2016年10月8日土曜日

「感謝感謝」から差別主義まで、そんなに距離が離れていない

スピ系の本を読んでどうして落ち込むのかわかってきた。

最初の方はいいことが書いてあるんだよ。けど、だんだん、悪いことが書いてある。

たとえば、「べき」の暴君にやられる※べき※ではないということがある。このべきの暴君というのは、心理学的な一般読み物系の用語だけど、同じことが書いてある。「がんばる必要はない」「本当に必要なことは楽しみながら、ワクワクしながらすることができる」「がんばらなければならないは、無理をしているから」「がんばらなければならなくなるのは、自分の本当の気持ちに逆らうことをしているから」……というようなことが、書いてある。

しかし、あとの方になってくると、「運を引きよせることが必要だ」ということを言い出したりする。「運を引きよせる」ためには、けっきょく、がんばらなければならないのである。「流れを変える」ために、いろいろなことをしなければならなくなる。けっきょく、そういうめんどうくさいをことしなければならないというような気分にさせられるのである。がんばる必要はなかったんじゃないのか?


あとは、感謝だ。すべてのことに感謝しなければならないのである。しかし、ここでも、最初に言っていたこととはちがうことが、出てくる。たとえば、「波動が悪い人は避けなければならない」のである。何事にも感謝するべきなのではなかったのか? その主張に従うなら、波動が悪い人に出会ったということも、感謝するべきなのである。

「すべてのことに感謝」ということを語っていた時は、たとえば、事故に遭っても感謝するというようなことを、語っていたじゃないか。足を折ったら、「ここで足が折れてよかった。他のところで折れてたらもっと困っただろから」と思わなければならないのである。足を折っても「こういうことをすると足が折れるので、次からはこういうふうにして足を折ることを避けよう」と思わなければならないのである。「よかった」と言うと、脳がだまされて、「よかった」と思ってしまうと主張していたではないか。

しかし、ページを読み進めていくと、「態度の悪い人は、悪い波動を出しているから、避けるべきだ」というようなことが書かれているのである。どんなことも、悪いことではなく、悪いことだと受けとめるのは、その人の受けとめ方の問題なのではなかったのか? 

しかも、「態度が悪い(人を避けろということ)」は、よくわかるけど、「波動」とか言い出す。最初の方で「感謝」とか言っておいて、あとの方になると「悪い波動を出している人は避けろ」とかそういう話になる。悪い波動を出している人にも感謝するのが、すじではないのか? 最初の方では、そう言ってた。悪いことには意味があるのではなかったのか? 最初の方では、悪いことにも意味があると言ってた。悪いことが起こっても、感謝して「脳を書き換える」「脳に上書きする」のではなかったのか?

たしかに、最初の方ではそう言ってたのに、あとの方になってくると「悪い波動を避けろ」とかそういう話になってしまうのである。実際に自分に悪いことをしてきた人を悪い人だと認識するのはかまわないけど、実際に自分に悪いことをしてこない人でも、悪い人になってしまうのである。たとえば、電車の中で悪い波動を出している人に会うことさえ、なるべく避けるべきことになる。悪い波動を出しているかどうかというのは本当はわからない。「あの人は悪い波動を出している」と感じる人がそう感じているだけかもしれないのである。しかし、「運をよくする」とかそういうことにこだわり出すと、「悪い波動を出す人は避ける」べきだというような狭い考え方に陥ってしまうのである。最初は、「悪いことが起こっても、よいことが起こったと考えよう」みたいなことを言ってたのに……。

たとえば、元気がない人は、元気がない波動を出している。元気がない人に近づくと、元気をうばわれる……だから、元気がない人には近づくべきではない……というような話になる。それだけではなくて、たとえば、きたない服を着ている人には近づくべきではないという話になる。きたない服というのは、物理的にきたない服ではなくても、きたない服に分類されることがある。たとえば、よれよれの服は、きたない服なのである。実際には、洗濯してあって、物理的にきれいな服であったとしても、よれよれの服はきたない服として認識されてしまうのである。どうしてかというと、「なんとなくきたない」と感じてしまうからだ。波動とかそういうことを言い出すとそういうことになる。たとえば、よれよれの服を着ている人は、貧乏で、お金のない波動を出している。お金の運が逃げるから、近づくべきではない……こんなふうになってくる。本の作者は考えてないけど、たとえば、うつ病の人が読んでいるかもしれない。うつ病の人だって元気になりたいわけだから。

で、たとえば、うつ病の人が、「憂鬱そうな人は避けるべきだ」という文章を読んだ場合どう感じるかというと、「自分は避けられる人間だ」と感じてしまうのである。そりゃ、そうだろう。「憂鬱な波動を出している人には近づくべきではない」と多くの人が考えるなら、憂鬱な波動を出している?自分は、多くの人から避けられると考えて当然だ。だから、憂鬱な人が、この手のスピ系の本を読むと、どこかで、気持ちが重たくなるはずなのである。

何事にも感謝とか言っておいて、最後の方になると、すごい選別思想みたいなものが出てくる。実は、これは、選別思想じゃなくて、「けがれ」の変形なのである。「けがれ」と「ことだま」はプリミティブな感情で、現代人にもある。だから、通りやすいのである。読んでいて納得してしまう部分がある。

たとえ、きたない服を着ている人でも、憂鬱な人でも、元気がない人でも、「けがれ」と「ことだま」の思想は持っている。だから、……けがれていると避けられるほうの感情だけではなくて、けがれている人を避ける方の感情も持っている。が、しかし、「感謝感謝」と言っておいて、結論が、これなんだからな。元気がない人というのは、「け」が「かれてる」状態なのである。なので、「けがれている」……「けがれているひと」には近づくな……「けがれているひと」が触ったものは触るな……こういうことになるのに、あと一歩しかない。だから、「感謝感謝」「どんなことにも感謝」「悪いことが起こっても感謝」から、ある種の「けがれ差別主義」まで、そんなに距離が離れていない。というか、むしろ、表裏一体?

自分に対して悪いことをしてくる人……たとえば、ヘビメタ騒音を出して絶対にゆずらない人……ではなくて、ただ単に元気がない人に対してどういう態度をとるべきかというと、そういう元気がない人も思わず元気になってしまうような態度をとるべきなのだ。元気がない人が、自分に会うと元気になってしまうような人を目指すべきだろう。元気をうばわれるのではなくて、元気をあげられると考えるべきなのだ。感謝感謝と言っているのだから、元気がない人にも感謝するべきだろう。電車の中で元気がない人に出会ったのは(見かけたのは)悪いことではなくて、よいことなのではないか。「元気がない人に出会えてよかったな」と脳をだまして言い換えるべきなのではないか。もちろん、これは、「べき」論だ。だから、別にそういうことを目指す必要はない。ただ、「感謝感謝」という考え方に賛成していた人は、やはり、元気がない人に出会っても、それを悪いことだとはとらえずに、よいことだととらえて、感謝するべきなのである。

タイトルからここまで、ずっと「べき」論を言ってきたのである。どれだけ「べき」いう言葉が使われているか数えてみればいい。(俺、いまの時点で数えてないけど)。

元気がない人は避ける人になるよりも、元気がない人に元気をあげることができる人になった方がいいんじゃないのということを言いたい。「感謝感謝」という考えにこだわるのであれば……という条件付きだけど。


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「わくわく」と「感謝感謝」「鏡の法則」「引きよせの法則」だと、「わくわく」の方がいい。

けがれるの「け」についてちょっとだけ説明をしておこう。「け」を漢字で書くと「気」になる。内側が、メではなくて、米のほうなんだけどね。この場合の「気」というのはなにを意味しているかというと、「生命力」を意味しているのである。「け」が枯れる状態というのは、「生命力」が枯れる状態なのである。


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この、「脳」をだますというのは、エセ科学かもしれない。「脳」をだますというのはよく言われることだけど、別に検証されたわけではない。すくなくても、ぼくの知っている範囲では検証されていない。検証されたとしても、統計的な差でしかないと思う。あとで、主観をアンケートに書くとかそういうことをもとにした、検証でしかないと思う。

それから、たとえば、痛さを抱えながら、ずっと「よかった」と思うことができるのかどうか、わからない。わりと痛みが持続する場合はどうなんだろうな? ずっと、「虫歯になってよかった」と頭の中で言い続けるのだろうか? それで、本当に「虫歯になってよかった」と考えることができるのだろうか。


わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。