何万回、ぶつかったって、「なにもやってないつもりでいる」。
こういう態度が、どれだけ人をいらだたせるか、わかるか?
知ってはいるけど、お芝居で、すっとぼけているのではないのである。知らないのである。何万回ぶつかっても、何万回、「そのこと」でもめても、知らないままなのである。こんなのない。気ちがいしか、そういうことは、できない。
ほかの家には、そういうきちがいがいなので、ほかの人は、そういうタイプのきちがいに関する理解がない。
だから、「知ってはいるけど、お芝居ですっとぼけている人」のことを想像してしまう。俺がきちがい兄貴ついて話しているとき、「知ってはいるけど、お芝居ですっとぼけている人」のことを想像してしまう。
けど、「知ってはいるけど、お芝居ですっとぼけている人」は正常な人で、「知らないし、すっとぼけてもない人」は異常な人なのである。ほんとうは知っているけど、わざと無視してやっているわけではないのだ。このちがいはでかい。
何万回、ぶつかったって、「なにもやってないつもりでいる」。何万回、もめても、何万回、「なにもやってないつもりでいる」。本人の主観としては、本当になにもやってないということになっている。けど、もちろんやっているし……もめたときは、その都度、怒っている。怒っているって、きちがい兄貴が怒っているということだからね。もちろんこっちも怒っているけど……。
きちがい兄貴だって、騒音でこまる場合があるのだから、騒音でこまるということはわかる。自分だって、自分が鳴らしている音ではなくて、他人が鳴らしている音なら、ヘビメタ騒音の半分ぐらいの音だって「うるさい」と言って怒るわけだし、うるさいから、自分がやっていることに集中できないという経験があるので、うるさいと、自分がやっていることに集中できないということは、わかっているはずなのだ。
うるさくて、勉強しに集中できず、あたまにくる……うるさいから、あたまにくるという経験は、きちがい兄貴だってある。けど、自分が思いっきりでかい音で鳴らしたいなら、それは、全部、「ない」ことになってしまうのである。そんなことは、この世には「ない」ということになってしまうのである。人間は、そういうふうにできて「ない」ということになってしまうのである。
こういう根本的なところから、否定している。しかも、否定しているつもりがないのだ。これも、意識して、否定してやろうと思って否定しているということではないのだ。
きちがい兄貴は、ヘビメタが好きなきちがい兄貴の友達が「こんな音で鳴らして、だいじょうぶなの」と訊いてくるような音で鳴らしていても、まったく気にしないのだ。気にしないとなったら気にしない。
自分だって、自分が勉強しているときに、他人が、ちょっとでもうるさい音を鳴らせば、腹をたてるくせに、自分が思いっきり遠慮せずに、でかい音でヘビメタを鳴らしたいとなったら……まるで、きちがい親父のように ……そういう普通なら絶対にわかることを……無視してしまう。
「ない」ことになってしまう。
これも、理解してないふりをして、やりきってやろう……と思ってやっているわけではないのだ。普通の人の場合、どれだけ逸脱行為をしている場合でも、自分がやっていることは知っている。
知っているけど、知っているということは、無視してやっているのだ。ようするに、知らないという芝居をして、押し切ろうとする。
ところが、きちがい兄貴の場合は、まったくちがう。ほんとうに、知らない。きちがい的な意地でやっているのに、知らない。やっている最中も、文句を言われたときも、知らない。知らないわけがないんだよ。だから、そういうところで、おかしいわけ。
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たとえば、ふつうは、インチキ行為をしている人は、自分がインチキ行為をしているということを知っている。
けど、きちがい兄貴は、インチキ行為をしているのに、自分がインチキ行為をしているということを知らない。そういう、二十年間なり、三十年間なんだよ。実際に鳴らしていのは、十五年間だけど。
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たとえば、きちがい親父が、粕漬のついた魚の切り身を、テーブルの上に出しっぱなしにすることにこだわったとき、酒糟のついた魚の切り身で、部屋中が、くさかった。ほんとうに、部屋中に、においが充満して、くさかったの!!
けど、きちがい親父は、無意識的なレベルで、くさいということを認めると、自分が酒糟のついた魚の切り身を、片づけなければならなくなる……テーブルの上からどかさなければならなくなるというとを知っていた。
だから、無意識的なレベルで、臭覚を遮断して、「くさない」と言うのだ。「くさくない」「くさくない」と言って、部屋中がくさくなっているということを認めなければ、テーブルの上から、魚の切り身をどかさなくてもいいということになる。
普通の人は、無意識的なベルで、くさいということを認めないということができない。普通の人は、無意識的なレベルで「臭覚」を遮断することができない。普通の人は、「くさい」ということを知っている状態で「くさくない」と嘘をつく。嘘をついているということを、普通の人は、知っている。
けど、親父は、知らない。自分が嘘をついているということを知らない。きちがい親父の、魚の切り身に対する態度は、そういう態度だ。「におっている」ということを認めてしまうとまずいことになるので認めない。普通の人なら、「におっている」ということを認めてしまうとまずいことになるので認めない……ということを「知っている」。
自分でやっておいて知らないなんてことはない。
ところが、親父は、器用に、無意識的なレベルでこの認知を遮断てしまう。そういうことをしているのに、そういうことをしてないということになる。事実くさくないから、くさくないと言っているということになってしまう。こういう倒錯が成り立っている。
で、きちがい兄貴の場合もおなじなんだよ。きちがい兄貴の場合は、「聴覚」を部分的に遮断してしまう。「うるさい音で鳴らしている」「でかい音で鳴らしている」ということ自体を認めない場合は、聴覚自体を、無意識的なベルで部分的に遮断してしまう。
聴覚の遮断と言っても、きちがいヘビメタは聞こえているわけで、音のでかさに関する遮断だ。「音」を遮断したのではなくて、「音のでかさ」にかかわる感覚を遮断した。一〇〇デシベルぐらいの音を、二八デシベルぐらいの音だと思ってしまう。そういう感覚のマヒ。まあ、「遮断」と言うよりも「書き換え」のほうがぴったりくるかな。聴覚を、無意識的なレベルで、書き換えてしまう。
だから、聴覚障害者ではないのに、一時的に、聴覚障碍者になってしまう。 まあ、もっとも、自分が鳴らしていたヘビメタがあまりにも、でかかったので、ヘビメタ難聴になったのだけど、それは、あとの話だ。ヘビメタを鳴らし始めたときは、別に、ヘビメタ難聴ではなかった。
きちがい兄貴は、ヘビメタを思いっきり、でかい音で鳴らしたかった。ここのところで、譲歩するつもりがまったくないのである。
ようするに、でかい音からでかくない音にかえるつもりが、まったくない。
きちがい兄貴は、ヘビメタを思いっきりでかい音で鳴らしたかったので、でかい音で鳴らしているということを認めなかった。ようするに、きちがい親父とおなじように、無意識的なレベルで感覚器を遮断したのだ。
だから、どれだけでかい音で鳴らしていても、きちがい兄貴にとっては、でかい音で鳴らしていることにならないのである。
細かく言えば、意識的なベルのきちがい兄貴にとっては、「それ」は、でかい音ではないのである。
どれだけ、でかい音で鳴らしていても、意識的なレベルの兄貴は、でかい音で鳴らしているということを認めないし、事実、でかい音で鳴らしているという認識がない。
でかい音で鳴らしているという認識もなければ、おとうとに迷惑をかけているという認識もないのだ。これは、どれだけ言われたって、認識がないまま、生き続けるということになる。普通に生活するということになる。
その普通の生活のなかには、でかい音で鳴らしているのにでかい音で鳴らしてないと思って、でかい音で鳴らすという行為が含まれている。
どれだけ、言われたって、それはかえない。