ほんとうに、ヘビメタでくるしかった。くるしかった。だれも……ぼく以外経験してないので……わからない。わからないから、わからないという前提でものを言うのではなくて……わからないのにわかったつもりになり……たいしたことはないという前提でものを言ってくる。これがどれだけ失礼なことかわかっているのか? わかるわけないか。
あっ、それから、実際に鳴ってなければ、ぼくはこんなことを言ってないわけ。きちがい兄貴が鳴らしたけど、三日間「やめてくれやめてくれ」「人生がないだしになるからやめてくれ」「勉強ができないからやめてくれ」「宿題ができないからやめてくれ」「眠れなくなって、遅刻してしまうからやめてくれ」「朝、鳴っていると、鳴っているなかでものをそろえなければならないから、忘れ物が多くなる。忘れ物が多くなるからやめてくれ」と言ったら、やめてくれた……というなら、別に構わないのだ。きちがいがきちがいのセンスでずっと鳴らし続けた。このきちがいのセンスは、ほかの人が、きちがい親父のことがわからないようにわからない。普通の人は、きちがい兄貴のセンスがわからない。
数千日にわたって、ずっと、何時間も何時間も鳴らされるということが、どういうことなのかぜんぜんわかってない。
前日、言おうと思ったけど、たとえば、ヘビメタ騒音が鳴ってなかったときのぼくと、ヘビメタ騒音が鳴ってからのぼくは、「愚痴」の数量がちがうのである。回数がちがう。この場合、愚痴の回数を増やしたのは、きちがい家族による、しつこいしつこい、破滅的なヘビメタ騒音だ。ほんとうに、休みの日はずっと、一日中鳴っているし、平日は、学校から(俺が)帰ってきたら、鳴っていた。そして、午後一一時一一分まで続いた。途中、20分ぐらいの休憩があるけど、それをぬかせば、こっちがどれだけあせっていても、一分も、やめてくれなかったというのが、ほんとうの話だ。これは、学生にとってつらいことなのである。普通の学生は体験してないことなのである。たとえば、ヘビメタ騒音が鳴っている期間の愚痴の回数と、ヘビメタ騒音が鳴ってなかった期間の愚痴の回数をくらべれば、ヘビメタ騒音が鳴っていた期間の愚痴の回数のほうが多いのである。この場合、愚痴の回数は、ヘビメタ騒音の回数(日数)とヘビメタ騒音持続時間に関係しているのである。ぼくの性格に関係しているわけではないのである。だから、愚痴を言いやすい人は愚痴を言う回数が多く、愚痴を言いにくい人は愚痴を言う回数が少ないという一般的なイメージとはちがう。この場合、性格と回数が関係していると考えているのである。おなじ不幸量なのに……不幸な出来事が発生する回数と、一回の不幸の程度がおなじなのに、人の性格によって差が出ると考えているわけである。けど、愚痴を何回も言っている人……一日のなかで愚痴を言う回数が多い人を……愚痴を言いやすい性格と言っているわけだから、本当のところはなにもっていないのとおなじなのである。そうではなくて、人間の愚痴に対する感度(不幸な出来事に関する感度)をおなじだと考えた場合でも、環境がちがえば、不幸な出来事の回数がちがうので、不幸な出来事の回数によって、愚痴を言う回数が決まってくると考えるべきなのである。愚痴の言いやすさ……という性格を考えた場合も、ノーマルカーブはあるはずだけど、愚痴を言う回数が多い人は愚痴を言いやすい性格なのだという考え方のほうに問題があると思う。これは、まわっている。トートロジーだ。じゃあ、性格はまったく関係がないかというと、そうではないと思うけど、この場合の性格というのは、固定化した状態なんだよ。だから、そとから、そう見えるというだけの話だ。不幸な出来事が固定化した状態……。「愚痴を言いやすい性格」というものを「環境とは関係なく」個人の特性として考えるのは問題があると思う。ともかく、空想的な「もともとの性格」というものを考えて、もともとの性格が愚痴を言いやすい性格だから、愚痴を言う回数が多くなると考えるよりも、ほんとうに不幸な出来事が数多く発生しているから(不幸なができこどの発生回数が多いから)愚痴を言う回数が多くなると考えたほうが、現象をよく説明できると思う。「もともとの性格」というのは、どういうふうにして、わりだすのだ? 実際に「愚痴を言っている回数」と関係なく、「もともとの性格」がでてくるのか?
以前も書いたけど、じつは愚痴を言う行為というのは、個別具体的な行為としては存在しない。あくまでも、話を聞かされほうが「愚痴を言われた」と考えたときに、話をしたほうが「愚痴を言った」ということになるのである。まあ、余談だけど、それならそれで、愚痴を言われたと思いやすい性格や愚痴を言われたと思いにくい性格について考えなければならなくなる。
それから、「不幸な出来事」というのは特定できるのか? という問題は、当然ながらある。しかし、「その人が」その人の「今の感覚」で「不愉快だ」と思った出来事であり、その人が、その人の力ではなかなか解決できないと思っている出来事……つまり(その出来事やその出来事に類似した出来事を発生させないようにすることができない)出来事であるばあい、あるいは、一回だけの出来事でその人の能力欠損がしょうじてしまうような出来事は、とりあえず、不幸な出来事の「イメージ」に合致すると思う。