「適応するように努力すれば、適応することに成功する」という文について考えてみよう。適応するように出力すれば、適応することができるのである。
そうなると、「努力しないやつがだめなんだ」ということになるのである。「努力」に焦点があっているので、『努力しか』問題にならないのである。
そして、適応すことに成功しない人がいるのであれば、その人は、努力をしていない人だということになる。
あるいは、理論的に破綻しているのだけど、努力不足だから、ダメなんだ」とか「努力の方向が間違っているからダメなんだ」ということになってしまうのである。
項目要素が、努力しかないので、努力の問題になってしまうのである。貧しさが条件として取り入れられた場合は、「貧しくても、適応するように努力すれば、適応することに成功する」ということになり、貧しい人も、努力をすれば、適応することに成功するということになる。
なにに、適応するのか?
「社会に適応する」でも「仕事に適応する」でもいい。さらに、「目の前の仕事に適応する」でもいい。ともかく、努力すれば、適応することに成功するのである。
成功しないのであれば、努力をしていないからだということになってしまう。
あるいは、ほんとうは理論的に破綻しているけど……「努力不足だからダメなんだ」とか、「努力の方向が間違っているからだめなんだ」ということになってしまう。
才能なんて、関係がないのである。
しかし、才能がないと、どれだけ頑張って「目の前の仕事に適応するように」努力しても、適応できないことがある。そりゃ、才能がないのだから仕方がない。
ちなみに、才能の中に含めていいのだけど、体力や身体能力も、実際には、「成功するかどうか」に関係している。
ところが、体力なんて項目は出てこない。身体能力なんて項目は出てこない。捨象されているのである。この捨象された部分について、相手側!が、言及すれば、「そんなのは、あまえだ」「そんなのは、言い訳だ」と言い返すことに……なっている。
もう、これ、マルチ商法みたいにやることが決まっているんだよ。それは、100%詐欺構文である言い方と集合的一括思考のなかに、含まれている。この点で、誤解が生じるように、最初から、設計されている。
だから、「努力をすれば成功する」と言われると、「努力だけ」に意識が集中してしまって、貧困や才能や体力に(一切合切の)意識が向かないということになる。ようするに、それらの要素項目を、無視してしまう。洗脳計画者は、一般人の考え方のくせを熟知しているので、「努力に絞った言い方をすれば」「ほかの要素項目は全部無視してくれる」ということを、知っている。一般人は、その性質をうまく使われて、「努力をすれば成功する」という文を、信じ込まされる。洗脳される。自己責任論を展開するときに(はやらせるときに)……自己を対象とした責任論について、言及しておけば、他者を対象とした責任論を口にするようになるということを、知っていたとおなじだ。一般人に、自己を対象とした責任論を、教えれば、ごく自然に、他者を対象とした責任論を正しいと信じるようになるということを、洗脳計画者は、事前に知っていたのだ。自己を対象とした責任論から、他者を対象にした責任論への流れというのは、じつは、努力論のなかにもある。努力をすれば成功する……のだから、自分が努力をすれば、自分が成功するはずだという、思い込みが、エサなのである。成功したいわけだから、方法を知りたくなる。「努力をすれば成功する」ということになっていれば、「努力をすればいいのだ」ということになる。この場合は、最初は、自分が対象なのである。他人は、どうでもいいのである。ところが、他人が対象になるのである。それは、第一に、善意として助言をするときに対象になるのである。そして、第二に、ダメ出しをして快楽を感じるときに、対象になるのである。ようするに、マウントをとりたいときに、他人にマウントをとりたいときに、他人を対象として、「努力をすれば成功する」と言うことになる。「おまえは努力不足なのだ」「おまえの努力の方向は間違っている」と言うときも、マウントをとれるので、気分がよいのである。努力論を口にされるほう(言われるほう)は、言う側にとっては、目下の人間なのである。こまっている人間や、弱っている人間は、目下の人間として意識されるのである。実際に、相手はこまっているわけだから、こまっていない自分よりも、目下だという意識が発生する。なので、「人がいやがることはやめましょう」と言っている人も、ごく自然に、ダメ出しをすることができるようになる。だいたい、「人助け」だと思って「正しい助言をしているつもり」になっているので、自分が「人がいやがることをしている」とは思わない。
しかし、言われたほうは、かなりの高確率で、いやな思いをするのである。
どうしてかというと、自分がどれだけ努力しても(自分が操作できない)要素項目が、実際の結果に影響を与えていることがあるからだ。
かりに、才能がない人は、どれだけ努力しても、結果として、成功しないとする。その場合、ほんとうの理由は、才能なのだけど、相手(この場合は、努力論者)は、「おまえは努力不足なのだ」「おまえの努力の方向は間違っている」と言ってくることになる。
これは、前にも述べたように、結果を見てものを言っているだけだ。つまり、後出しでものを言っているだけだ。成功したら、努力をしたということになり、成功しなければ、どれだけ努力をしても、努力をしたことにならないのである。
あるいは、正しい努力をしたことにならないのである。
努力論者は、相手をせめることに成功するのである。
ほんとうは、その仕事に適応する才能がないから、適応できないだけなのかもしれないのに、「努力をしないから適応できないのだ」と決めつけることができるのである。
努力論者が、才能がないからできない相手に対して、「努力をしないから適応できないのだ」「努力が足りないから、適応できないのだ」「間違った努力をしているから、適応できないのだ(正しい努力をしないから、適応できないのだ)」と言うことができる。
「才能がないからできない」と言うことは、「言い訳」になってしまうのである。
「才能がないからできない」というのは「あまえだ」ということになってしまうのである。「間違った努力をしているから、適応できないのだ」というのは、「おまえは、間違った努力をするようなバカだ」というメッセージも送っている。
「正しい努力をしないから、適応できないのだ」というのは「おまえは、正しい努力がなんであるか知らないようなバカだ」というメッセージも送っているのである。
しかし、善意でやっていることなのである。「いい助言をしているつもり」なのである。「おまえは、正しい努力の方向もわからないようなバカだ」というメッセージを送っているのに、「いいことをしている」とか「本当に役に立つ助言をしている」とかと思い込んでいる状態が成立してしまう。
ほんとうの理由が「才能」だとしても、努力論者のなかには「努力」という項目しかないので、成功していないなら、努力をしていないということになってしまうのである。ほんとうは、「才能がないから」成功しないのに、「努力をしていないからダメなのだ」と言われることになる。何度も言うけど、努力論者のなかでは、努力だけが、成功するかどうかを決める項目なのである。
実際には、才能がないから、どれだけ努力しても成功できない人がいたとする。
Aさんだとする。Aさんは、自分ができる範囲で、ものすごい努力をしていたとする。
しかし、成功できなかった。あるいは、成功できない状態でいる。
その場合、努力論者から見れば、Aさんは努力をしていない人になるのだ。そして、理論的に破綻しているのだけど……「Aさんが成功しないのは、努力がたりないからだ」とか「Aさんが成功しないのは、努力の方向が間違っているからだ」とかということを努力論者は言い出す。
Aさんが「才能がなくて」こまっていても、そんなのは、おかまいなしなのだ。かってに、Aさんが努力をしない「ダメ人間」だと決めつける。あるいは、Aさんは、必要な努力をしない「サボり魔」だときつめけるのだ。
Aさんは、努力がじゅうぶんではないと、どこまでもどこまで、せめられることになる。Aさんが成功出ないのは、才能がないからなのだけど、努力論者が、妄想的な理論に寄りかかって、Aさんをさぼり間にしてしまう。
「さぼっているからダメなんだ」「もっと、ちゃんと努力すれば、成功する」「正しい方向の努力をしないからだめなんだ」と言って、Aさんをせめるのである。こういうことを言っているとき、努力論者は、別に悪いことをしているつもりなんてない。
いいことをしているつもりなのだ。
努力論者の頭のなかでは……さぼっている相手が悪いということになる。
さぼっている相手に、「ちゃんとやらなければだめだぞ」と忠告しているだけだということになる。これは、いいことであって、悪いことではない。
悪いのは、さぼっているAさんだということになる。ちゃんと、努力をしないAさんが悪いということになってしまうのだ。
なので、こういうことが繰り返されて、社会がより悪くなるのである。
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ちなみに、Aさんが「自分は才能がないから成功しない」と、ほんとうのことを言ったとしよう。
その場合、努力論者は「Aさんは、言い訳をしている」とみなすことになる。どうしてかというと、成功しないのは、努力をしないからだと思ってるからだ。
あるいは、成功しないのは努力が足りないからだと思っているからだ。
あるいは、また、「成功しないのは、正しい方向の努力をしないからだ」と思っているからだ。
ようするに、Aさんが「ちゃんと」努力をしないのが悪いということになっているのだ……。努力論者の頭のなかでは……。だから、努力論者は「言い訳をするな」と言って、Aさんをせめることになる。
最初の「努力をすれば成功する」という文は、問題がないような文に見えるのだけど、成功する要素は、努力だけだという「まちがった見方」が、最初から含まれている。「努力だけ」なのだから、ほかの要素は、全部、無視してしまうのだ。
ところが、実際には、「努力だけ」が「成功するかどうか」を決めるのではないのだ。
けど、都合よく無視できる「理論」を提供する。これは、ライフハックなので、一見、役に立ちそうな理論なのだ。ところが、ほんとうは、社会を悪くする理論なのだ。運用の場面では、不利な立場の人を、追い込む理論として機能することになる。