なんか知らないけど、もう、いいわ。俺……。あーー。もう、いいや。
もう、つかれたな。
また、ネズミのことを考えていた。俺は、殺したくなかったんだ。特に、窒息させるのはいやだったんだ。けど、空気穴をあけてやると、そこから、細菌や寄生虫がでて、俺が病気になる可能性があった。ほんとうは、穴をあけてやりたかった。けど、やっぱり、その袋を置いておくところがない。そとに置くしかなかったのだけど、外に置くと、その空気穴から、ハエがはいったりすると、うじがわいて、たいへんなことになる。カラスや猫が、袋を破いて、食べてしまうかもしれない。きれいに食ってくれるならいいけど、そうはいかないだろう。
だから、工事をしようと言ったのに……。だから、「親父が病気になって入院したら俺が捨てることになるから、工事をしよう」と言ったのに……。「俺がネズミシートを捨てるからいい」とおやじが言って、ゆずらなかった。頭がおかしいから、会話になってないんだよな。「(おやじが)入院したらこまるだろ」……「ニュウインシナイヨ!!ニュウインシナイヨ!!ニュウインシナイヨ!!」と発狂して絶叫。
「(おやじが)死んだらこまるだろ」……「シナナイヨ」「シナナイヨ」「シナナイヨ」「シナナイヨ」と発狂して絶叫。「俺がネズミシートを捨てるからいい」と親父が発狂して絶叫。発狂して、絶叫。話にならないんだよな。こまるんだよな。けっきょく、入院して死んだわけだ。俺が、ネズミシートを片づけなきゃならないことになっただろ。ネズミが、ネズミシートの上で死んでいる場合はいいんだよ。生きているときは、こまるんだよ。俺は、そういうことをしたくないんだよ。したくないから「親父が病気になって入院したら俺が捨てることになるから、工事をしよう」と言ったのに……。
「シナナイヨ」「シナナイヨ」「シナナイヨ」「オレガカタヅケルカライイ」「オレガカタヅケルカライイ」と、よだれをたらしながら、真っ赤な顔をして、絶叫している姿を見て、どう思うよ? ネズミの糞が散らかった部屋で……。
こういうことの繰り返しが、「つかれ」や「たのしめないこころ」につながっている。「元気だ元気だ」と言えば元気になるか? 「楽しい楽しい」と言えば楽しくなるか? 「死なないよ」「死なないよ」と言えば、死なないからだになるか?
++++
ちなみに、親父のネズミシートに対する態度と、兄貴のヘビメタに対する態度がまったくおなじだ。親父の場合、「反対語を叫ぶ・バージョン」と「無口・バージョン」があるのだけど、兄貴の場合は「無口・バージョン」しかない。けど、「反対語を叫ぶ・バージョン」と「無口・バージョン」の内面的なこころの動きはおなじだ。まったくおなじ。おなじ過程。相手の言っていることを無視して、頑固に、顔を真っ赤にしてやりきるけど、やったつもりがぜんぜんないのだ。まっーーったく、まーーっっったく、ない。だから、そういうところが、「普通の人」にはわからないのである。普通の家で育った人にはわからない。普通の家族のもとで暮らしている人には、まったくわからない。なので、言っても信じない。こっちがそういうふうなことを説明しても、感覚としてわからないし、経験としてわからないから、説明された人は、信じない。経験がないのである。家にいる気ちがいが、どういうふうにくるっていて、どういうふうな主張して、どういうふうな態度で、どういうふうな行動をするのかわかってないのである。なので、「ぼくが」へんなひとだと思われてしまうのである。説明をしている人がへんな人だと思われてしまうのである。へんな家族の説明をしている人が、へんな人だと思われてしまうのである。こんなの、ない。そして、きちがい家族のほうは、感覚器を書き換えて、ほんとうにつもりがないままやっているのである。だから、本人としては、それが終われば、終わった瞬間に、「やった」という記憶がないものになってしまうのである。「やったつもりがないこと」になってしまうのである。だから、何万回もめても、一回ももめてない状態で、本人はやってしまうのである。なら、「言えば」やめてくれるのかというと、きちがい的な意地でやって、やめてくれない。「やめなかった」という記憶がない状態なのである。「相手がやめてくれ」と言ったのに、「やめてやらなかった」という記憶がない状態で生きているのである。毎日毎日、やりきるのに、毎日毎日「やってやらなかった」という記憶がない状態で生活しているのである。しらんぷり、だよ。けど、この、しらんぷり、というのが、病的な知らんぷりなのである。きちがい的な知らんぷりなのである。普通のしらんぷり……あるいは、「の」が重複するけど……普通の人の知らんぷりというのは、しっているのに、しらんぷりなのである。きちがい兄貴と、きちがい親父の場合は、ほんとうに、しらないのである。きちがい的な意地で、やりきるのに、しらない。「やめてくれ」と言えば、真っ赤な顔をして、発狂してやりきるのに、しらない。やってないつもりのまんま。やっているさいちゅうからやっているつもりがない。まったくない。まったくない。こういう毎日なんだぞ。「言えばわかってくれる」「ちゃんと説明をしないのが悪いんだ」と言われるのである……。俺が……。そして、「しずかにさせることができなかったのなら、自己責任」と言われるのである。俺が……。きちがい家族にやられてこまっている俺が、きちがい家族にやられてこまったことがない人に、わかったようなことを言われる。説教される。そういうことになってしまうのである。「健康管理ができないのはだめだ」「健康管理能力がない」と言われるのである。俺が……。「朝、起きられないなんてというのは、あまえだ」ときちがいヘビメタ騒音に毎日さらされたことがないやつが言うのである。おまえ、どれだけ、つらいと思っているんだ」と言ってやりたくなる。こういうやつに言ったって、(相手は)ヘビメタ騒音の毎日をほんとうに経験したわけじゃないから、ヘビメタ騒音が鳴ったって、俺なら、遅刻しないで通勤通学ができるという前提でものを言ってくる。「そんなのは、関係がない」「そんなのはあまえだ」『俺だって、騒音ぐらいある』『俺だって、朝、つらいときはある」……と言う。けど、その人(僕にそういうことを言った人)は、普通の家族と住んでいて、きちがいヘビメタ騒音を実際に、聞かされているわけではないのである。毎日毎日、自分がこの世で一番嫌いな音を、あの音圧で、あの音のでかさで、聞かされているわけではないのである。
+++++++++++