2021年10月27日水曜日

なんとなくの、正しさ

 なんとなくの、正しさ……と、実行してもしあわせにならない人がいるということの乖離について、ずっと述べてきたのである。それは、実行してもしあわせにならない人が悪いのではなくて、理論が最初からおかしい。理論が最初から、自分を中心とした理論なのだ。


もともと、しあわせな人がいるとする。その人は、人生の最初から、ずっと恵まれている人だ。この人と、人生の最初からずっと、恵まれてない人の差はでかい。人生の最初から、ずっと恵まれている人は、基本的に、しあわせな生活をしている。……トートロジーになってしまったけど、ともかく、長い間、しあわせな生活をしている。すでに幸せな生活をしているところで、たまたま、人に親切にしたら、しあわせを感じたということなのだ。これが、「人に親切にすると、しあわせになる」という理論を裏付ける根本的な体験だ。すでに、しあわせに暮らしている人が、親切にしたら、より、しあわせを感じた……こういうことだ。すでに不幸な人は、人に親切にしても、しあわせを感じる力が弱くなっている。あるいは、人に親切にしたことで、トラブルに巻き込まれて、いやな思いをする。すでに不幸な人は、生まれたときからずっと、不幸な生活をしているのだ。苦難の連続なのである。

しかし、「苦難」という言葉で、抽象化されると、すでに幸福な人も、「自分だって、苦難の連続だった」「自分だって、苦難を経験した」と言ってしまえるところが出てくる。しかし、生まれたときから幸福な人が経験した「苦難」と、生まれたときから不幸な人が経験した「苦難」はちがう。ぜんぜんちがう。しかし、生まれたときから幸福な人は、生まれたときから不幸な人が経験した「苦難」を経験することができないので、経験をとおして、知ることがない。経験をとおして知ることができない。不幸な人の話を聞いて、話として理解しているだけだ。「そんなこともあるのかな」ぐらいの理解度だ。ほんとうの部分は理解してないし、経験がないので、そのときの「感情」がわからない。そのときの感情というのは、具体的な不幸な経験をしているときの感情だ。これは、時間を含んだ経験だ。あんがい、時間の長さというのが、影響を与えているように思える。それは、度合(強度)や回数(頻度)が、基本的な感じ方に影響を与えるように、時間も影響を与えるのだろう。回数が増えれば、基本的には時間がなかなくなる。けど、回数には還元できない時間の長さも重要だと思える。基本的な感じ方というのは、ようするに、たとえば、「自分は不幸だ」とか「自分は幸福だ」という感じ方のことだ。


問題なのは、もともとしあわせに暮らしている人が「まるまるをしたら、幸福を感じたので」〇〇をすると幸福になると言ってしまうことだ。幸福を感じるということと、幸福な生活をするというのは、ちがう。しかし、ずっと、幸福な生活をしている人は、その幸福な生活のなかで、「幸福感を感じること」を経験してしまうと、その幸福なことをすれば、「だれでも」しあわせになると、まちがった推論をしてしまう。


ずっと、不幸な生活をしている人が、おなじことをしても、それ以降幸福に暮らせるわけではない。多数派の理論で書いたけど、多数派が快をえられることに関しては、多数派に理解されやすい。つまり、その行為をやったとき、しあわせ感は、あるのだ。たしょうの快を感じる。満足感を得る。その満足感が、どの程度持続するのかは、状況によってちがう。しかし、ほかのこともあるので、不快な感情を呼び起こす出来事が発生すると、そこで、とりあえず、満足感が消失してしまうのである。すでに、しあわせな状態でくらしている人は、満足感を消失してしまう出来事が少ないし、満足感を消失してしまっても、別のことでしあわせを感じることができるので、全体としては、満足感がある生活が持続しているのである。別のことでしあわせを感じるというのは、良好な家族関係などから生じる出来事によって、満足感が充当されるということだ。この満足感は、たとえば、ラーメンを食べたときに感じる満足感や、人に(たまたま)親切にしたときに感じる満足感とはちがう満足感だ。これは、満足感自体に違いがあるということを言っているのではなくて、ちがう出来事(単体によって)引き起こされる満足感だから、ちがう満足感として考えようと言っているのである。ようするに、Xとして、とりあげられたことではなくて、別のことで、満足感を感じ続けているので、全体の生活として「しあわせだ」と感じることができるのである。それは、生まれたときから恵まれた環境で育ってきたからこそ、できあがる状態だ。しあわせな生活と、単体のしあわせ感はちがうということに、気がついてない。単体のしあわせ感は、短ければ3分ぐらい、長くても二日ぐらいで消えてしまう。しあわせな生活をするには、満足感をもたらす出来事が、ある程度、連続的に発生しなければならないのである。そして、ここが肝要なところなのだけど、不快をもたらす出来事が連続的に発生してない状態でなければならないのである。たとえ、一回、ラーメンを食べてしあわせ感を得たにしろ(満足感を得たしろ)それをうわまわる不愉快な出来事が、何回も何回も連続して発生する生活をしている場合、「幸せな生活をしている」という気持ちにはなれない。








しかし、「タマムシを食べれば、だれだって、しあわせになる」ということと「ラーメンを食べれば、だれだって、しあわせになる」ということは、基本的な差がない。さらに言えば「親切にすれば、だれだって、しあせになる」ということと「タマムシを食べれば、だれだって、しあわせになる」いうことには、基本的な差がない。


(以下省略)

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。