手短に言うと、長すぎるんだよ。繰り返し回数が多すぎる。だれに言っても、わからない。きちがい家族がいない人にはわからない。毎日毎日、おんなじ音を聞かされる。長時間、聞かされる。どれだけさけたくても、うちにいれば、聞かされる。
俺の部屋にいたら、特にでかい音で聞かされる。
からだがもたない。
けど、やられてない人は、それがわからない。だから、俺がなにを言ってもつたわらない。だって、たとえば、「だるい」「つかれた」「憂鬱だ」「しんどい」と言ったって、それが、そのまま、つたわるわけじゃない。
きちがいヘビメタの「だるさ」「つかれ」「憂鬱」「しんどさ」というのが、まったくつたわらない。どうしてかというと、その人は、きちがいヘビメタを毎日、何時間も何時間も、聞かされたわけじゃないから。実際に聞かされたわけじゃないから。
たとえば、「つらい」と言っても、ほかの人が感じる「つらさ」とは、ちがうんだよ。何千日も繰り返されているわけだから……。ほんとうに、きちがいのやりかたがひどすぎる。ほかの人のうちでは、あんな音で鳴ってない。
ぼくが「朝、つらい」と言っても、佐藤(仮名)は佐藤が考える「朝のつらさ」しか、考えることができないんだよ。それだったら『俺だって、朝はつらい』と言うだろう。そしてそのあとに、「でも、がんばって通っている」と言うだろう。
そして、正しいことを言ったと思うだろう。
けど、佐藤には、きちがいヘビメタがない。
きちがいヘビメタの朝がない。
あの連続がどういうことなのか、ぜんぜんわかってない。俺は、がんばったから、だめになっているんだよ。俺は、がんばったから、こわれちゃったんだよ。
もっとも、がんばらずに、学校を休んでいたとしても、きちがい兄貴が、鳴らすきちがいヘビメタの「量」というのはかわらないから、学校を休んでいたとしても、おなじようにこわれた。じゃあ、「俺だから、こわれるのか?」というとそうではない。
俺にとっては、ヘビメタなんだけど、その人が一番嫌いな音を、横の部屋にいるきちがい的な家族がずっとずっと、何時間も、十何時間も、あの音のでかさで鳴らしていたら、こわれるんだよ。それも、実際には鳴らされてないからわからない。生活なんだよ。生活。これがわかってない。「鳴っているとき」だけつらいと思っているんだよな。
「鳴り終わったら、眠れる」と思っているんだよな。生活時間のほとんどをヘビメタにとられてしまうわけだけど、「勉強とは関係がない」と思ってしまうんだよな。実際に鳴らされてないから、「あの騒音のなかで勉強することはできない」ということが体験的にわかってない。
そうなると、ヘビメタが鳴ってない時間に、勉強すればいいということを考える。そういう時間があると思っている。
けど、きちがいヘビメタ騒音で、崩壊している時間に、勉強ができるわけがない。たとえば、ヘビメタ騒音を何時間もあびて、眠れなくなっている時間、勉強ができるのかというとできない。
これも、実際に、生活してみないとわからないかな? きちがいヘビメタをあびて、頭のなかが、ぐちゃぐちゃで死にそうな状態になっている。ものすごく、つかれている。へんなつかれかたなのだけど、もう、死んでしまいたくなるぐらいにつかれている。
くるしいのである。眠れない時間、ただ眠れないだけで、くるしくないと思っているのか? 普通の状態だと思っているのか?
普通の人が感じる「眠れない状態」だと思っているのか?
ちがうね。ちがう。けど、どれだけちがうと言っても、ほかの人にはわからない。