引用開始+++
もっと許しましょうね。相手のことも、自分のことも。私たちは「ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから。もっと肩の力を抜いていいし、もっと優しくしてもいい。どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たしておく。カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様
引用終了+++
「ミスだっておたがいさま。だれだってミスをします。あなたもミスをするし、相手だってミスをする。自分だってミスをするのだから、相手のミスをゆるしましょう」
こういう言葉というのは、基本的には、いろいろな見えない前提がある言葉なんだよ。手短に言うと、いろいろな決めつけがある。
その決めつけは、基本的には、書かれてないことが多い。
書かれてないのだから、書いたことじゃなということが言えるのだけど、「どんなことだって」というような言葉は書いてあるので、その見えない前提が、すけて見えることがあるのである。なので、この言葉の作者は、まるで気にしてないのだけど、「いらっ」とくる人がでてくるのである。
「ミス」と言えば、どんなミスだってミスなんだよ。小さなミスも、大きなミスも、ミスと言ったら、ミスなんだよ。ミスというのは、非常に抽象度が高い言葉なんだよ。どんなミスも、「ミス」という言葉に含まれてしまうんだよ。だから、ただ単に「ミス」と言った場合には、どんなミスも「ミス」という言葉に含まれてしまうということを、気にして発言するべきなんだよ。
簡単に言ってしまえば、釣銭をまちがったというようなミスも、人が死んでしまうようなミスも、どっちもミスなんだよ。漢字変換をしまちがったというミスも、全身不随になるようなミスも、どっちもミスなんだよ。
もし、だれかのミスで、自分が、そのあとずっと、動けないからだになってしまったとしよう。
そして、病院のベットで寝ているとしよう。そのとき、公平さを装う第三者があらわれて、「だれだってミスをします」「あなたもミスをするし、相手だってミスをする」「あなただって、漢字変換ミスというミスをしたでしょ」「それとおなじですよ」「相手だって、自分だってミスをするのだから、相手のミスをゆるしましょう」と言ったら、どういう気持になるか?
俺だったら、「ミスのでかさがちがうだろ」「ミスの意味合いがちがうだろ」「どうして、(たとえば自分のブログにのせる文章の漢字変換ミスと、その後の人生がなくなるようなミスをいっしょにするんだ」と言いたくなる。
「ミス」というおなじ言葉として、表現されることであっても、現実世界ではまったくちがった、意味内容をもつことがあるのである。
この公平さを装う第三者というのは、漢字まちがいというミスも、全身不随になって動けなくなってしまったということをもたらしたミスも、同じレベルのミスだと思っているのである。どんなミスも、ミスはミスだから。そして、だれだってミスをするのだから、ミスはおたがいさまだというとになる。ミスがおたがいさまなら、どんなミスも許すべきなのである。
公平さを装う第三者が、そういうふうに思っているということが、ベッドに横たわっている人にわかった場合、ベッドに横たわっている人は、おこるのである。このいかりは、正常ないかりだ。わかってないのは、公平さを装う精神世界の人だ。
こういう精神世界の人は、自分のぶんだけ「他人」のミスをゆるせばいいわけ。他人に対して、別の他人のミスをゆるすべきだというようなことを言うべきではない。どうしてかというと、いままで説明してきたように、ひとくちに「ミス」と言っても、現実世界では「ミス」の内容が、大きくことなるからだ。
こういう精神世界の人は、「ミスはミスで、どんなミスもおなじ」「みんな、ミスをするのだから、他人のミスはゆるすべきだ」というようなことを言っているのだけど、話は、わりと複雑なのだ。他人が他人に迷惑をかけた場合を考えると、想定される人物が三人必要なのだ。
たとえば、精神世界の人をAさんだとすると、Bさんと、Cさんが必要になる。Bさんは、すでに、Cさんに迷惑をかけた人なのだ。逆に、CさんがすでにBさんに迷惑をかけた人である場合もある。
ようするに、話者(自分・精神世界の人)と、(他人1)(他人2)が必要なのだ。話者は、他人1が他人2にどのような迷惑をかけたとしても、他人2は他人1をゆるすべだということを言っているのである。
これが、ゆるしのすすめだ。
しかし、話者は、他人1と他人2のあいだに、どのようなことがあったのかということに関しては、まったく感知してないのである。「ミス」という言葉をつかっているけど、そのミスは、他人に迷惑をかけるタイプのミスなのである。
そして、ミスの大きさは、捨象されているのである。抽象的な世界の「ミス」について語っているわけで、現実世界の「ミス」について語っているわけではない。抽象世界の「ミス」は、なにか「ミス」と呼べるものといった、具体的な姿がない「ミス」なのだ。
しかし、現実世界の「ミス」というのは、すべてが、個別具体的なミスだ。この個別具体的なミスは、現実の文脈の中で、大きなミスであったり、小さなミスであったりする。やられたほうがこうむった被害のでかさについては、まったく語られていないのだ。
なので、現実世界において、他人がしでかしたことによって、たいへんな被害が生じている場合を無視しているのだ……この話者は、他人1か他人2にしょうじた被害について無視をしている。けど、「どれだけ被害がでかくても、人間は、人間(他人)をゆるすべきだ」という意味のことを言っているのだ。
他人1がどういうミスをしたのかということはまったく問題にならない。他人1のミスによって、他人2がどのような被害を被ったのかということは、まったく問題にならない。そういうことを言っているのである。
他人1と他人2をいれかえることもできる。けど、いちおう、他人1が他人2に迷惑をかけたというケースについて語っている。何度も言うけど、逆の場合もある。他人2が他人1に迷惑をかけた場合もある。
さらに、話者が「自分」という言葉を使うと、その自分という言葉は、話者自体のことをさしているのか、読者自体のことを指しているのかわからなくなる。これは、けっこう重要なことだ。
こういうことを、全部吹っ飛ばせるのは、「ミス」という抽象的な言葉を使い、「自分」という抽象的な言葉を使い、「他人」という抽象的な言葉を使うからだ。
あるいは、「他人」のかわりに、相手という言葉を使う場合もあるのだけど「相手」という言葉も、かなりめんどうな問題を引き起こす。抽象的な「ミス」という単語をつかっているのにもかからず、自分!の人生において発生した「ミス・ストーリー」が頭のなかにいくつかあるからだ。完全に抽象的な「ミス」全体について語っているようでいて、思い浮かべて語っているのは、この人の人生において発生した、具体的なミスなのである。そのミスは、その人の人生において発生した具体的なミスなのであるから、どれも、他人の人生において発生した具体的なミスとはちがうのである。話者が、具体的な話者の人生のなかで発生した「自分」と「相手(具体的・個別的)」にかかわるミス・ストーリーを思い浮かべて、話をするのだけど……抽象的な話をするのだけど、読者は読者で、読者の人生のなかで発生した「自分」と「相手(具体的・個別的」(話者にとっての相手)」にかかわるミス・ストーリーを思い浮かべてしまうのである。