2021年10月30日土曜日

恵まれた人が「親切にする」ということを言った場合、恵まれてない人の状況を根本的に無視する

 『人に親切にする』って、たとえば、どういうことなのかということを考えてみる。

たとえば、迷子になって困っている人に道を教えてあげる。

たとえば、誰かが落としたものを、拾って「落としましたよ」と言って、渡す。

たとえば、誰かが落としたものを、拾って、警察に届けてあげる。

たとえば、誰かが「それをとって」と言ったから、とって渡してあげる。

たとえば、だれかが「肩がこった」というので、その人の肩をもんであげる。

たとえば、道をゆずってあげる。

たとえば、重いものを持っている高齢者に声をかけて、重いものを持ってあげる。

そういうレベルのことなのではないだろうか。

家族や同僚といった身近な人に、ちょっとした親切をしてあげるということだろう。見ず知らずの、ほんとうにこまっている人に直接、継続的に親切にしてあげるということを、じつは、含んでない。

恵まれたところに生まれて、恵まれた生活をしている人は、自分がどれだけ恵まれているかわかってない。

自分を中心にして考えれば、自分は普通なのだ。

そして、ほんとうにこまっている人に関しては、無視してしまう。ほんとうにこまっている人は、彼らの生活圏のなかに入ってこないのだ。たまたま、道に迷っていた人が、道を聞いてきたので教えてあげると言った場合は、もちろん、道に迷っていた人が、底辺の人で、道を教えてあげた人が恵まれた人である場合がある。

しかし、そういう例外をのぞけは、恵まれた人が底辺の人に親切にすることはない。そもそも、生活圏がちがうので、出あわないのだ。

そして、出会った場合には、「役職」をとおして出会っているので、プライベートな問題に関しては、話し合うということがない。例外を除けば」と書いたけど、その例外の特徴は、「一回きりですむ」ということだ。

継続的にずっと親切にしなくてもよいのである。

一回の親切で、親切にした気持ちになることができる……これが、重要な要素だ。

すでに恵まれた人は、恵まれた人に囲まれているので、トラブルに巻き込まれることが少ないのである。親切にしてあげたことで、トラブルに巻き込まれることが少ない。そして、相手も、恵まれているので、「そこのところはわかっている」という場合が多い。

ようするに、恵まれた人のまわりには恵まれた人がいて、一回きりの親切をした場合、その一回の親切が終わったとき、親切にした人がいい気分になれる(幸福な気分になれると)ということでしかない。

たとえば、お金の貸し借りにしても、底辺だと問題が発生しやすいのである。お金がなくてこまっている人にお金を貸してあげることは、「人に親切にする」ことになるのだろうか? ならないのだろうか?ということを考えたとする。

一般的には、「親切にしたことになる」と思う。

それはそうだろう。おカネがなくてこまっている人は、こまっている人だ。困っている人がまるまるをくれと言った場合、あげるのが、親切にすることだ。困っている人がなにかをくれと言ったにもかかわらず、あげないというのは、親切にしたなかったということになる。

しかし、おカネを貸してくれといってきた人に、おカネを貸したのに、おカネが返ってこなかったという場合を考えてみれば、おカネを貸して親切にしてあげたにもかかわらず、けっきょくは、不愉快な思いをすることになるのである……おカネを貸した人は。お金を返さないのに、何回もおカネを貸してくれという人だっている。この世にはいる。そういう人は、返さずに、何回も何回も、金を貸してくれと言ってくる。何回か金を貸してあげたあと、「金を返してくれなければ、おカネは貸してあげない」と言ったら、その金を貸してくれと言ってくる人が「けち」と言って怒ったとする。

こういうトラブルがあった場合、ほんとうに、おカネを貸してあげたことは、その人に親切にしたことになるのだろうかという問題がある。こういう話を聞けば、「そんなのはていよくぼっったくられているだけ」「そんなのは、利用されているだけ」と思う人がいるかもしれない。

「親切にした」ことでトラブルに巻き込まれることがあるし、「親切にした」ことでトラブルが発生する場合もある。

しかし、恵まれた人は、「親切にすればしあわせになる。これは絶対に正しい」と言ってしまうのである。これは、その人の親切が、まわりにいる恵まれた人に対する(継続的ではない)親切なのでそういうことが言えるのだ。生まれたときから恵まれている人は、まわりにいる人も恵まれている人なので、親切にすることで、トラブルに発展するということを経験することが少ない。

また、恵まれた人にとってみれば「人にあたえることでしあわせになる」ということも、真実なのである。しかし、これも、直接的に与える場合は、身近な人に限られていて、しかも、一回ぽっきりで終わるようなことなのである。

間接的に与える場合は、もちろん、宗教団体や慈善団体に寄付をするということが含まれている。そして、貧しい人にも間接的に与えれば、あたえたことになると言うことができる。

しかし、直接的か間接的かということは、じつは、本質的な問題なのである。あたえるものを持ってない人、あるいは、持っているものが少ない人は、あたえることで、しあわせにはならないのである。しかし、裕福な人は、そういう条件を無視して「あたえれば幸せになる」と言ってしまう。

そして、「金額の問題」や「ものをあたえるということに関する問題」を指摘されれば、無形のものでもよいということを言いだす。つまり、おカネやモノをあげなくても、親切にしてあげるだけで、あたえたことになるというようなことを言いだすのだ。

しかし、親切にしてあげるということには、問題が含まれている。ぼくがずっと言ってきたことなので、省略。

+++++++++++

ようするに、恵まれた人が「人に親切にすれば幸せになれる」と言った場合、ごく限られた範囲では、そういうことも発生しうるということしか言ってない。しあわせになれる」と言っても、そのとき、しあわせを感じたという話にすぎない。不幸な状態でくらしている人は、たとえ、親切にされても、不幸な状態のまま暮らすということになる。どうしてかというと、その親切というものの、中身がちがうからだ。けど、「親切」という言葉を使って、さまざまな具体的な内容を一緒くたにあつかうことで、ある種の、印象操作をしているのである。悪意はないのだろうけど、これは、すでに不幸な生活をしている人にとっては、「だまされた」と思えるような話なのである。で、その主観は、正しい。

恵まれた人は、恵まれない人に、継続的に、直接的に、親切にし続けることがない。これは、決まっている。かならず、寄付などの間接的な方法になるし、たとえ、ランダムに親切にしたとしたとしても一回きりの関係になる。寄付の場合は、末端に届かないという問題と、社会全体の貧富の差を改善するものではないという問題がある。これは、一種の免罪符だ。そして、「うら」がある。手放しに、喜べるものではない。貧富の差を「より固定するもの」として機能してしまうのである。

さまざまなトリックが仕掛けられているので、恵まれた人が「人に親切にすればしあわせになれる」と言った場合の問題点が、わからないようになっている。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。