起こる確率というのは、条件によって決まる。
だから、条件は非常に重要。条件が、確率を決めているのだから、条件は、めちゃくちゃに重要だ。
ところが、思霊理論は、最初から最後まで、思ったか思わなかったかという条件以外の条件を無視しているのである。
実際には、 思ったか思わなかったかという条件以外の条件が結果に影響をあたえている。思ったか思わなかったかということが、影響をあたえる事象と、影響をあたえない事象がある。
「思った」か「思わなかった」かということは、ひとつの条件なのだけど、これを、固定して考えよう。
その場合、「思った」か「思わなかった」かということよりも、その他の条件が与える影響のほうがでかいことがある。
「思った」か「思わなかった」かということが、〇%の影響をあたえ、その他の条件が一〇〇%の影響をあたえる場合について考えてみよう。
たとえば、天候など、本人の意思とは関係がないものは、「思った」か「思わなかった」かに関係なく、その日のその時刻の、その地域の天候が決まってしまう。本人の思いとは関係がない事象がある。本人の思いとはまったく関係がない事象は、本人の思いとはまったく関係ないのだから、本人の思いとはまったく関係なくしょうじる。
しょうじた結果に関して言えば、生じた結果の影響を本人がうけることはある。これは、その結果が、本人の「新たな条件」になっているということだ。
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「思った」か「思わなかった」かということが、大きな影響をあたえ、その他の条件が小さな影響をあたえる場合について考えてみよう。
たとえば、机の上にある消しゴムを動かすということは、「思った」か「思わなかった」かということが、大きな影響をあたえる。けど、この場合も、まず、机の上に消しゴムがあるという条件を満たさなければならないのである。
なので、条件は大きな影響をあたえるということもできる。
まず、消しゴムがなかったら、消しゴムを買いに行って、消しゴムを手に入れたあと、消しゴムを机の上に置かなければならない。消しゴムの入手方法は、他にもある。
だから、なんらかの方法で、消しゴムを手に入れるということを、まず、しなければならない。
すでに、ほかの条件がそろっている状態なのであれば……つまり、これは、さまざまな条件を満たしているということになるのだけど、「意思」が強く影響をあたえることがある。
机の上にある消しゴムを動かそうと思わなかったのであれば、動かさないわけだし、動かそうと思ったから、動かしたわけだから、「意思」は、結果に、大きな影響をあたえている。
けど、そもそも、消しゴムがなかったら、消しゴムを動かすことができないのだから、机の上に消しゴムがあるという条件が、意思以上に大きな影響をあたえているということもできる。
消しゴムがあるかないかという条件について語ったわけだけど、じつは、机があるかどうかという条件も重要だ。机の上に消しゴムがなければ、机の上の消しゴムを動かすことができないのだから、机があるということも重要な条件なのだ。
そして、思ったあと、本人が、死なないということも条件として成立していている。
消しゴムを動かそうと思ったあと、突然、体調が悪くなり倒れて死んでしまった場合は、消しゴムを動かそうと「思った」のに、消しゴムを動かせなかったということになる。
この場合も、消しゴムを動かそうと「思った」かどうかということ以外の条件が、「結果」に影響をあたえている。
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もう一つ例をあげておく。たとえば、トマトを食べようと思ったとする。そして、家にトマトがなかったとする。その場合、店にトマトを買い行くというような行為が必要になる。
普通に動ける状態で、買いに行く時間があるのであれば、買いに行って、トマトをゲットすることができる。
しかし、これも、店にトマトがあるかどうかということが、結果に影響をあたえる。いつもよく行く店にはなかったとする。
けど、別の店に行くことを思い立って、別の店に行ってトマトを買ったとする。そのあと、家に帰って、家でトマトを食べたとする。次の店には、トマトがあったわけだけど、これだって、次の店にトマトがあるかどうかという条件が結果に影響をあたえている。
影響をあたえない事象ほうが多い。圧倒的に多い。だいたい、オギャーと生まれるまえから、さまざまな条件が影響をあたえているので、「さまざまな条件の影響をうけない思考」というのが、ほんとうにあるのかどうかわからない。
たぶん、ないんじゃないかな。
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思ったあと、念力を使って、消しゴムを動かした場合と、思ったあと、本人のからだを使って動かした場合は、まったくちがうに、「おなじようなものだ」と精神世界の人は思っているのである。
あるいは、彼らは、両者を区別してないのである。
だから、「思ったら、思ったことが現実化する」というひとつの文に、「思ったら、念力の力で、思ったことが現実化する」という意味と「思ったら、物理的な力で、思ったことが現実化する」という意味をもたせることができるのである。意味をもたせることができると書いたけど、本人の頭の中で、区別がついていないから、その時々で、ちがった意味を込めて、ひとつの文を使っているということだ。
実際には、もちろん、念力などは使えないから、現実の場面では、念力を使ってものを動かすということはできないのである。
だから、つねに、「思ったら、物理的な力で思ったことが現実化する」と言っているだけなのである。物理的な力というのは、身体的な力という意味だ。実際に行動して、現実化しようとするのだ。
一〇〇%詐欺があるので、現実化しようと思えば、一〇〇%の確率で現実化することができるようなことを言っているけど、これも、詐欺的なポイントだ。
「思えば、現実化する」と前向きな状態で言っているときは、自分には念力のような「思いの力」があるから、物理的な力に頼らなくても、念力のような「思いの力」だけで、現実化することができると言っているのである。
ところが、念力のような「思いの力」なんてないわけだ。だから、つねに、嘘を言っているということになる。
「思ったから、現実化する」という場合は、起点としての「思い」があるから、そのように言えるだけなのである。
「コーヒーを飲もうと思ったから、コーヒーを飲むということが現実化した。コーヒーを飲もうと思わなかったら、コーヒーを飲むということは現実化しなかった。だから、思うということが重要だ」と言っているときは、起点としての「思い」について言及しているだけなのである。
もちろん、起点として思うことは重要なのだけど、コーヒーを飲むということだって、物理法則が成り立っているこの世で、現実しただけなのである。
魔法のような思いの力で、現実化したわけではないのである。念力のような思いの力で、現実化したわけではないのである。
だから、そういうところに、だましのポイントがある。
魔法の力というのは、物理的な力を超越したなんだかわからない力なのである。魔法の力で現実化する場合は、物理法則を無視して、現実化するのである。
もちろん、普通の人や精神世界の人が、物理法則を無視した魔法の力をもっているわけではない。だから、思ったことを現実化するには、物理法則にしたがった行動をする必要があるのである。
しかし、物理法則にしたがって行動をすれば、思いは、いつも、現実化するかというと、そうではないのである。思ったところで、物理法則を無視したことは、この世では現実化しないし、物理法則にしたがったことでも、条件によっては、現実化するとは限らない。
どうしてかというと、外界には、自分の力が及ばない存在が「いる」からである。あるいは、自分の力が及ばない存在が「ある」からである。
どれだけ、雪が降ることを、うまく思い浮かべても、物理的な条件を、みたされなければ、雪は降らないのである。自然現象だけではなく、外界には、自分の思い通りには動かない他者がいるので、自分が思ったとしても、他者が関係していることに関しては、自分の思い通りにならないことがあるのである。
もちろん、他者が、自分の思いに共感してくれと、他者も、自分の思いを現実化しようと動いてくれる時はある。けど、この他者の運動も、物理法則にしたがった運動なのである。別に超・物理的な魔法の法則によって、他者の運動が現実化するわけではないのである。
けっきょくは、そういうことになる。
なので、物理法則にしたがってない「思い」はこの世では、現実化しないのである。
これは、一〇〇%現実化しないのである。
精神世界の人は、物理的な力と超・物理的な力を区別せずに、自分の思いが現実化すると言っている。その場合、じつは、物理的な力と思える力のなかに、魔法の力がしのびこんでいるのである。
精神世界の人は、自分がそういう 魔法の力を使える存在だと思っているところがあるのである。ようするに、これが幼児的万能感なのである。
自分は魔法を使えるということを前提にして言う「思いは現実化する」という言葉の意味と、自分が物理的な法則にしたがった行動をして「思いを現実化する(させる)場合がある」という言葉の意味がおなじはずがないのである。
ところが、精神世界の人は、物理的な法則にしたがった行動をして「思いを現実化する(させる)場合がある」という意味をこめて「思いは現実化する」と言い、「思ったから現実化した」と言うのだ。
そして、自分は魔法を使えるということを前提にして「思いは現実化する」という言葉を使い、「思ったから現実化した」という言葉を使うのだ。
だから、内容がまったくちがうことを「思いは現実化する」という言葉や「思ったから現実化した」という言葉で、あらわしているということになる。
ポジティブなことを思い浮かべて、夢を語る場合は、自分は魔法を使えるので、自分の思いが、物理的な法則を無視して現実化するということを言っているのである。そういう気持をこめて、「思いは現実化する」と言っているのである。
なんらかの不思議な力に導かれて、あるいは、なんらかの不思議な力によって、現実化してしまうのである。自分の思いが、超物理的な不思議な力によって、現実化してしまうのである。そういう意味で言っているのだ。
けど、例としてあげる場合は、ただ単に起点としての「から」を使って、「思ったから現実化した」と言うのだ。例をあげる場合と、ポジティブなことを思い浮かべて夢を語っている場合とでは、「思ったから現実化した」という内容がぜんぜんちがうのである。
「思いは現実化する」というひとつの文の内容がぜんぜんちがうのである。