さっき、重装備で横の部屋の片づけをやろうかと思った。重装備というのは、上下とも、レインコートを着るということだ。そして、防毒マスク系のマスクをして、ビニール袋を頭からかぶるのだ。もちろん、呼吸ができるように、マスクの吸気口部分を、外に出す。防毒マスクは、一方向のみに突起物がある防毒マスクで、二方向に突起物がある防毒マスクは使えない。ようするに、ビニールをマスクの突起部分にあわせて、やぶくのだ。これについて、以前、書こうと思ったけど、書かなかった。というのは、ぼくが小さいころに、ビニールを頭からかぶって、窒息死した子どもがいたのだ。いや、知り合いじゃなくて、そういうニュースがあった。ともかく、「ビニール袋を頭からかぶっちゃいけないよ」ということを付け加えておく。ビニール袋をかぶるのと、防毒マスクの突起部分をあけてビニール袋をかぶるのはちがう。けど、だれかが、ビニール袋をかぶって、窒息死してしまうといやだなという気持があるのだ。まあ、神経質なんだけど、そういうことも、気にしてしまう。絶対に、頭からビニール袋をかぶっちゃだめだよ!!
窒息死した子どもというのは、たぶん、「吸うこと」だけに、意識が集中しちゃったんだな。吸うと、ビニール袋の内側が口にくっついて呼吸ができなくなる。というわけで、まず、口のところのビニール袋に穴をあけるか、ビニール袋を「ぬがなければ」ならない。けど、幼児だと、ビニール袋をぬぐというか、はずすことに、頭がまわらなかったんだろうなぁ。ビニール袋の厚みとかたさ……つまりやぶきにくさ……と、ビニール袋と頭の密着度が気になる。なんか、かなしい事件だよなぁ。まあ、その事件以降、そういう事件は聞いたことがない。
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こうしないと、顔をダニに刺される可能性があるのだ。顔をダニに刺されると、へこむので、しかたがないから、こうしている。だから、基本、きちがい親父が、ネズミシートでネズミを捕るということにこだわらず、ネズミ対策工事をするということに賛成してくれたらよかったんただけど、そうはならなかった。まあ、そのまえに、きちがい親父が、二か月間ぐらい、毎日、魚をテーブルの上に出しっぱなしにするというが問題だった。1日に23時間ぐらいずっと出しっぱなしにする。これも、部屋中、におっているのに、親父がにおっているということを認めない。「におっているから、冷蔵庫に入れろ」と言っても、「におってないよ」「におってないよ」「におってないよ」「におってないよ」と絶叫して入れようとしないのだ。「くさいだろ」とこっちが言うと、「くさくないよ」「くさくないよ」「くさくないよ」「くさくないよ」「くさくないよ」とくさいというとを認めないのだ。こういう態度が、ずっと続くんだよね。いちいち、こういうところで、ぎくしゃくして、うまくいかないのである。こういうことが、別のことでも、いっぱいあるのだ。主なのは、ネズミ関連、竹関連、自転車関連、アンテナ関連のことだけど、いろいろなことで、こうなるのだ。これは、きちがい親父の頭の問題だ。けど、じゃあ、きちがい親父の頭の問題だと、問題を切り分けてかかわらないようにすればいいということではないのだ。実際に、テーブルの上に、くさい魚をおいておくということについて、かかわらないようにしても、ネズミが入ってくれば、ネズミが入ってきたという問題がしょうじる。アドラー心理学では、無視しようと思えば無視できるということになっている。けど、いっしょに住んでいるのであれば、きちがいがやることを無視できない場合もある。アドラーこそ、こういう、きちがい的な親がいる家のことを無視している。
きちがい兄貴のヘビメタ騒音だって、きちがい兄貴の頭の問題だと、問題を切り分けて考えれば、それでいいのかというと、そうではないのだ。こういうことを、アドラーは無視している。きちがい兄貴が、きちがいだから、よそのうちでは絶対に鳴らせないようなでかい音で鳴らしたのだ。そして、きちがい兄貴がきちがいだから、でかい音で鳴らしているということに、最後の最後まで「気がつかなかった」のだ。そして、きちがい兄貴がきちがいなので、「ゆずる」ということができなかったのだ。〇・一デシベルでもゆずってやれば、ものすごくゆずってやった気持ちになり、もうそれ以上ゆずる必要がないと思ってしまうのだ。だから、きちがい兄貴も、きちがい親父とおなじで「ゆずったゆずった」「ゆずってやったゆずってやった」と言って、絶対に、ゆずらないのである。きちがい兄貴の頭のなかでは、1・デシベルだろうが、自分がゆずってやったら、それでゆずってやったことになってしまうのである。もともと、ものすごい大音響で鳴らしていれば、〇・一デシベルゆずっても、ぜんぜんしずかにならない。〇・一デシベルゆずった時点で、大音響で鳴らしている。けど、きちがい兄貴は、自分が大音響で鳴らしたいので、大音響で鳴らしているということを、認めない。この、認めないという状態がおかしいのだけど、認めない。無意識的なレベルで、認めたくないから、感覚器を書き換えて認めないということをするのだけど、意識の部分では、ほんとうに大音響で鳴らしてないということになっているのだ。ようするに、大音響で鳴らしているということに、最後まで、気がつかない。自分の意地を通したいとき、嘘をつくという方法がある。大音響で鳴らしてたって、大音響で鳴らしているということを無視して、大音響で鳴らしているということ自体を認めない。そうすれば、自分の意地を通すことができる。最初からやってないということにしてしまうわけだ。けど、普通の人だと、そういうことができない。自分だ大音響で鳴らしていて、自分の聴覚が正常なら、「気持ち」に関係なく、無意識的な規制が働かないから、大音響で鳴らしているということはちかくしてしまう。しかし、無意識的な規制が働く、きちがい兄貴のようなタイプだと、自分の意地を通すために、「やったってやってない」ということにしてまうのだ。本人の意識では、「でかい音」じゃないのである。じゃあ、他人が、その音のでかさで、なにかの音を鳴らしていたら、「でかい音だ」と感じないかというと、そうではないのである。他人が出す音場合は、無意識的な機制がかかわらないので、「でかい音」だということが、わかるのである。けど、自分が「でかい音」で鳴らしたいときは、無意識的な規制が働いて、「でかい音で鳴らしている」ということが、最後の最後まで、わからないということになる。わからなければ、「普通の音で鳴らしているんだから、いいんだ」ということになる。「普通の音で鳴らしているのに、文句を言ってくる相手が悪い」と腹をたてて、でかい音で鳴らすことになる。
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たとえば、ダニに刺されると、あとが残る場合がある。ダニの種類によるけど、あとが残る場合がある。実際に、手の甲に、ダニに刺されたあとが残っている。こういうことと、「やりたくないなぁ」と思う気持は、無関係じゃない。こういう出来事と関係なく、「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなるわけではない。ところが、中立的な状態で「楽しい楽しい」と言えば、楽しくなったような気がするというような経験がある人が「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と一般化してしまう。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と「どんな状態でも、楽しい楽しいと言えば楽しくなる」とは、意味的に等価なので、「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」はまちがったことを言っているということになる。状態によっては、「楽しい楽しい」と言っても楽しくならないのである。「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と法則性があるようなことを言うけど、法則性なんてない。「どんな状態だって」と付け足す場合があるけど、本人が、「どんな状態だって」ということについて、うまく考えられないだけだ。自分が、中立的な状態で「楽しい楽しい」と言ったら、楽しく感じた。「だから、どな状態だって、楽しく感じる(はずだ)……これが真理だ」と考えてしまうのである。そして、自分が起こったときに「楽しい楽しいと言っても、楽しくならない」という事実は、簡単に無視されてしまう。「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と言っている人たちは、じつは、「自分が楽しい楽しいと言っても、楽しくならない」場合は、無視している。「楽しい楽しいと言えば楽しくなる」と言霊的なことを考えているときは、自分が普段感じていることを無視してしまうのだ。言霊主義者だって、言霊理論を否定されたら、楽しくないわけで、そのとき「楽しい楽しい」と言っても、楽しくならない。言霊主義者なんて、ぼくの知っている範囲では、みんな、例外なく、おこるということになる。言霊理論を、理論的に否定されると、言霊主義者は、(僕の知っている範囲では)みんな、おこる。そのおこったとき……「楽しい楽しい」と言っても楽しくならないで、おこっているままなのだ。けど、そういうことは、無視してしまうのである。
言霊主義者だって、毎日の長時間通勤でボロボロにつかれはてているとき「元気だ元気だ」と言っても、元気にならないのである。けど、そういうことは、無視してしまう。中立的な状態、あるいは、「元気だ元気だと言って自分を鼓舞しよう」というエネルギーが残っているときに、「元気だ元気だと言ったら、なんとなく、元気が出たような気がした」というような記憶だけを残して、ボロボロにつかれはてているときに「元気だ元気だと言っても、元気にならなかった」という記憶は、消してしまうのだ。記憶に残さないようにしているのだ。だから、いつも「元気だ元気だと言えば、元気になる」と思っているだけなのだ。そして、もっと言ってしまうと、ボロボロにつかれているときは、「元気だ元気だと言って、自分を鼓舞する気持ちにもならないので、「元気だ元気だと言えば元気になる」ということを忘れてしまって、言霊的な方法をこころみることすらしないということになる。言霊的な方法というのは、この場合は「元気だ元気だと言うこと」だ。「元気だ元気だ」と言えば元気になるのだから、ほんとうは、ボロボロにつかれているときに、「元気だ元気だ」と言って、元気になるようにしなければならないのである。ことろが、ボロボロにつかれているときは、そんなことは思いつかない。「元気だ元気だ」と言えば、元気になるのであれば、ボロボロにつかれている状態なんて、最初から、ないのである。だいたい「自分はつかれない」と言えば、それ以降、つかれることがないのである。言霊理論が正しければ、そうなる。