五分で三〇年ぐらいたったような感じだな。
ここにいると、三〇年前のことが、ついこないだのことのようだ。
四〇年前のことが、二、三日前のことのように感じる。
もう、まるまるまるだな。
それにしても、疲れた。疲れが頂点。『ヘビメタの朝』がつらかった。それも同じだな。けっきょく、ずっとやられたままだ。……やられたままの世界をいきている。他の人たちは、やられてないから、まったく理解してない。実際の体験がないから、体験がないところで、適当なことを言う。ちがうんだって……。ちがうの……。ちがう。
そりゃ、だれだって、疲労は経験したことがある。疲労感』もわかっているつもりだ。けど、ちがうんだよ。ヘビメタ騒音がはじまってからの疲労は、それまでの疲労とは違うの……。質的にまったくちがうの……。だから、他の人が理解できない疲労感が抜けない。他の人が人生のなかで経験したことがない疲労感が抜けないまま、次の『ヘビメタ騒音』がつもっていく。
気違い兄貴のやり方にしたって、他の人は、わからない。そりゃ、気違い親父が作った家で、気違い親父にやられないとわからない。理屈としてもわからない。気違い兄貴のヘビメタのやり方が、気違い親父の『すべてのことに関するやり方』と同じなんだよ。けど、それだって、じゃあ、気違い親父のやり方とはなにかということを説明しなければならなくなる。で、説明しても、わからない。疑問を持ったままだ。「そんなひといるのかな」「そんなことってあるのかな」と疑問を持ったままだ。俺の言うことを信じない。
それなら……俺が言うことを信じられないのであれば、すべてが、わからない。俺が言っていることのすべてがわからない。
あとは、書いていて思ったことだけど、「たまたま論』は成り立たない。この「たまたま論』というのは、認知療法家が持っている理論だ。いまの、話に関係したことで言えば、『お父さんは、たまたまそうした』という解釈をする。『たまたま、そうしただけなのだから、理由を考えるのはムダだ』とか『たまたま、そうなったのだから、いつもそうなると考える必要はない』とかいうような理論も付け加わる。プールで「たまたま」背中を押されて、プールに落ちた。それ以降、水がこわくなった……。けど、「たまたま」そういう事が起こったということを理解すれば、水は特にこわいものではなくなるという理論だ。
たとえば、背中を押したのが父親だったとしよう。そうなると、父親が、たまたまやったことだから、いつもそうなると考えるのは不適切だ……と考えるのだ。たまたま、一回発生したことが、何回もずっと発生すると考えるのは、おろかなことなのだ……と認知療法家や認知療法家は考える。『たまたま論』にしたがえばそういうことになる。
けど、構造としてくりかえしている場合は、ちがう。認知療法家や認知療法家のファンは、そういうのがまったくわかってないのだ。
これ、どこかに書いたことがあるから、ここでは書かないけど、構造としてくりかえしていることを、『たまたま論』で説明しようとするのは無理がある。けど、認知療法家は、脳の機能障害やや無意識を無視するので、どうしても、『たまたま論』でかたづけるしかない。『たまたま、起こったことだから、これからも起こり続けと考えるのはナンだ』とか『たまたま、起こったことだから、理由を考える必要はない』と認知療法家は考える。たまたま、起こったであるなら、それでいいけど、『たまたま論』では説明できないことが、人間生活のなかにはある。