわけでもない。自分が、儲けたいだけだ。たとえ、幸運の長財布の説明がなくても、そういう説明をする人は、実は、相手のことを思ってない。もう、そういう考え方自体が相手のことを無視している。だから、これは、リトマス試験紙のように使える。

どういうことかというと、どういう家に生まれたか?ということを無視しているからだ。たとえば、「貧乏だから、貧乏になる考え方をしているのではなく、貧乏になる考え方をしているから貧乏になったのだ」ということを言う場合は、人生の最初の差を無視している。こういう無視が成り立っているということが問題なのだ。そして、その人のことを本当には思ってないということが、そこにあらわれている。こういう倒錯理論は、一見正しそうに見える。しかし、間違っている。お金持ちの家に生まれたか、それとも、お金がないうちに生まれたかというのは、ものすごく、大事な差だ。考え方以前の問題なのである。事実!!考え方以前の問題がある。そういう、大切な部分をないがしろにしている。そして、けっきょくは、「貧乏になる考え方をしている人」を責めている。この「貧乏になる考え方をしている人」というのは、けっきょくのところ「いま現在貧乏な人」なのだ。だから、困っている人を、さらに責めるということになる。「いまおまえが困っているのは、おまえの考え方が悪いからだ」……こういうことを言っているのである。

生まれたときに、差がある。ここを無視して、「考え方」が重要だという。これは、レトリック。生まれ育った環境を無視して、「考え方」だけを、問題にする。


わからなくてもわかっているふりをする。そうすると、わかるようになる……そんなことがありますか? 残念ながら、わかるように努力しないと、わかるようにはなりません。わかるという体験をしないと、わかるようにはなりません。

で、まあ、貧乏云々の話に戻します。生まれた家、子供時代、より高度な教育を受けられる環境……こういうことが、その人の人生に影響を与えているということを、最初から無視して、貧乏な人は、貧乏になるように考えたから悪いんだというようなことを言う人は、根本的に信頼できない。

思いやりのある人なら、生まれながらの差というものを無視したりしない。そういう無視が、どれだけ、無慈悲な無視であるか知っているから。

2016年10月12日水曜日

ついているついてるーーーーーー。はぁーむなしい。

パチンコには行かないけど、いまの俺が苦しい。いまの俺が苦しい。これ、おなじなんだよな。ヘビメタをやられていた頃の状態とおなじだ。今朝、「あいつ、本当にあれだけやって、やったつもりがなかったんだな」「まるで悪気がなかったんだな」「どれだけやっても、悪気がなくて、なにもやってないと思ってたんだな」と思ったら、めちゃくちゃに憂鬱な状態になった。これ、この部屋でヘビメタをやられていた一九歳の頃とおなじ気分だ。

あー、お母さん。あれから何年経ったんだ? 俺が一九歳の時のきちがい兄貴なんて、本当に絶対にやめてくれなかったからな。そして、この空間。この空間。やるせないーー。やるせないーー。まあ、「ニコニコ感謝法」でやれる人はドンドンやってくれ。俺には無理だ。いま、ものすごく変な気分になっている。これは、やばい。これはやばい。……やばいじゃなくて「俺は運がいい」「ついてるついてる」か? ついているついてるーーーーーー。はぁーむなしい。

ともかく、苦しかった。

気分を変えるために、運動でもするかな。それにしても、だましだまし進んでいても、いつか終わりが来る。まあ、ワクワクしていても、終わりは来るけどね。それにしても、ぼくの人生は苦しい。きちがいヘビメタ騒音で苦しい。きちがい兄貴よ!! 兄貴はあれだけこだわって、まったくやったつもりがないのかよ???

2016年10月11日火曜日

ああいう暮らしを六年間してみろ。どこにも通えない人になるから

まあ、正直言うとつらいわけよ。あ~~、本当にヘビメタ騒音がつらかった。これ、俺だけの話で、他の人とは共有できない話しなんだよね。戦争がつらかったとか、地震でつらかったとかそういう話しじゃない。で、これが、一度の話しじゃなくて、ずっと続いているというのがつらい。たとえば、六ヶ月で本当に鳴り止んでくれたらな。きちがい兄貴のことを、きちがいみたいに書いているけど、本当は、単純に鳴らしたかったから、鳴らしたんだよ。きちがい兄貴は、鳴らしたかったから、鳴らした。それだけなんだよ。自分が鳴らしたい音で鳴らしたかった。それだけ。やめることは考えてなかったわけ。ヘッドホンをすることは考えていなかったわけ。どうしてかというと、「自分が鳴らしたい音で鳴らしたい」というこだわりが、他の人に対する配慮をこえていたから。「うち」である限り、「他の人」に対する配慮というのは、根本的にゼロにちかいほどない。絶対にやって良いことをやっているつもりでいる。「よそ」の人には気を遣うけど「うち」の人には気を遣わなくていい。そういう思い込みだけだ。だから、本人はまったく悪いことをしたつもりがない。どれだけやってもあたりまえだ思っていて、その思い込みが、とれない。ものすごく強い思い込みでとれない。自分が鳴らしたい音というのは、決まっていて、それ以外の音にするつもりはないわけ。要するに、ヘッドホンをしてしまうと、ヘッドホンでどれだけでかい音で鳴らしても、「自分が鳴らしたい音」ではないわけ。で、「自分が鳴らしたい音」とちょっとでも違うだめなわけ。だから、「自分が鳴らしたい音」以外の音では鳴らさなかった。きちがい兄貴が……最大限!!!最大限!!!最大限!!!最大限!!!最大限!!!……ゆずって、ゆずってゆずって、ゆずってゆずって、ゆずってやった音も「自分が鳴らしたい音」からはずれ音じゃないんだよ。だから、きちがい的などけちぶりを発揮する。音量でいえば、一〇〇の音量から、九九・九九ぐらいの音に落としてやっただけで、ものすごくゆずってやったつもりになる。そういうことを、一日に五分やってやれば、もう、一日中鳴らさないで静かにしてやったのとおなじぐらいに静かにしてやったと思ってしまう。これは、本当に自動思考で、考えるまでもなくそう感じてしまう。で、その感じ方は絶対的で、「こっち」がなにを言っても、変わらないんだよ。だから、きちがい兄貴は、入学試験の冬休みに、一日に一四時間鳴らせるなら、一四時間、「自分が鳴らしたい音」で鳴らして、「ものすごく静かにしてやった」「あり得ないぐらい、ゆずってやった」「全部静かにしてやった」と思っている状態なんだよ。で、一四時間のうち、一〇回、二〇回、「もうすぐ入試だからやめてくれ」と、こっちが、言っても、なにも感じないわけ。「静かにしてやった」「静かにしてやったのに、あとからあとから、がたがたうるさい」と思うわけ。うるさくしているやつなのに、「がたがた、言ってきてうるさい」ぐらいにしか感じない。もう、自分は十分に静かにしてやっているのだから、静かにしてやる必要がない。「がたがた言ってくる方が悪い」としか思えない。で、本当にそういう病気。そういう催眠術にかかっている。入試の時ですらそうなのだから、他の日は、当然、ずっと鳴らしている。なんと思ってない。で、きちがい兄貴はそうなんだけど、こっちは、……あのときの破滅感がずっと残っている。きちがい兄貴の「うちでの」頑固さや「感じ方」がわからない人にとっては、「そんなの、言えば静かにしてくれるだろ」ぐらいの、単純で浅い問題なわけ。「なに、ずっとぐちぐち言っているんだよ」と思うわけ。けど、頑固さが違うんだよね。で、もうひとり、きちがい兄貴の「うちでの」頑固さや「感じ方」がわからない人がいて、それが、兄貴自身なんだよ。これも、他の人にはわからないことなんだろうけど、事実そうなんだよ。そして、たぶん、これも、兄貴自身がわかってない。自分がこだわってこだわって、やったことなのに、完全に「他人事」であるわけ。で、それは、やっているときから、そういう感じなんだよ。だから、いまだに、「自分には言い分がある」みたいなことを言っている。じゃあ、一日に何時間鳴らさないで静かにしてくれたんだ?と言われると、答えられない。むすーーっとして、黙りこくるだけ。俺から、「いま住んでいるところで、鳴らせるなら鳴らしてみろ」と言われても、一日に一分も鳴らさない。鳴らせる音じゃないから鳴らせない。嫁さんに聞かれるとまずいから、鳴らせない。嫁さんや嫁さんの家族に迷惑をかけると悪いから……一日に一分だって、当時、鳴らしていた音で鳴らせない。だから、本当は、自分の音がはた迷惑なほど、うるさい音だということを知っている。「よその人には」一分もできない……そういうことを、毎日、全部の時間やっていた……可能なすべての時間を使って鳴らしていた……ということが、根本のところでわかってない。「うち」で起こったことに関しては、当時の感覚のままなのである。全部が全部、そういうことだから……。で、基本的に嘘つきなので、「弟さんが言っていることは本当なの?」と聞かれると、「そんなんじゃない!!そんなんじゃない!!」と答える。「そんなに鳴らしてない」「そんなでかい音じゃない」と答える。じゃあ、当時鳴らしていた音で鳴らしてみろと言われると、できないんだよ。一年間で一分も鳴らせない。自分がこだわりつくして鳴らしていた音が、どれだけはた迷惑な音か、本当は知っている。けど、自分にとって都合が悪いことを言われたら、怒って、顔を真っ赤にして、ムスーーっとして、なにも答えないんだよ。不機嫌な状態になって、黙りこくる。で、自分の寝室に行ってしまう。で、寝たら、もう、そういう「話し合いがあった」ということを忘れてしまう。で、毎日おなじなんだよ。いまは、鳴らしてない状態だから、問題はないけど、鳴らしている状態でも、そうなんだよ。毎日毎日、すべての可能な時間、自分が鳴らしているときも、おなじ。いま住んでいるところで鳴らしてないから、そういう、性格があんまり問題にならないだけ。鳴らしてないわけだから……自分にとって不都合なことを言われたら、黙りこくって、自分の部屋に入って寝てしまう……ということは、それほど問題にならない。けど、毎日、頑固に鳴らしている状態で……そういう性格があらわれると、問題が発生する。よそじゃ一年間で一分も鳴らせないような、でかい音で鳴らしているのに、「鳴らさないで静かにしてくれ」ということを言われると、黙りこくって、自分の部屋に入って、ドカドカ鳴らしてしまうから、問題が発生する。で、「鳴らさないで静かにしてくれ」と言われて!!!腹を立てて鳴らしているとき、「まったく鳴らしてない」つもりなんだよ。こういう、きちがい的なところがある。「鳴らさないで静かにしてくれ」と注意されたあと、自分の部屋に入って、一時間、どかどかでかい音で鳴らしたら、一時間でかい音で鳴らしたということを認識しているべきなのに、注意されたあと一時間でかい音で鳴らしているにもかかわらず、注意されたあと、自分は鳴らしてないと思っている状態が成立してしまう。そういうところがある。これが、二時間でも、一〇時間でも、おなじなんだよ。注意されたあと、一時間、二時間、三時間、四時間、五時間、六時間、七時間、八時間、九時間、一〇時間と、……入学試験の三日前に鳴らしても、……本人の主観としては、注意されたあと、まったく鳴らさなかったのとおなじなのである。注意されて、むすっとしたあと、黙りこくったまま、二階の自分の部屋に入って、普段通りに鳴らしても、鳴らしたつもりが生じない。注意されて怒ったあと、普段通りに鳴らしているのに、「がまんしてやった」と思っている。一〇時間鳴らすのと、まったく鳴らさないのとでは、ものすごい違いがあるのに、きちがい兄貴のなかでは、両者はおなじことなのだ。だから、「しずかにてやった」と思っている。入学試験の前に、注意されたあと、一〇時間も鳴らして!!!……こだわりつくしたでかい音で鳴らして……静かにしてやったと思っている……これがきちがい兄貴なんだよ。きちがい兄貴の毎日なんだよ。きちがい兄貴の毎日の感覚なんだよ。それが、一四年間続いて、本当に困った。これ、最初の六年間でおしまいだから。六年間毎日で、俺がどれだけがんばっても、おしまいだから、最初の六年間毎日で、俺が、どれだけがんばっても、無職にならざるを得ない状態になる。働けないし、進学もできない。普通の「通勤通学」ができない。どれだけどれだけ、がんばっても、通勤通学ができない状態になる。理由を知らない他の人から見れば、ぼくが、勝手にサボって、勝手に引きこもっているように見える。もう、全部そうだよ。ああいう暮らしを六年間してみろ。どこにも通えない人になるから。

2016年10月8日土曜日

「感謝感謝」から差別主義まで、そんなに距離が離れていない

スピ系の本を読んでどうして落ち込むのかわかってきた。

最初の方はいいことが書いてあるんだよ。けど、だんだん、悪いことが書いてある。

たとえば、「べき」の暴君にやられる※べき※ではないということがある。このべきの暴君というのは、心理学的な一般読み物系の用語だけど、同じことが書いてある。「がんばる必要はない」「本当に必要なことは楽しみながら、ワクワクしながらすることができる」「がんばらなければならないは、無理をしているから」「がんばらなければならなくなるのは、自分の本当の気持ちに逆らうことをしているから」……というようなことが、書いてある。

しかし、あとの方になってくると、「運を引きよせることが必要だ」ということを言い出したりする。「運を引きよせる」ためには、けっきょく、がんばらなければならないのである。「流れを変える」ために、いろいろなことをしなければならなくなる。けっきょく、そういうめんどうくさいをことしなければならないというような気分にさせられるのである。がんばる必要はなかったんじゃないのか?


あとは、感謝だ。すべてのことに感謝しなければならないのである。しかし、ここでも、最初に言っていたこととはちがうことが、出てくる。たとえば、「波動が悪い人は避けなければならない」のである。何事にも感謝するべきなのではなかったのか? その主張に従うなら、波動が悪い人に出会ったということも、感謝するべきなのである。

「すべてのことに感謝」ということを語っていた時は、たとえば、事故に遭っても感謝するというようなことを、語っていたじゃないか。足を折ったら、「ここで足が折れてよかった。他のところで折れてたらもっと困っただろから」と思わなければならないのである。足を折っても「こういうことをすると足が折れるので、次からはこういうふうにして足を折ることを避けよう」と思わなければならないのである。「よかった」と言うと、脳がだまされて、「よかった」と思ってしまうと主張していたではないか。

しかし、ページを読み進めていくと、「態度の悪い人は、悪い波動を出しているから、避けるべきだ」というようなことが書かれているのである。どんなことも、悪いことではなく、悪いことだと受けとめるのは、その人の受けとめ方の問題なのではなかったのか? 

しかも、「態度が悪い(人を避けろということ)」は、よくわかるけど、「波動」とか言い出す。最初の方で「感謝」とか言っておいて、あとの方になると「悪い波動を出している人は避けろ」とかそういう話になる。悪い波動を出している人にも感謝するのが、すじではないのか? 最初の方では、そう言ってた。悪いことには意味があるのではなかったのか? 最初の方では、悪いことにも意味があると言ってた。悪いことが起こっても、感謝して「脳を書き換える」「脳に上書きする」のではなかったのか?

たしかに、最初の方ではそう言ってたのに、あとの方になってくると「悪い波動を避けろ」とかそういう話になってしまうのである。実際に自分に悪いことをしてきた人を悪い人だと認識するのはかまわないけど、実際に自分に悪いことをしてこない人でも、悪い人になってしまうのである。たとえば、電車の中で悪い波動を出している人に会うことさえ、なるべく避けるべきことになる。悪い波動を出しているかどうかというのは本当はわからない。「あの人は悪い波動を出している」と感じる人がそう感じているだけかもしれないのである。しかし、「運をよくする」とかそういうことにこだわり出すと、「悪い波動を出す人は避ける」べきだというような狭い考え方に陥ってしまうのである。最初は、「悪いことが起こっても、よいことが起こったと考えよう」みたいなことを言ってたのに……。

たとえば、元気がない人は、元気がない波動を出している。元気がない人に近づくと、元気をうばわれる……だから、元気がない人には近づくべきではない……というような話になる。それだけではなくて、たとえば、きたない服を着ている人には近づくべきではないという話になる。きたない服というのは、物理的にきたない服ではなくても、きたない服に分類されることがある。たとえば、よれよれの服は、きたない服なのである。実際には、洗濯してあって、物理的にきれいな服であったとしても、よれよれの服はきたない服として認識されてしまうのである。どうしてかというと、「なんとなくきたない」と感じてしまうからだ。波動とかそういうことを言い出すとそういうことになる。たとえば、よれよれの服を着ている人は、貧乏で、お金のない波動を出している。お金の運が逃げるから、近づくべきではない……こんなふうになってくる。本の作者は考えてないけど、たとえば、うつ病の人が読んでいるかもしれない。うつ病の人だって元気になりたいわけだから。

で、たとえば、うつ病の人が、「憂鬱そうな人は避けるべきだ」という文章を読んだ場合どう感じるかというと、「自分は避けられる人間だ」と感じてしまうのである。そりゃ、そうだろう。「憂鬱な波動を出している人には近づくべきではない」と多くの人が考えるなら、憂鬱な波動を出している?自分は、多くの人から避けられると考えて当然だ。だから、憂鬱な人が、この手のスピ系の本を読むと、どこかで、気持ちが重たくなるはずなのである。

何事にも感謝とか言っておいて、最後の方になると、すごい選別思想みたいなものが出てくる。実は、これは、選別思想じゃなくて、「けがれ」の変形なのである。「けがれ」と「ことだま」はプリミティブな感情で、現代人にもある。だから、通りやすいのである。読んでいて納得してしまう部分がある。

たとえ、きたない服を着ている人でも、憂鬱な人でも、元気がない人でも、「けがれ」と「ことだま」の思想は持っている。だから、……けがれていると避けられるほうの感情だけではなくて、けがれている人を避ける方の感情も持っている。が、しかし、「感謝感謝」と言っておいて、結論が、これなんだからな。元気がない人というのは、「け」が「かれてる」状態なのである。なので、「けがれている」……「けがれているひと」には近づくな……「けがれているひと」が触ったものは触るな……こういうことになるのに、あと一歩しかない。だから、「感謝感謝」「どんなことにも感謝」「悪いことが起こっても感謝」から、ある種の「けがれ差別主義」まで、そんなに距離が離れていない。というか、むしろ、表裏一体?

自分に対して悪いことをしてくる人……たとえば、ヘビメタ騒音を出して絶対にゆずらない人……ではなくて、ただ単に元気がない人に対してどういう態度をとるべきかというと、そういう元気がない人も思わず元気になってしまうような態度をとるべきなのだ。元気がない人が、自分に会うと元気になってしまうような人を目指すべきだろう。元気をうばわれるのではなくて、元気をあげられると考えるべきなのだ。感謝感謝と言っているのだから、元気がない人にも感謝するべきだろう。電車の中で元気がない人に出会ったのは(見かけたのは)悪いことではなくて、よいことなのではないか。「元気がない人に出会えてよかったな」と脳をだまして言い換えるべきなのではないか。もちろん、これは、「べき」論だ。だから、別にそういうことを目指す必要はない。ただ、「感謝感謝」という考え方に賛成していた人は、やはり、元気がない人に出会っても、それを悪いことだとはとらえずに、よいことだととらえて、感謝するべきなのである。

タイトルからここまで、ずっと「べき」論を言ってきたのである。どれだけ「べき」いう言葉が使われているか数えてみればいい。(俺、いまの時点で数えてないけど)。

元気がない人は避ける人になるよりも、元気がない人に元気をあげることができる人になった方がいいんじゃないのということを言いたい。「感謝感謝」という考えにこだわるのであれば……という条件付きだけど。


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「わくわく」と「感謝感謝」「鏡の法則」「引きよせの法則」だと、「わくわく」の方がいい。

けがれるの「け」についてちょっとだけ説明をしておこう。「け」を漢字で書くと「気」になる。内側が、メではなくて、米のほうなんだけどね。この場合の「気」というのはなにを意味しているかというと、「生命力」を意味しているのである。「け」が枯れる状態というのは、「生命力」が枯れる状態なのである。


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この、「脳」をだますというのは、エセ科学かもしれない。「脳」をだますというのはよく言われることだけど、別に検証されたわけではない。すくなくても、ぼくの知っている範囲では検証されていない。検証されたとしても、統計的な差でしかないと思う。あとで、主観をアンケートに書くとかそういうことをもとにした、検証でしかないと思う。

それから、たとえば、痛さを抱えながら、ずっと「よかった」と思うことができるのかどうか、わからない。わりと痛みが持続する場合はどうなんだろうな? ずっと、「虫歯になってよかった」と頭の中で言い続けるのだろうか? それで、本当に「虫歯になってよかった」と考えることができるのだろうか。


2016年10月7日金曜日

ぼくの冒険はここから始まる

どのみちぼくは好きなことしかしないから、これからも好きなことをして暮らしていこうと思う。けっきょく、好きなことしかしない。……しかし、キチガイ兄貴のように、他人を犠牲にしてやりたいことをやろうというのではない。そりゃ、俺は、さんざんやられたからね。どれだけ、腹が立つか!わかる。……本当に、あいつらはおかしいんだよな。絶対につたわらないはずがないのに、そのときは、つたわらないんだよね。どれだけ絶叫して、何十回言っても、まったくなにもつたわらない。で、こういう態度というのは、実際に目の当たりにした人しかわからないのではないかと思う。だから、「家族で相談すればいい」「ちゃんと言えばわかってくれる」など言われてしまうわけだから。言われるのは、「ぼく」ね。「言われてしまう」と書いてあるのだから、いちいち誰が言われるか書かなくてもわかるよね。

俺は好きなことしかしないという宣言をした。けど、実際にどういうことをするのかということに関しては、たぶん、ここには書かない。

ぼくの冒険はここから始まる。

ヘビメタ騒音に関してだって、俺が書かなきゃ、誰も書けないだろ。俺は、他の誰かが書けることを書いているわけじゃない。たとえ、ネガティブだと言われても、書かなきゃならないのである。この世で実際にあったことだしな。けど、フィクションにしておかなければならないのである。どうしてかというと、フィクションにしておかなければ、自由な文章を書けないという問題があるからだ。実際、どういう文章が書けなくなるかということに関しては、ちょっと考えればわかることだと思う。

これは、これで、ライフワークとして取り組むつもりだから、他の人から「ネガティブだ」「暗い」と言われても、書き続けるよ。

しかし、「本当に疲れたな」というのはある。ヘビメタ騒音をやられて、本当に疲れたよ。あの生活は地獄だ。で、いまでも、朝起きたとき、部屋の中を移動しているとき、ドアを開けるとき、道を歩いているとき、自転車に乗っているとき、「あの生活」を思い出してしまうのである。これは、本当につらい。本当にキチガイ兄貴なんて、適当でいい加減で、しつこいよな。

あのキチガイ的なつたわらなさと、キチガイ的な意地はなんだ? 絶対にやめない。絶対にでかい音なのに、でかい音だということを、最後の最後まで、認めなかった。そういうことを、平気でする。まったく気にしてない。兄貴の部屋に遊びにきた兄貴の友達が「こんな音で鳴らしていたら、弟さんがかわいそうだ」ということを言ったのに、その友だちがいる間も、その友達が帰ったあとも、ずっと、普段通りに、ちょっとだけ来た人が「こんな音で鳴らしていたら、弟さんがかわいそうだ」と思うようなでかい音で鳴らしていた。一緒に住んでいる人間がこれなのである。横の部屋で、可能な限りでかい音で、可能な限り長い時間、絶対の意地でヘビメタを鳴らすのである。

どれだけ言われても、ぜんぜん気にしない。それが兄貴の態度だったんだ。その時だけではなくて、毎日毎日、そういう態度で、毎時間毎時間鳴らしてた。一日に一分もゆずってくれなかったというのが本当の話だ。しつこくなるのは、俺がどれだけ言っても、キチガイ兄貴がまったく認めなかったからだ。この認めなさがひどいんだよな。人間とは思えない認めなさで、ふつーーーに、ひどいことをやりやがる。しかも、本人は一分もやったことがないつもりなのである。「まったくやってない」と思っているのである。こんなのない。


まあ、ともかく、俺は自分がやりたいことしかしないと誓った。


ネガティブな文書(本)は存在価値がないかというと、存在価値はある。かならず、それを必要としている人たちがいる。たとえネガティブであっても、問題が問題であれば、問題を理解するために、それが必要になる。ぼくは、かつて、岸田秀の本を読んでいるときに救われた。この人は、まあフロイト派の心理学者だ。岸田秀は、みずからが神経症者だと言っている。

で、神経症に関してフロイトの精神分析的な立場からいろいろなことを述べている。岸田秀と彼の母親の関係についてめちゃくちゃにネガティブなことを書いているのである。けど、それが、ものすごく役に立った。「そういうことなのか」と腑に落ちることが多かった。それまでは、きちがい親父の行動を説明することができなかった。岸田秀を読んで、フロイトを読んではじめて、きちがい親父の行動を説明できた。「きちがい親父という不可解な現象」を説明することができた。不可解な現象が説明できる現象になった。それまでは、なんとなくわかっていたのだけど、言語化することができなかったのである。


まあ、いいや。ともかく、ぼくは岸田秀の本によってすくわれたのだ。
たとえ、ネガティブでも、存在意義はある。

価値がわからない人は価値がわからないけど、それはそれでいい。その人の人生なのだから。その人の人生のなかで、あんまりわからないことなのだから。これは、わからないから悪いと言っているのではなくて、要するに、「かかわりがなかった」ことなのである。かかわりがあったひとには、わかる。それだけ。


   *     *     *

やりたいことって八割が金儲け。あとは、女か。

にしても、疲れた。ワクワクできない。
長い間ワクワクしてない。ヘビメタ騒音が始まった一一歳の時からずっと苦しい。
苦しいまま年を取って、最後には、アパートの一室で……。

辻潤って知ってる? 辻潤の作品はいいよ。


   *     *     *

俺はどうすればいいんだろう。
本当にヘビメタ以来、ずっとつかれている。
けっこうさみしい。追い詰められてしまった。
きちがいヘビメタがずっと鳴っている環境……どれだけなにを言っても、きちがいヘビメタがずっと鳴っている環境のなかで疲弊してしまった。もう、どうにもなんねぇ。


   *     *     *

金の制限がなければやりたいことはある。ハングライダーで空を飛びたい。あれは、もう、制限されちゃっているのかな。パラグライダーよりもいいんだよな。飛行機の操縦はどうでもいいや。
やっぱり、好きな女と京都あたりに行きたいな。
ヘビメタ騒音でぐたーーーっときていても、気にしない女。俺はすぐぐたーーっとなっちゃうからね。本当に、苦しかった。毎日のヘビメタが苦しかった。何度言っても、一分もやめてくれなかった。なんで俺だけヘビメタ騒音のハンディがあるんだよ? そんなハンディがなければ、楽勝だったのに……。

2016年10月5日水曜日

一〇〇%やりきれば、一〇〇%やってないということになってしまうのである

日中からだがだるかったので、「俺はもうダメだ」と思いながら横になっていた。横になっていれば楽かというと、楽じゃない。昨日の夜から、けっこう精神的に不安定だったな。鼻を蚊に刺された。まだ、蚊がいやがる。今日なんて、日中三二・五度あったからな。俺の部屋。
けど、まあ、人間はやったことでしか評価されない。「ヘビメタ騒音がなければできた」と言ってもしかたがない。けど、長い間!押し付けられすぎ。半年で終わるべきだったんだよ。完全に、一日に一分も鳴らせない状態になるべきだった。いまとおなじ状態なのだから「できない」わけはないだろ。けど、当時のきちがい兄貴は、そんなの、空想の話しとしてもあり得ないことだと思っていたんだよ。自分が、一分でも本当に静かにさせられそうになったら、顔を真っ赤にして発狂して鳴らしてたんだから。どれだけの意地で鳴らしていたか、本人がわかってないだ。どうしてわからないかというと、一〇〇%自分が思ったとおりにできたから。一分も「本当には」ゆずらないで、鳴らすことができたから。毎日、一分もゆずらないで鳴らすことができたから、「つもりがない」だけなんだよ。あれ、親父とおなじ。親父は親父で、兄貴に文句を言いたくないという、影の気持ちが強くて、絶対の意地で文句を言わなかった。注意をしなかった。これも、「注意されられる」となったら顔を真っ赤にして、「なっちゃったなっちゃっでしかたがないぃぃ!!!」と俺に怒鳴っていたんだよ。怒鳴って、自分の寝床に行ってしまえば、切れているわけで、なにも感じないんだよね。兄貴は兄貴で、無言のままはねのければ、なにも感じないんだよね。言われたことにすらならない。そういう、ギャグみたいな状態が、毎日毎日、同じように成立する。それだけだから!! なんの、種もない。本当はそれだけなんだよ。いまは、鳴らさなくてもいい状態だから、「そんなんじゃない」「そんのな知らなかった」と言って、顔を真っ赤にして、目を三角にして自分の部屋に行けば、それで済んでしまう。だから、そんなの、何千回何万回繰り返したって、ごくごくあたりまえのことを認めない。そういうしくみが、ほんとうーーに、素直に成り立っている。素直というか、あたりまえのように成り立っている。だから、「うち」では、俺に何万回注意されても、その都度、本人がむくれて、おしまいだった。ここで、ぼくが自分の言い分を通して、一分間でも、鳴らさせないで静かにさせようとしたら、殺さなければならない。殺さないと、絶対にやめない状態で、無視して、むきになってエレキギターを弾きながら、ヘビメタを鳴らしているんだよ。で、それを止めようとしたら、本当に、殺さなければ絶対にやめさせることができない状態なんだよ。だから、こだわっているなんてもんじゃなく、こだわっているのだけど、本人は「一〇〇%できるのであれば」……「つもりがなかった」「そんなになっているとは知らなかった」ということになる。だから、きちがい兄貴にとって「つもりがない」と言うことは、相手の言うことはまったく聞かないで、一〇〇%自分の思い通りにしたということだから。……ねじれているようだけど、本当に、まったく意識しない状態でそういう状態が成り立っている。だから、「言うこと」なんて聞かない。どれだけ、家族会議を開いてもおなじ。「お兄さんに言えばわかる」なんて世界じゃないんだよ。親父と兄貴はわかってないけどな。本当に、親父と兄貴のやり方はおなじ。きちがい的な意地でやりきると、やってないということになってしまう。じゃ、自分が本当に、やりたくないカタチで、ゆずらされるとなったら、どういう気持ちになると思っているんだよ。たとえ一分だって、発狂して発狂して発狂して、「絶対にそんなのはいやだ」という意思表示をするだろ。実際に、やめさせられずに、やりきるだろ。絶対の意地でやめないだろ。これがわかってない。一〇〇%、自分の意地を通すと、「やってない」ことになってしまう。このやってないというのは、一〇〇%やってないという意味なんだよ。一〇〇%やりきれば、一〇〇%やってないということになってしまうのである。だから、本人は「そういうつもりのまま」んだよ。「そういうつもりのまま」実は、でかい音で鳴らし切る。そういう状態なんだよ。こんなの、きちがいでしかないよ。こういう、自分にとって都合がいい状態を成り立たせて、「知らないつもりで」ずっと鳴らす。どれだけ何回注意されても、注意されかなったままのつもりでずっと、こだわりつくして鳴らす。で、そうやって、自分がやりたいだけ鳴らし切ることができれば、その日はまったく鳴らさなかったのとおなじ日なのである。主観としてはまったく鳴らしてないのとおなじなのである。だから、その時から、「そんなつもりじゃなかった」という嘘をつくための用意ができている。で、これは、親父のように不変で、毎日毎日おなじなんだよ。どれだけ毎日もめても、一日に何回も何回ももめても、こういう「きちがい構造」が変わらないまま、知らないつもりのまま、やってないつもりで、頑固に頑固に鳴らす。だから、入試の一週間前に、さんざんもめているのに、……そして、一週間ずっといつものようにでかい音で、すべての時間鳴らしているのに……ぜんぜん俺の入試の邪魔をしているつもりが生じない。で、これも生じないとなったら、親父とおなじで、どれだけ言われてもおなじなんだよ。こういう状態が成り立っているから他の人には、全然わからない。


なんで、ぼくより才能がないやつらの後塵を拝さなければならないのか?

2016年10月2日日曜日

「考え方を変えればすべてが変わる」系の本に書いてあること

さて、どうするかなぁ~~~

寿司屋でも行くかなぁ~~~

はら、へったなぁ~~~

あー、どうしたもんだ。


だるさを数値化すると、60ぐらいか。かなりだるいな。けど、外に出れないほどだるいわけではない。さっきまで寝ていたんだけど、午後1時ぐらいは、だるくて外に出れなかった。


回転寿司は、混んでるかな。日曜日はやばいんだよな。

どうするかな。人それぞれの日曜日なんだろうな。実は、「考え方を変えればすべてが変わる」系の本を読んだ。これ、言っちゃなんだけど、かなり鬱になる。この人たちが言っていることは、みんな同じ。引き寄せ、鏡の法則、思ったことが現実化する。で、この人たちが、「挫折した失敗した、不幸だった」と言っているのだけど、それがみんな普通の挫折、普通の失敗、普通の不幸なんだよな。これ、本当に違う。

仕事をしている状態で自分が空回りして、失敗したとか、そういうレベルなんだよ。大学受験に失敗したことだって、一応、高校まで好きなときに勉強できる状態で失敗したという話で、中学三年間、高校三年間、ずっと毎日、勉強することを邪魔されて、勉強することができなかったというような状態じゃない。「自分が心を開いたら、相手も心をひらいてくれた」とか、全部、健常者の話なんだよ。健常者の家族の話。家族にサイコパスがいるやつはどうだ?

サイコパスの反応なんて、自分の態度が「うつっている」わけじゃないのである。サイコパスはこっちの態度に関係なく、こっちの気持ちに関係なく、サイコパスなんだよ。サイコパス的な常識、サイコパス的な優先順位、サイコパス的な気持ちで、動いている。こういうことが、ぜんぜんわかってない。

たとえば、鏡の法則と言った場合、その鏡の法則は、どんな場合でも成り立つ「普遍法則」なのである。成り立たないのは、相手がサイコパスではなく、自分がこころを開かないから(あるいは、自分のこころが相手に反映している)と考えるわけだからさ。



ふたりとも、女で、旦那がどうだ、彼氏がどうだという話になる。小さい頃からハワイに住みたいなと思っていた。突然、旦那がハワイに転勤を命じられた。(引き寄せだ。思いは現実化した)って話だったり、気分を変えるために、アメリカに行ったら、ものすごく金を持っている彼氏ができて、その人と豪華な暮らしている(引き寄せだ。思いは現実化した)……だからね。日本で残業をして働いていた頃には考えることさえできないような生活をしている……。こういう話は、本当に悩んでいる人には、参考にならない。本当に不幸な人には参考にならない。

本当に最初からレベルが違う。すべてがすべて、「普通の話」なのである。家族が健常者じゃないやつで、こういうことを言っている人は少ない。言っているとしたら、本人が病人である場合だ。

スピリチュアリズムだと、こういうことを言えば、霊界の話が出てくる。そして、要するに「選んだ」という話になる。サイコパス家を選んだのはあなただ。サイコパス家を選んで、あなたはこの世に生まれてきたという話になる。もっとも、はやりの「引き寄せ」「鏡の法則」「思いは現実化する」に関しては、そこまでは、話が進まない場合が多い。普通の失敗、普通の不幸、普通の挫折で話が止まっているから。

たとえば、大学を卒業したあと普通に会社で働いている人が感じる失敗なんだよ。何十年も引きこもっている人が感じる失敗じゃない。「自分も失敗ばっかりだった」「考え方を変える前は、こんなに不幸だった」と言っているけど、それは、普通に働いて普通に家庭生活を送っている上での、不幸、失敗なんだよ。ぜんぜん、わかってない。

まあ、俺は、強烈な幸運の持ち主だから、回転寿司に行っちゃうけどね。


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あるいは無慈悲に、「あなたがサイコパスを引き寄せた」という話になるわけだから。
わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。