2020年1月18日土曜日

「はねのけ」たら、その瞬間に、言われたということ自体を忘れてしまう


気違い兄貴が夢中になって、すべての時間鳴らした。もちろん、すべての可能な時間、鳴らしたということだ。一日に一秒間ですら静かにしてくれなかった。気違い兄貴の感覚で言えば、それで当然だった。気違い兄貴のなかでは、「どれだけやったって、いいこと」だったのである。その決めつけは、俺がどれだけ言っても、かわらなかった。それは、親父の決めつけが、親父のなかでかわらないのとおなじなのである。こういうことだって、「気違い家」のひとじゃないとわからない。家のなかで狂っている人が、どれだけの意地でそうするかわかってない。ほかの人はわかってない。家のなかで狂っている人の感覚が、ほかの人にはわかってない。気違い兄貴は、めいいっぱいデカイ音で鳴らしていいと思って鳴らしていたわけで、悪いことをしているとは思ってなかった。それは、どれだけ言われても、そういうふうには思えないのである。たとえば、ぼくがどれだけ「勉強の邪魔だから静かにしてくれ」と言っても、自分の音が「勉強の邪魔になっている」と思わないのである。言われたら、気違い親父とおなじように、怒り狂う。かっっっっと、くる。ようするに、自分にとって不都合なことを言われたということ「だけ」理解して、怒る。で、本人が怒ったらおしまいだ。これも、親父とそっくりなのである。顔を真っ赤にして怒って、「はねのけ」たら、その瞬間に、言われたことの内容を忘れて、言われたということ自体を忘れてしまう。気違い兄貴の頭のなかでは、「言われなかった」ということになってしまう。兄貴のなかでは、「そういうことは言われなかった」ということになってしまうのである。その都度、そういうプロセスで忘れてしまうなら、たとえ、一万回言われても、一度も言われなかったとい主観的な記憶を持つことになってしまうのである。そういう「きたない手」を使って、自分がやりたいことを優先してやってしまう。もちろん、そういう「きたない手」をつかったというつもりもない。実は親父がうちでやってきたことというのは、そういうことなのである。だから、兄貴がまねをしてそういうことをしても、うちなかでは、自然だった。あたりまえだった。うちなかでは、そういうことが普通に成り立つ。相手が言ってきた内容は理解されず、相手は言わなかったということになって、そのままやり続けるのである。けど、相手が言ってきた内容がほんとうに理解されないのかというとそうではない。「おこった」ということが、理解しているということをしめしている。相手が言ってきた内容は、いまの自分にとって認めることができない内容なのである。認めてしまったら、自分の行動をかえなければならないけど、自分の行動をかえるのは、死んだっていやなのである。だから、そういうことで、意地がある。本人は、「意地がある」と思ってないけど、ほんとうは、ものすごく強い「意地がある」。そういうやり方で、相手が言っていることを無視するのは、いつものことで、一〇回に一回だけそうだったわけじゃない。兄貴の頭は一〇回に一〇回そういうやり方で相手が言ってきたことを無視するように「できて」いる。だから、機嫌が悪いときだけそういうふうな反応をしたということではないのだ。これは、どういうことかと言うと、構造として繰り返されたということだ。これを、「たまたま起こったことだ」と考えると現象が説明できないのである。だから、認知療法家の説明では現象が説明できないのである。多くの認知療法家は、だれかが「いつも父がそうした」とか「いつも兄がそうした」ということを言うのを聞くと、自動的に「いつもというのは、行きすぎた一般化だ」と思ってしまう。それは、かならず、「いつも」ではないのである。「たまたま、そうだったにもかかわらずそう言っているだれかがいつもそうだったと誤解している」と思ってしまうのである。しかし、この場合、誤解しているのは、認知療法家のほうだ。認知療法家が「たまたま起こったのだ」という説明にこだわっているから、「いつもそうだった」ということを否定したくなるのである。
「いつも起こった」とだれかが言うのであれば、それは、その人がたまたま起こったことをいつも起こったことだと誤解しているのだと思うこと自体が、むしろ、行きすぎた一般化なのである。どんな場合でも、たまたま起こったことなのだ……ということにこだわって、まちがった一般化をしている。構造的に成り立っていることは、いつも起こることなんだよ。そして、構造的に成り立っているにもかかわらず、たまたま、そうじゃなかった場合があった……としても、それだけでは構造的に成り立っているということを全面的に否定することはできない。そりゃ、構造的に成り立っている場合にしろ、条件があるからな。たとえば、第三者がいるときは、そういうことにならない場合があるとする。その回はそうだった。だったら、「いつもそうだった」ということは成り立たないということになる。けど、だからといって構造的に成り立っていると言っている人が……つまり「いつもそうだった」と言っている人の言っていることが……まちがっているのかというとそうではない。条件がある。あーそれなのに、それなのに、「いつもそうだった」ということを言えば……鬱病患者やだれかが「いつもそうだった」言えば、その人は行きすぎた一般化をしていると思ってしまうわけだ。
わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。