2023年3月14日火曜日

防衛として、いろいろと気にしていた みんな、ほんとうにわかってない。

どうしても、白側の情報がほしくて、Twitterを見てしまうけど、白側のアートや黒側のアートがよくない。白側の人も、黒側のあれやこれやを紹介しているので、どうしても、目に入ってしまう。アートじゃなくても、たとえば、黒側エリートの顔を見ると、いやな感じになる。顔写真とかよくのっているでしょ。もう、全部がいやなんだよな。

あと、どうしても、ネズミのことを思い出してしまう。カサカサカサという音を思い出してしまう。これ、親父がやったことなんだけど、いつものように、俺が、親父のしりぬぐいをしなければならなくなった。

俺だって、ほんとうは、いやだ。

けど、生きるために、ネズミシートで捕まえて、袋に入れなければならなかった。けど、こんなにいやな思いをするのなら、やっぱり、空気穴をあけてやればよかった。

けど、空気穴をあけたらあたけたで、たとえば、ウジがわいたり、カラスがつついたりするかもしれない。そうなったら、やっかいだ。

袋に入れて(僕が病気にならなかったからいいけど)(ネズミのからだについていた病原体で)病気になってしまったら、やばい。

袋に入れないと、寄生虫だって吸い込んでしまうかもしれないだろ。袋を動かしたとき……。どのみち、袋を、市の袋に入れなければならないのだから。

なら、その時点で市の袋に入れればよいのではないかと思うかもしれないけど、だめなのだ。空気穴をあけて、市の袋に入れると、けっきょく外に出すことになるからおなじなのだ。市の袋には、なんかほかのものも入れないと、もって行ってくれない可能性がある。

じつは、胸がくるしいというのがある。これは、食べ物のせいじゃないかと思うのだけど、腹と胸がくるしかった。だから、横になっていてもくるしいのである。

俺は、ほんとうに、やりたくなかったんだ。

だから、「ネズミ対策工事をしよう」と言ったのに、「俺がつかまえるからいい」と言われた。これ、意味がないんだよね。けど、そっちの方向でスイッチが入ってしまうと、だめなんだよ。これ、頭がおかしいから、なにを言ってもきかない。親父も兄貴もおなじなんだよな。

 

で、さっき、台所に置いてあったので、殺虫剤がかかったかもしれない、鍋と、やかんふたつを、洗った。殺虫剤をおとすために、わざわざ、スポンジたわしで洗ったのだ。それで、袖がぬれたから、いま、洗濯をしているのだけど……。

けど、洗っても、ぼくは気になるのだ。けっきょく、軍手をしていると思うけど、作業員がつかんで、それらを入れるところ(もしくは、つむところ)に入れて、もっていくわけだから。

まあ、ぼくは素手でいじったわけだけど、殺虫剤がついていると知っているからね……。知っているから、終わったあと、念入りに手を洗うわけだし、箸やスプーンをもつときも、気をつかう。ともかく、やっかいなんだよ。気になるんだよ。

これも、もともとは、きちがい親父がきちがい的な理由……ささいな理由でもないことで、怒り狂っていたからなんだけどね……。これ、理由と、怒りの度合いが、つりあってない。ほんとう、きちがい。あんなの、何年もおさないときにやられて、気にならないわけないだろ。防衛として、いろいろと気にしていた。怒りくるをれないように、幼児の俺は、気にしていたのである。

理由が「きちがい」なんだよ。

理由が、きちがい的。

理由が、きちがいしか思いつかないこと。

気ちがいではない人は絶対にそんなことでは怒らないというようなことで、逆上してむかってくる。これが、幼児だろうがなんだろうが、全力なんだよ。発狂なんだよ。幼児だろうがというよりも、「幼児だから」なんだけどな。それも、きちがいなんだよ。全部、きちがい。きちがいが荒れ狂っている食卓だったなぁ。

*     *     *

もう、親父が年老いたときの話だけど、これで、俺が「やらなくていい」「やらなくていい」「やらなくていい」と親父に対して、絶叫して怒っていると、となりの人なんかが、俺が親父を虐待しているように誤解してしまうんだよな。やらなくてもいいと言っているのは、俺の自転車の修理だったり、電子レンジに金属のスプーンを入れることだったりするのだ。

じつは、うちは、ふるいからペンダントライトなどをつるすところのフック部分(引き掛けシーリング)が、超古いものなんだよ。古すぎて、規格があってない。うちの場合は、この部分をいじるとなると、電気工事士の資格をもっている人をよぶしかないのである。

で、ともかく、一階のトイレの前の電球が……まあ、ペンダントライトと言えないものなのだけど、ペンダントライトだった。これも、門のところにゴルフボールがついているのとおなじ、普通の家だったら絶対ありえない、へんなかさがついている。

もともと、ちがうかさを、荷物用ロープで、かさとしてつけたような感じだ。で、それをやったは、だいぶ前の親父なんだけど……。ようするに、もともとのかさがついているやつがこわれて?どっかに言ってしまって、かりそめのかさをつけたものだ。

で、電球までのコードが、普通のコードではなくて、布の被覆コードなんだよ。これは、昭和三〇年代の電球までの「つるし」コードで、今時こんなものをつかっている人はいないと思えるようなコードなのだ。で、それが、ぼろっぼろになって、銅線が見えているような状態になっていたので、親父が、かえようとしたのだけど、そのコードとおなじようなレベルのぼろっぼろの布被覆コードをつかおうとしていたの!

ぼろっぼろの布被覆コードは、繊維がささくれだっていて、糸のようになっている部分があるから、火がつきやすい状態だった。だから、火がつきやすい布被覆コードと、被がつきやすい布被覆コードをかえても、発火しやすい状態がかわらないわけ。

で、素人工事で、発火するといやだから、「それは、(親父が)かえなくていい」と俺が言ったのだけど、一度スイッチが入ってしまうと、きかないんだよ。

だから、「ぼろっぼろのコードをぼろっぼろのコードにかえてもおなじだろ」「知らないうちに火がついたらどうするんだ」「かえなくていい」「かえなくていい」と俺が何回もどなったわけ。あぶないから、どなっているんだぞ。

で、その回は、二〇回ぐらい、どなったら、親父がちょっとだけおれて、「それなら、このコードを使うからいいだろ」と言って、普通のビニール系のコードにかえたんだよ。ほんとうは、それだって、どこかの電源コードを切って、とっておいて、流用しているだけだから、あぶないと言えば、あぶない。けど、糸が複数本出ているようなコードよりはましだから、それで、こっちもおれた。けっきょく、親父が、ビニール系のコードにかえた。けど、親父は、電気工事士の資格をもってないから、ほんとうは、違法行為なんだよ。親父が悪いことをしているの!! で、じゃあ、少しは(おやじさんもおれる)のだなということになるのかもしれないけど、それは、親父が高齢者になったから。こっちのからだが大きくなったから。こっちのからだが小さい、幼児のとき、どれだけ、でかい声でさわいで「やめてくれ」と言っても、やめなかった。きちがい親父が押し切った。だから、そういうのが、基本的に言って、トラウマになっている。「すんでない」のだよ。あのきちがい空間は、ない。きちがいが、押し切り勝ちをする。そして、押し切り勝ちをしたにもかかわらず、きちがいは、押し切り勝ちをしたと思っていない状態なのである。それこそ、「やったってやっない」であり、超・無責任な状態が成り立っている。これは、じつは、きちがい兄貴の、ヘビメタ騒音にも成り立っている。きちがい的な意地でやったことは、全部、やってないことなのである。きちがい兄貴も、きちがい親父もおなじなの。

ペンダントライトのフックと電線工事に関して言うと、けっきょく、ビニール系の古いコードを使ってつるしてあるわけ。けど、これも、ほんとうは、やっちゃいけないことだからな。「火事になるとこまるからやめろ」と言っているのに「おれがやる」「おれがやる」「おれがやる」「おれがやる」「おれがやる」とどなって、ゆずらない。けっきょく、その回は、こっちも、もう、大人なので? きちがい親父が、布被覆コードを使うのをあきらめて、ビニール系の被覆コードを使ったわけだけど、それだって、ふるいやつなんだよね。ともかく、俺が「やめてくれと言っているだろ」と「やめろと言っているだろ」とどなりまくって、きちがい親父が「おれがやるからいい」「おれがやるからいい」とどなりまくっている状態が続いた。こっちが「やらなくていい」と言っていることは、なぜか、スイッチが入ってやってしまうことが多いんだよな。ともかく、俺だって、どなりたくないのだ。どなりたくない。近所に聞こえるような状態で、どなりたくない。……えーっと、これは、ビニール系の古いコートが、物置に入っていたので、親父が物置に行ってコードをとってきて、縁台で、コードの修理をしようとしたので、「やらなくていい」「おれがやるからいい」の繰り返しを、外でやったわけ。親父が認知症の高齢者だから、まるで、俺が、親父をいじめているように解釈する人がでてくる。「(認知症でそうなっているのに)そんなふうに何度も、どなることはない」などと思ってしまうのだ。事情を知らない人なら、「親に向かって、あんふうに(何回も)どなってなんだ」などと思ってしまうのだ。となりのじじいがそういうふうに思っていたのである。となりと言ってもいろいろとあるのだけど、このとなりの人は、きちがい兄貴がうるさくしていたころのことを知らない人なんだよな。ともかく、認知症でそうなっているわけではないわけ。幼児のときは、きちがい親父のほうがからだがでかいので、きちがい親父がすこしもおれずに、やりきり勝ちをするし、やったと思むてない状態なんだよね。よく、ぼくが、ハンダゴテ事件のことを説明するけど、あれもおなじしくみなんだよ。あれ、親父としては「やってやったこと」なんだよ。けど、不都合なことは、絶対の意地で認めないし、絶対の意地で認めなかったということを認めないんだよ。これ、わからないと思うけど、……普通の人にわかるわけがない。ともかく、相手が自分好意でこまったということは、最初から最後までわかってない状態が続く。だから、「これこれでこまったんだぞ」と言われると「やってないやってない」の逆上になるわけ。

けど、そういうふうにしても、今度は、また、「そういうふうに」否定して怒ったということが、記憶にない状態になるわけ。で、このしくみが、兄貴のヘビメタ騒音にも成り立っている。ハンダゴテは、親父が兄貴にやったことだ。で、ヘビメタ騒音事件は、兄貴が俺にやったことだ。で、兄貴と親父の、こういうところの態度がまったくおなじなのだ。自分の行為でこまっているということが、わかってないというのがまったくおなじだし、その他も、まったくおなじ。普通の人は、このきちがい的な頭の構造がわかってないから、俺が言えないだけなんだと思ってしまうんだよな。「そんなのは、お兄さんに言えばいい」「そんなのは、お父さんに言えばいい」……こういうことをどれだけ言われたか……。普通の人はこういう頭がおかしい家族のことはまったくわからない。これがまた……。わからないんだよ。普通の人のきれいごとが成り立っていたら、こまってないの……。けど、きれいごとを前提にして、思いついた解決案(アイディア)を言ってくるわけ……。普通の人が俺に……。普通の人には絶対に、きちがい親父やきちがい兄貴の頭の構造がわからない。あいつらだってわかっているわけじゃないからな。わかってやっているわけじゃないから、強烈なのである。みんな、ほんとうにわかってない。

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ああっ、それから、「にんげんはみんなおたがいさま」と言っているやつが、きちがい的な家族にやられたやつの気持ちを、どれだけ逆なでしているか、そういうことを言っている人は、わからないだろう。わかるわけがない。

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ヘビメタ騒音もほんとうに、切羽詰まった状態が、一日に何時間も何時間も続いて、きつかったな。それで眠れなくなっても、俺が悪く言われる。俺が甘えているように言われる。あんなの、みんな……ほんとうに全員……自分の嫌いな音をあのレベルのでかさで、一日にに何時間も何時間も聞かされたら、眠れなくなる。眠れなくなる。睡眠不足がどれだけ、きついかわかってない。自分が勝手に、夜中のラジオを聴くために起きているのとはちがうよ。これも、おなじことだと思っているかもしれないけど、きちがいヘビメタで、眠れなくなるのと、自分の意思で起きているのはちがう。よなかに起きていて、睡眠不足ということはおなじかもしれないけどそれがちがう。その場合、自分がやりたくてやっている場合は、「やっぱり睡眠不足だとだめだから、やらず眠ろう」と思えばそれで、終了だけど、きちがい兄貴にどれだけ言っても、きちがい兄貴が、きちがい兄貴の基準でやり続けるわけだから、眠れない状態がずっと続いてしまうのである。ほんとうに、人をさぼり魔みたいに言いやがって……。

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あと、それから、関連事項で言うと……どれだけ人がガミガミ言っても、気にする必要がないと言っている人は、一方的なものの味方しかできない人なのである。自分がガミガミ、言われたときにそうすることがいいことだと思っている人が、自分がガミガミ言っても相手が自分の言うことを聞かない場合は、その相手のことをどう思うか? ということが、問題だ。 AさんとBさんがいたとする。Aさんが上司で、Bさんが(Aさんの)部下だとする。Bさんが何回も遅刻をしたとする。Aさんが何回も怒って、注意したとする。けど、Bさんはまったく聞かずに、何回も遅刻をしたとする。Aさんがアドラー主義者だった場合、Bさんのことをどう思うか? どれだけ、ガミガミ注意されても、気にしないすばらしい人だと思うかどうかだ。さらに、Bさんが職務怠慢で、どれだけ注意してもなにもあらためないとしたら、上司のAさんは、どう思うか? どれだけなにを言われても、気にしないいい人だと思うかどうか? だ。アドラー主義者は「それとこれとはちがう」と言い出すかもしれないけど、おなじなんだよ。アドラー主義者は、自分がガミガミどなられているときと、自分がガミガミどなるときの、基準がちがうんだよ。立場がちがうから、気持ちがちがう。ほんとうは、問題を引き起こす態度だ。相手??がガミガミ言ったことを無視する場合でも、相手に自分の価値観に基づいて、がみがみと注意をする場合でも、ほんとうは、「がみがみ言われても気にすることはない」ということが、正しいことでなければならないのである。「自分が考えて、相手がっていることが正しいなら、きけばいいし、正しくないと思うならきかなくてもいい」というようことを、アドラー主義者は言うかもしれないけど、それは、それこそ、逃げているだけだ。価値観の相対化ができてないだけだ。その都度、自分の基準が自分にとって正しいなら、ほんとうは問題をひき起こしている。上下関係という関係性のなかで「あぐらをかいているだけ」だ。これ、じつは、上下関係と、ピラミッド組織の問題がある。これは、悪魔が支配している社会の特徴だ。で、アドラーの考え方というのは、この社会に合致しているのである。アドラー主義者の考えたというのは、社会の圧力を強くするだけだ。

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手短に言うと、ボロボロのコードを気にしない傾向と、ネズミの糞が畳の上におちていても気にしない傾向はおなじだ。傾向というよりも、どれだけ、言っても完全に無視なのである。言われたって、言われてない状態なのである。何万回言われても、一回も言われたことがない状態にとどまるのである。

で、これは、親父のことだけど、きちがい兄貴もおなじなんだよ。きちがい兄貴もおなじ。そりゃ、きちがい兄貴だって、ネズミの糞は気にすると思うけど、自分のヘビメタに関しては一切合切気にしないんだよ。また、親父のことにもどるけど、たとえば、ネズミが入ってきたことによって、ダニが発生して、からだがかゆくなったとするだろ。で、俺が「ダニでからだがかゆくなった」と親父に言ったとするだろ。そうすると、きちがい親父は「かゆくない。かゆくない」と本気で言うわけ。だから、そういうレベルで話が通じないの!!!

きちがい親父のことから、きちがい兄貴のことにもどるけど、きちがい兄貴も、そういうレベルで、ほんとうに、騒音を無視している。自分が鳴らしている騒音を無視している。そうなると、自分が鳴らしている騒音で、おとうとがこまっているということも、ごく自然に、無視することになる。だから、きちがい的な意地で、四六時中(しろくじちゅう)、自分が満足できる音でヘビメタを鳴らすわけだけど、鳴らしているあいだ、「おとうとに迷惑をかけているつもり」はないのだ。それは、おとうとが言わないから、わからないのではなくて、何百回、何千回、何万回言われてい、わからない。一回も言われてない状態で、鳴らし続ける。自分が鳴らしたい音で鳴らすということに、「こだわり」があるから、これも、ゆずらないのである。なら、「こだわりがあるから、絶対にゆずらないで鳴らしている」という気持があるかというと、そんなのはまったくないという状態で鳴らしている。だから、どこまで行っても話があわない。けど、あわない状態で暮らしていると、こっちが、くるしむだけで、あっちは、好き勝手にやれて、快適な状態なのである。そりゃ、自分が満足できるでかい音で鳴らしたいのに、常識がじゃまして、鳴らせないという状態よりも、常識が邪魔しないで、鳴らせる状態のほうが「本人だけは」気持ちがいいのである。……これだって、ポジティブなことを考えてポジティブに行動しているということになってしまう。「気にしない」ということが、すぐれているということなのであれば、まさに、きちがい兄貴は、「気にしない」という意味ですぐれしているのである。「どれだけ相手が、ガミガミ言ってきても、一切合切気にしないで、自分が思ったことをできる」……。「どれだけ言われても気にしない」……気にしないという能力が高い……。能力が高い分だけすぐれている……。こういうことになってしまう。「自分で考えて、気にするべきではないと思うなら、気にしなくていい」「相手の言い分があっていると思えば、気にしてやめてあげればいい」……きちがいがきちがいの基準でそう判断したら、きちがいのなかでは、そうなんだよ。「よく考えたこと」になってしまうんだよ。おやじみたいな気ちがいだって、兄貴みたいな気ちがいだって、「自分で判断して」「気にするべきではないと思ったから」「気にせずにやった」と思うことは可能だ。しょせん、そういう判断をするのが「自我」なのだから、「自我」を基準にして考えた場合、そういうことを言ってもむだだ。そういうことというのは「気にするべきことなのか、気にしなくてもいいことなのか、自分で判断すればいい」ということだ。そういうところで、アドラー主義者は、自我を相対化できてないからダメなのである。「だれのあたま」でそう考えるのかということを問題にしてない。個人の基準が成り立っているんだぞ。個人が(この世を)認知・認識しているんだぞ。個人の頭は、個人の頭なんだぞ。「なんか、統一的な基準があるようなこと」を言うな。「統一的な基準があるから、だいじょうぶだ」というようなことを言うな。「だれの頭にも、統一的な基準が成り立っている」と思うな。そういうことを、前提にしてものを言うな。そして、前提にしてものを言っているということについて、もうちょっと、深く認識しろ。これも、「見えない前提」で、本人は特に意識してないのである。「見えない前提」を可視化したほうがいいんじゃないの。そうじゃないと、「見えない前提」がまちがっていた場合、自分の誤謬に気がつけないよ。

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そもそも、「うちのひと」にどれだけ言われても、そういうところまではいかない。けど、ほかの人に言われた場合は、「自分で判断して」「気にするべきではないと思ったから」「気にせずにやった」と言うことは可能だ。そして、家に帰ってきたら、そういうことを言った(よその人にそういうことを言った)ということを忘れて、がんがん鳴らせばいい。そうすれば、自分がやりたいことができる。普通の人の基準で、ものすごくでかい音を鳴らすことができる。普通の人だったら、「めいわくだからやめておこう」と思うようなでかい音でずっとずっと、鳴らすことができる。

「めいわくをかけるのではないか」と思うことができない。なのだから、「自分で判断して」「気にするべきではないと思ったから」「気にせずにやった」と思うことはできないという点も確かにある。考えないでやっている。けど、考えなくても、「考えた」と言うことは可能だ。自己申告なのだから……。本人が「考えた」と言えば、「考えた」ことになる。「考える」と言ったって、もともとの基準が問題になる。きちがい兄貴は、きちがいだから、きちがいの基準で考えるだけだ。本人は「よく考えた」と思うだろ。そもそも、「やっていいことをやっている」というきちがい的な信念がある。で、そのきちがい的な信念は、きちがい兄貴のなかで、可視化されているわけではないのである。言語化されているわけではない。けど、「考えたのか」と言われたら「考えた」と言うかもしれない。「考えた」と言ったほうが、自分の立場を守れる場合は、そういうふうに言うだろう。気ちがいでも、もちろんそういう判断ができる。じゃあ、きちがいではないのか? そうではないのだ。たとえば、よその人の前では「考えた」と言ったけど、うちに帰ってくれば、その発言とは関係なく、考えないで、鳴らすことができるのである。そういうふうに、自我が「つながってない」ということが問題なのだ。場面場面で、自我がつながってないから問題なのだ。この場合は……。「その場面だけ乗りきればいい」という考え方ある場合、乗りきったら、気にしないのである。

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。