2023年3月4日土曜日

人間界のすべてのことは「おたがいさま」だと決めつけてしまう

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引用開始

もっと許しましょうね。相手のことも、自分のことも。私たちは「ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから。もっと肩の力を抜いていいし、もっと優しくしてもいい。どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たしておく。カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様
引用終了

 

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これ、白側信者だから、アドレノ〇〇〇については知っているだろう。ある子供がA子さんだとする。ある子供を誘拐した人がBさんだとする。BさんがA子さんを誘拐して、拉致、監禁して、虐待して、A子さんを殺したとする。

それは、BさんがA子さんを虐待したときに、A子さんが体内で放出するある成分がほしいからだ。

ようするに、Bさんが、自分の欲求にしたがって、A子さんからアドをとって、殺したとする。

その場合も、「おたがいさま」なのだろうか。

A子さんも、Bさんも、ぶっつけ本番で人生を生きているのだから、A子さんは、Bさんをゆるすべきなのだろうか。まあ、殺されてしまうから、ゆるすも、くそもないのだけど、この白側信者がAさんに要求していることは、そういうことだ。

Cという親が、Dという子供を虐待して殺したとする。一方的に、Cという親が、Dという子供を虐待したとする。それでも、「人間はみんなお互いさま」なのだろうか。「人間はみんなお互い様」だから、DはCをゆるすべきだと、Dがするべきことを、赤の他人が、Dに要求してもいいのだろうか?

「なにがあってもお互い様」なのだと言っている。こういう人は、お互いさまの意味がわかってない。一方的にやられたのに、おたがいさまに、なるわけがない。「なにがあってもお互い様?」……こういうことをよく言えるなぁ。

事柄の意味を無視して、全部おなじようなレベルの意味しか持たないとする、無意味化思考があるのだ。この、見えない前提と言うのは、やっかいだ。個別の事柄の意味を無視して、全部、おなじようなことだと考えているのだ。

だから「なにがあっても」と言っている。個々の具体的な事柄の意味を無視して、「ゆるすべきだ」と言っているのである。この人が、他人全体に向かって言っている。

他人のなかには、この人が想定してるようなことではないことを経験した人がいる。なので、「それとこれとはちがう」ということを言いたくなる。

こういう精神主義世界の人は、すべてがすべて、感覚的な言い方でものを言う。いいことを言っているつもりなのだろう。けど、まちがっている。

たとえば、虐待して殺すという事柄と、ちょっと肩がぶつかるという事柄はちがう事柄なんだよ。全部、事柄だから、おなじようにあつかうべきだという主張には無理がある。

この白信者は、「ちょっと肩がぶつかる程度のこと」を想定して、ものを言っている。「ちょっと肩がぶつかったことぐらいで、カリカリおこるのは問題がある。

゛相手だって自分だって、この世で、全力で生きているのだから、そんなことでおこるべきではなく、もっと、余裕のある気持ちで生活するべきだ」というようなことを言っているのだ。

けど、「ちょっと肩がぶつかるという事柄」と「虐待して殺す」という事柄は、ちがう。どちらも、事柄だけど、意味内容がちがう。

ところが、意味内容のちがいを無効化して、どんなことも「ちょっと肩がぶつかったぐらいのことなのだから、人間は人間(他人)のことをゆするべきだ」と主張しているのである。

しかし、頭のなかでは「ちょっと肩がぶつかったぐらいのこと」を想定しているのだけど、そういう想定があるということを、明言しない。

だから、「虐待して殺す」という事柄と「肩がぶつかった」という事柄を「おなじレベルの事柄だ」とみなしているということは、かくされている。けど、「どんなことが起こっても」という言葉で、じつは、この発言者が「どんな事柄も、おなじレベルの事柄だ」とみなしているということが、すけて見えるのだ。

たとえば、Eさんが、Fさんの行為で、全身不随になって、ずっとこのさき、動けない状態で暮らすことになったとしよう。それですら、「肩がぶつかったレベルのこと」とこの発言者は見なしている。「どんなことが起こっても」やられたほうは、やったほうを、ゆるすべきなのだから、Eさんは、Fさんをゆるすべきなのである。

この白信者だって、自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されたら、おこるはずだ。自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されても、「相手だってぶっつけ本番で人生を歩んでいるのだから」ゆるしましょうということになるのかどうかということだ。

自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されても、「どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たしているから」ゆるしましょうということになるかのかどうかということだ。

自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されても、「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様だから」ゆるしましょうということになるのかどうかということだ。自分の子供が、ただが、アドを採取するために、虐待されて、殺されても、「おたがいさま」なのだろうか。子供は、その相手になにもわるいことをしてないぞ。どこが「おたがいさま」なのだろうか。

この場合は、「肩がちょっとぶつかったこと」と「自分の子供が、誘拐され、虐待され、殺されたこと」が「同レベルのことだ」という前提に立って話がすすんでいるのである。そういうふうに、明言されてはいないけど、「どんなことだって」という言葉が、それを、あらわしている。この白信者の頭のなかには「どんなことだってゆるせるし、ゆるすべきだ」という考えがあるのである。そういうことを言っているのである。けど、そういうことを言っているときは、具体的な事柄としては、「ちょっと肩があたったぐらいのこと」を思い浮かべている。

けど、精神世界の人なので「どんなことでも」「どんなことが起こったって」ということを言いたがる。そして、他人の身の上に起こったことは、どんなことだって「ちょっと肩があたったぐらいのこと」なのだから、カチンときても、お互い様だと思ってゆるせることなのである。想定のなかではそうなのだ。けど、実際に、この白信者の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されたらそんなことは言ってられないだろう。自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されても「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様だから」ゆるすのだろうか。たとえばの話だけど、実際に、自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺された人だっている。その人が、「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様だから、ゆるしましょう」と(関係がない人に)言われたら、どんな気持ちになるかということだ。こういうことが、ぜんぜん、わかってないのである。「(自分の子供を殺した)相手だってぶっつけ本番で人生を歩んでいるのだから」ゆるしましょうと言われたら、どんな気持ちになるか? この精神世界の人は、不特定多数の人に「もっとゆるしましょう」と語りかけている。当然、自分の子供を殺された人も、不特定多数の人のなかに、ふくまれている。はたして、自分が、自分の子供を殺された人と同じ立場になったとき、自分が言っていた理由で、自分の子供を殺した人をゆるせるのだろうか?

かりに、「なにがあってもおたがいさまだから、ゆるしましょう」と言われたとき、考えることはなんなのかということだ。ぼくだったら「ぜんぜんおたがいさまじゃないじゃん」と思う。 この精神世界の人は「なにがあっても」と言っているのだから、当然、自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されることだって、ふくんでいるのである。けど、この精神世界の人は、きれいごとを言っているときは、そういうことを想定してないのである。だから、もっと気楽に、肩の力をぬいて、「相手」をゆるしてあげればいいというようなことを言う。自分の子供が誘拐されて、虐待されて、殺されたときに、公平な?第三者があらわれて「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様だから、ゆるしましょう」と言ったら、どう思うか?


「何があってもお互い様」と軽く言っているけど、これはおかしい。すべての事柄を、平均化して、無意味化しているのである。事柄であれば、事柄なのである。どんな事柄だって、事柄なのである。肩がぶつかったということも、事柄だし、自分の子供が殺されたということも、事柄だ。ぜんぜん、お互い様じゃない事柄も、勝手に「お互い様であるような事柄」にされてしまっている。個々の事柄の意味合いをはく奪してしまっているのである。

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ほんとうーーに、破壊的なやつがいるなぁ。「生まれの格差(家族)中」以上の人は、根本的なことがわかってない。こういう、精神世界主義者みたいなやつが言うことというのは、ほんとうに、「生まれの格差(家族)下の下」のやつを自殺に追い込むことばかりだな。

「そんなことじゃない」という怨嗟の声が聞こえないんだろうな。「なにもわかってない」というのがわかる。こういう無邪気な精神世界主義者のざれごと、あるいは、きれいごとは、ずっとやられ続けて、自殺寸前の人のこころを、破壊する。

これだけ、みごとに、さかなでしまくるやつは、めずらしいな。しかも、そういう人が、うけていて、同意する人があらわれる。ぜんぜん、わかってないな。

こういう、もともと、めぐまれた家に生まれてきた人はなにもわかってないなぁ。そんな、ちょっとした、もめごとであるはずがないだろ。たとえば、ちょっと肩があたったというようなことと、きちがい家族が毎日ずっとやってきたことをいっしょにすることはできないんだよ。

まるでわかってない。

これずっとまえに、「おたがいさま」ということについて書いておいたけど、こういう感じの精神世界主義者みたいなやつが言うことは、ほんとうにどれもこれも、おなじだな。

おカネ持ちの人が貧乏人について考えるときもおなじなんだけど、そもそも、前提がまちがっている。けど、そういう人たちは、そもそもの前提がまちがっているということに気がつかない。気がつかないだけではなくて、言われてもわからない。説明されたって、わかるわけじゃないのだ。どうしてかと言うと、経験がないからだ。

そして、人間の思考というのは、そういう「みえない」前提を必要としている。いつもいつも、みえない前提をもとにして、考えている。見えない前提は言葉の中に含まれていないにしろ、言葉に影響をあたえている。どれだけ言ってもわからないと思うけど……。ほんとうに、きちがい家族がどういうものなのかぜんぜんわかってないんだよな。

きちがい家族にやられたことがない人が発する「おたがいさま」の意味と、きちがい家族にやられたことがある人の「おたがいさま」の意味がぜんぜんちがう。
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めぐまれた世界のなかで、たいして、ひどいことをやられたわけではないのに「ゆるし」について語ってしまう。人間界のすべてのことは「おたがいさま」だと決めつけてしまう。そういうレベルのことじゃないことがあることが、ぜんぜんわかってない。

こういう精神主義的な人が流す「よさそうな言葉」でくるしめられている人がたくさんいると思う。くるしめられている人が感じていることが、真実だ。精神主義的な人が言っているのは一部なのである。部分集合。

そして、精神主義的な人は、めぐまれた家に生まれて、めぐまれた生活をしてきた人なんだよ。本人は、まるでわかってないと思うけど。

だから、そういう基準でものを言う。そういう基準が成り立っている前提でものを言う。けど、そういう基準が成り立ってない家がある。そういう家では、何十年も継続的に、トラブルがしょうじる。

そのトラブルというのは、よくある他人同士のトラブル?のように、「おたがいさま」ではない。継続的なトラブルと、一回なぐられたとか、一回侮辱されたとかというようなトラブルをいっしょにするなと言いたい。

(頭がおかしい親のもとに生まれた子供がどういうことを経験するのか、まるでわかってないな。頭がおかしいということは、機能的な欠陥があるということだ。普通の人ならわかることがまったくわからないということだ。機能障害なのである。

その機能障害がある脳みそを搭載している人は、ずっと、そのままなんだよ。

根本の部分がかわらないわけ。

ほんとうに、こういうことがわかってないな。

こういうことが生み出すことがわかってない。

まるで、学校で、ときどきトラブルが発生するというようなことしか想定してないんだよな……。喧嘩両成敗とかそういう世界の話しかしてない。「おたがいさま」……ふざけるな。

まったくまったくわかってないなぁ。偶発的に起こる「いっかいこっきり」のことと、構造的に起こる「毎回繰り返される」ことをごっちゃにして考えるのはよくない。

現実的じゃないんだよ。まあ、精神世界主義者は、だれかが「お前の言っていることは、気にくわない」とぶんなぐってきても、「おたがいさま」だから「ゆるせる」のでしょ。

そんなの、突発的な出来事で、毎回繰り返されることじゃないからな。「どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たしておく」のだから、当然ゆるせる。

どれだけ、めちゃくちゃな理由でなぐられても、「おたがいさま」だからゆるせる。『ぶっつけ本番」で人生を歩んでいるのだから』ゆるせる。肩の力をぬいて、ゆるせる。けど、毎回やられたり、自分が守りたいと思っている家族をなぐられたらどうなの?

何回、自分が守りたいと思っている家族がなぐられても、「おたがいさま」だからゆるせるの?

「どんなことも許せるような寛容な気持ちで心を満たして」いるので、ゆるせるの?

自分も他人も「ぶっつけ本番で人生を歩んでいる」……だからなんだ? じゃあ、「ぶっつけ本番で人生を歩んでいる」他人が、ぶっけつ本番で歩んでいるから、わけのわからない理由で、自分が守りたいと思っている家族を殺しても、ゆるせるの?

偶発的なことだって、ゆるせないんじゃないの? 自分の家族が学校で継続的にいじめられていても、「カチンときてもお互い様。ミスがあってもお互い様。何があってもお互い様」だからゆるせるの? 自分の子供をいじめている子供も、「ぶっつけ本番で人生を歩んでいる」だけなので、肩の力をぬいて、ゆるせるの?


自分の子供が、インフルエンザワクチンを打ちに医者に行ったら、医者がまちがって新型コロナワクチンを打ったとする。そして、その結果、子どもが死んだとする。「なにがあってもおたがいさま」「ミスがあってもおたがいさま」「カチンときてもおたがいさま」だから、ゆるせるのか?

職域接種で、あのワクチンを打ったら、夫が死んでしまったとする。「なにがあってもおたがいさま」「ミスがあってもおたがいさま」「カチンときてもおたがいさま」だから、ゆるせるの? その医者も「ぶっつけ本番」で自分の人生を歩んでいるだけだから、ゆるせるの?

精神世界主義の人は、「おたがいさま」ではないことについて「おたがいさま」だと思えるのかどうかということについて、もうちょっと思考をめぐらせたほうがいい。

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もっと他人に対してやさしくなったほうがいいと「小さなこと」を思い浮かべて話しているだけでしょ。けど、いい方が言い方だから、「大きなこと」まで含んでしまっている。


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家族ではない人間との一時的なトラブルと、家族である人間との継続的なトラブルをいっしょにするな。言っておくけど、引用文は、別に俺に向かって書かれたことじゃないよ。精神世界主義の人は、よく、こういうことを言って、悦に浸っていると思うから、引用しておくけど。

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毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。