2023年3月7日火曜日

「ミスをしても、おたがいさま」なのであれば「雑な対応をしても、おたがいさま」だ。

 引用開始

もうこの人とは離れるべきだなと思うのは、自分への対応が雑になったときです。ぱっと見だけ「感じのいいひと」は世の中には沢山いるけど、気まぐれで咲かせる花が綺麗なだけで、本当に見るべき所は心の奥にある根っこの部分なんですよね。自分は大切にされていないと感じたら今すぐ離れるといいです
引用終了
 

人間はおたがいさまだから、肩の力をぬいてゆるしてやるべきなんだろ。相手の自分への対応が雑になったときに、相手に対して「カチン」ときても、肩の力をぬいてゆるしてやればいいだろ。自分だって、相手への対応が雑になるときはある。人間はおたがいさまだから、ゆるしてやるべきなんだろ。「どんなことがあっても」肩の力をぬいて、ゆるしてやるべきなんだろ。ゆるしてないじゃん。

相手だって「ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから、自分への対応が雑になっても、肩の力を抜いてゆるしてやればいいでしょ。「自分への対応が雑だ」なんてことにはこだわらないで、もっと相手にやさくしくしてやってもいいんじゃないの。どんなことも、ゆるせるような寛容な気持ちで心を満たしておけば、自分への対応が雑になっても、ゆるせるんじゃないの?

「カチンときてもおたがいさま」なのだから、ゆるしてやればいいだろ。「ミスがあってもおたがいさま」なのだから、ゆるしてやればいいだろ。「なにがあってもおたがいさま」なのだから、ゆるしてやればいいだろ。「なにがあってもおたがいさま」なのだから、「雑な対応」はおたがいさまだ。どんなことも、ゆるせるような寛容な気持ちで心をみたしておきたいのだから、みたせばいいでしょ。どんなことでも、ゆるせるような寛容な気持ちで心をみたしておけば、「雑な対応をされても」ゆるせるのでは? ぜんぜん、寛容な気持で心をみたしてないじゃん。寛容な気持で心をみたしてないから、(相手との)縁を切りたくなって、縁を切るんでしょ。いちいち「対応が雑だ」とカチンときてるんじゃないの?

「雑な対応だ」と思ったとき、ゆるしてやれば、何回、(相手が)雑な対応をしてきても、そのつど「人間はおたがいさま」と思って、ゆるしてあげればいいんじゃないの?

「雑な対応」ぐらいで、腹をたてているのに「なにがあってもおたがいさま」なんて、よく言えたものだな。「なにがあっても」と言っているんだよ。これじゃ、実際に子供を誘拐されて、殺されたら「なにがあってもたがいさま」だから、ゆるしましょうなんてことはならないよな。だったら、人に「なにがあってもおたがいさま」なんて言うべきじゃない。

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 「なにがあってもおたがいさま」というのは、「どんな出来事が発生しても、おたがいさま」ということなんだよ。どうして、その出来事のなかに「雑な対応をされるという出来事」は、ふくまれていないんだよ? 「なにがあっても」と言っているでしょ……。「雑な対応されるのだけは別だ」言いたいのか? ほかの人は「雑な対応」レベルのことではないことで、悩んでいるんだよ。そういうことがあるのぉ。もちろん、雑な対応でも、頭にくる。けど、そういうレベルのことではないことで、くるしんでいるんだよ。「なにがあってもおたがいさま」「もっと肩の力をぬいてゆるしましょう」なんてことを、「雑な対応レベルのこと」でおこっているやつが、言うべきではない。

「なにがあってもおたがいさま」だから「寛容なこころ」で、相手をゆるして、つきあうか? あるいは、「なにがあってもおたがいさま」なんてことはないから、自分に対して雑な対応をするやつのことは、さっさときるのか? どっちかにしろ。ささっと(縁を切る)という対応をするなら「なにがあってもおたがいさま」とか「寛容な気持でこころをみたしておきたい(寛容な気持でこころをみたしておけば、肩の力をぬいて、ほかの人をゆるせる)」というようなことを言うな。「ミスをしても、おたがいさま」なのであれば「雑な対応をしても、おたがいさま」だ。 

「(こっちが雑な対応をしてないのに)相手が雑な対応をしてきたら、おたがいさまではない」と思うなら「なにがあってもおたがいさまだ」とは思ってないということだ。

「雑な対応」をされるとカチンときて、縁を切るというのであれば、「(相手を)ゆるしてない」ということだ。「おたがいさまだからゆるす」なんことは、実行してない。「寛容な気持でこころをみたして、相手をゆるす」ということは、実行してない。そもそも自分が実行してないことを、ほかの人にすすめるというのは、いかがなものか? 自分が実行してないことを、さも実行しているようなふりをして、ほかの人にすすめるというのは、いかがなものか?

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雑な対応をされたら「おたがいさまじゃない」と思うやつが、「なにがあってもおたがいさま」なんて言うな!! 

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毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。