今現在に集中しているうちに、沼に沈んでしまうのである。今現在に集中しているうちに、ゆでられてしまうのである。なんで、これがわからないのか?
今現在に集中していると、疲労が蓄積してしまうのである。
はっきり言えば、「今現在に集中すればいい」と他人に説教するやつは、自分がいいことを言ったと思っていると思うけど……実際には、言われた相手がくるしむことを言っている。
「ゆでガエルになればいい」「今現在に集中しているあいだにゆでられればいい」と言っているようなものなのである。
「今現在に集中しているあいだに、沼に沈んでしまえばいい」と言っているようなものなのである。そして、最後に「すべては、自己責任」と言って、ゆでられた人や、沼に沈んでいった人を、悪く言うのである。
自分が、不幸をもたらす助言をしたということには、一切合切、責任を感じない。
そもそも、責任を感じないのだから、自己責任だとは思わないだろう。自分の助言を聞いて、沼に沈んだ人の人生や……自分の助言を聞いてゆでガエルになった人の人生なんて、自分にはまったく関係がないと思っているのである。
そりゃ、言った責任を感じないのだから、自己責任なんて感じようがない。
「すべては自己責任」という言葉は、悪い環境のなかで、がんばった人に、向けられる言葉でもある。そりゃ、ほんとうに「自己責任である」場合もある。
その人の責任だということだ。
けど、条件わけが必要なのだ。
場合わけが必要なのだ。
それを「すべては」と言って、条件を無視してしまう。場合わけを無視してしまう。
むしろ、条件を無視した発言をしたということに、責任を感じるべきだし、場合わけを無視した発言をしたということに、責任を感じるべきだ。
ともかく、この世では、条件が悪い人が、めちゃくちゃに悪く言われるのである。そりゃ、普通の人が条件を無視して、その人が不幸になったのは、その人のせいだということを言うわけだから、条件が悪い人はたまったものじゃない。
「今現在に集中すればいい」も「できると言えばできる」も、どっちも、条件が悪い人を、自殺に追い込むための言葉だ。
けど、自殺に追い込むように、「今現在に集中すればいい」「できると言えばできる」と洗脳設計者は言わない。
ちゃんと一般人が、「いいことだ」と思うようなしくみをつくりだしている。けど、「いいことだ」と思って「助言をしてあげるつもりで言った」のに「悪い結果」を招来するのである。
ちゃんと、悪い結果が出てくるように、最初から設計をしている。こういう言葉をはやらせた人たちではなくて、こういう言葉をはやらせることを計画した人たちが、ちゃんと、悪い効果が出るように、計画をたてたということだ。