じつは、「すべては受け止め方の問題だ」という言い方は「すべては自己責任だ」という言い方とおなじで、他人をおいつめる言い方なのだ。
条件が悪い人は、条件の悪さによって、さまざまな悪い出来事がしょうじる。条件が悪いから、条件の悪さによって、悪い出来事が(比較的に言って多く)しょうじる。
悪さの程度も、条件が悪いので、程度が強いものになる。
ひとくちに、悪い出来事といっても、程度に差がある。
そして、悪い出来事が発生する頻度は、どうしたって、精神に影響を与える。
ところが、「すべては受け止め方の問題だ」という言い方は、悪いことが起こる原因を無視する。悪い出来事の程度を無視する。悪い出来事が起こる頻度を無視する。
そして、ほんとうは、「すべては受け止め方の問題だ」と言っている人が、すべてを受け止め方の問題だとは思っていないのである。
これが問題だ。
手短に言うと、この人たちの「レベル」というのは「元気だと言うと、元気になったような気がするから、言霊はある。言霊は絶対だと思ってしまう人」の「レベル」とおなじだ。
「元気だと言うと、元気になったような気がする」ということは、言霊があるという根拠にはならない。だいたい、本人は無視しているけど、じつは、「元気だと言っても、元気にならないこと」が、たくさんあるのである。
言霊主義者だって、「元気だ」と言っても、元気にならないことが、ある。ところが、それは、無視されてしまうのである。
こういう自我構造をもっているのである。
幼児的万能感に支配された自我構造だ。
都合がいいことだけを、見て、都合が悪いことは見ないようにするという、幼稚な考え方がある。都合がいいところだけを見て、法則化してしまうけど、その法則化には意味がない。
意味がないどころか、有害なのである。
常に、間違った方向にひとつを導く、こまった感覚なのだ。理性と推論の力によって、ほんとうは、克服しなければならないことなのである。
ところが、無理なのだ。幼稚な思考によって、決めつけてしまう。断言してしまう。「これはこうだ」と決めつけてしまう。だから、「都合が悪いことは、見ないようにする」という体制が強固になる。
問題なのは、本人が、そう思っていることを、他人に言うことだ。
無責任な「自己責任論」とおなじで、無責任な「受け止め方の問題だ理論」は他人を傷つけるのである。これが、社会的な抑圧につながる。
自己責任論でも、立場が相対的にいい人が、立場が相対的に悪い人に対して、その言葉を言うということになる。
これ自体が、じつは、社会的な悪なのである。やられたほうは、むなくそ悪い気分になることが多い。やられたほうが、悪い条件を抱えていれば抱えているほど、この言葉を言われるということは、非常に不愉快なことになる確率が高くなるのである。
そういう言葉を、悪い人たちが、はやらせるのである。
悪い人たちは、尻馬にのった人たちと、計画的にやっている人たちの、二つのタイプがいる。
この人たちは、計画を立てた側ではない。けど、計画に、意識的に、あるいは無意識的に、参加して、こういう言い方をはやらせるのである。
無意識というのは、特に、「はやらせることを意識していない」という意味で、無意識という意味だ。フロイト的な無意識とはちがう。
「元気だと言ったら、元気になったような感じがしたので、どういう場合でも、元気だと言うと元気になる」と思ってしまうのだけど、それは、間違っている。本人が気がついていないだけだ。説明のなかに出てくれいというのは、じつは限られている。
「すべては、受け止め方の問題だ」と思っている人も、じつは、自分が受け止め方の問題だと思って、受け止め方をかえられることにしか、注目していない。
ほんとうは、受け止め方の問題だとは思わず、受け止め方をかえようともしないことが多いのだ。
ただ、本人が気がつかないだけだ。