あー、金曜日の午後5時8分。ヘビメタが鳴っている感じがする。どれだけ「やめろ」「静かにしてくれ」と言っても、一秒も静かにしてくれなかった。一秒しずかにならないまま、けたたましい音が続く。そのひとつひとつのけたたましい音が、俺の睡眠回路を破壊する。けど、そういう経験がない人は、「鳴り終わったら関係がない」と言う。こいつら、でこパッチンC。
どれだけ、毎日のヘビメタ騒音が俺の学力に影響を与えたかわからない。どれだけ、毎日のヘビメタ騒音が俺の体力に影響を与えたかわからない。どれだけ、毎日のヘビメタ騒音が俺の精神に影響を与えたかわからない。どれだけ、毎日のヘビメタ騒音が俺の睡眠力に影響を与えたかわからない。
夜、眠るべき時間に、眠れなかったら、不安になる。うまくいっているのに「なんとなく不安だ」という内因性の不安ではないのである。内因性の不安なら、認知療法家が言うことは、もっともだと思うけど、外因性の不安の場合は、認知療法家が言うことは、もっともなことではない。無理難題を押し付けているだけだ。この無理難題を押し付けているだけというのは、幸福論者にも言える。「親切にすれば、しあわせになる」……。「親切にしないから、ふしあわせなのだ」……とは言ってない。
けど、「親切にすれば、しあわせになる」といこうとは、その人がふしあわせなのは、人に親切にしてこなかったからだということを暗示しているのである。まあ、言うほうにしてみれば、そんなつもりはないのだろう。
ニュートラルな状態、あるいは、人よりも恵まれた状態で暮らしてきた人が、人に親切にしたとき、いい気持ちになったということだ。いい気持ちになったということは、しあわせを感じたと言い換えることができる。
自分はそうだった。なので、他人もそうだろう。
「人は、人に親切にしたとき、しあわせを感じる」というのは、心理学の実験でも確かめられたことだ。なにもおかしくはない……と推論してしまうのだろう。けど、まちがっている。まちがっているんだ。
これは、質問のしかたが悪いのだ。
かりに、自殺を考えている人だって、「人に親切にしたとき、しあわせを感じましたか」という質問には、イエスと答えてしまう傾向がある。
俺だって、そういう「公式の場」では、ヘビメタ騒音という私的なことは持ち出さずに、ヘビメタ騒音がなかったころ、友達に親切にしたとき、いい気持ちになったという出来事を思い出して、「人に親切にしたとき、しあわせを感じましたか」という質問には、イエスと答えてしまう。
毎日いじめられている女子中学生だって、いじめられている状態はぬきにして、「人に親切にしたとき、しあわせを感じましたか」という質問には、イエスと答えてしまうかもしれない。
ちなみに、そういうふうにこたえた数日後に、その女子中学生が、自殺してしまったとしても、ぼくはおどろかない。「人に親切にしたとき、しあわせを感じる」と数日前こたえた女子中学生が、自殺をしたとしても、矛盾しているとは考えない。人間は、そういうふうにできている。
* * *
この、生きている、空間自体が、ヘビメタ騒音に汚染されている空間なんだよ。おまえ、どれだけ、長い間繰り返されてきたか。きちがいヘビメタを、家族に!鳴らされ続けると、日本の社会では、生きていけなくなってしまう。ぎりぎりのところでぼくはいきてきた。どれだけ精一杯、生きようとして努力してきた。鳴っているなかで頑張ってきたか。一五(じゅうご)年間鳴ったあと、……もう、一五(じゅうご)年間の影響があるのに……頑張って生きてきたか。
「人に親切にすれば、しあわせになる」なんて、そんなのは、侮辱でしかない。侮辱と言うなら、侮辱だ。
けど、一方で思うことがある。
もし、ヘビメタ騒音が鳴っていなかったら、「人に親切にすれば、しあわせになる」ということを、恵まれすぎている人が言ってたとしても、まったく気にならなかったんだろうな……と思う。
はっきり言えば、兄貴が兄貴のやり方で、こだわってこだわって、俺の存在を無視して、俺の希望を無視して、がんがんつねに、毎時間時間毎時間、毎分毎分、毎秒毎秒鳴らさなかったら……鳴らさなかったら……「そうですねー」ですんだことだ。
「人に親切にすれば、しあわせになる」
「そうですねー」
これで、すんだ。
そういうことにおいても、たたっている。
ヘビメタ騒音が鳴ってなかったら、座頭(仮名)にあんな態度をとられることはなかった。あんなことを言われることはなかった。そりゃ、〇にたくもなるだろう。
ほかの人は、どうして俺が、そんなことで〇にたくなるのか、まるでわからないだろう。わからないと思う。これ、つまっているんだよ。きちがい兄貴が鳴らしていたときの、「態度」の記憶がつまっている。あの強情さはないよ。
そして、きちがい的な意地で鳴らしたのに、きちがい的な意地で「ゆずったゆずった」と言いやがる……そういう、出来事の記憶。これ、本人は、ほんとうに「ゆずってやった」つもりなのである。
これは、きちがい親父のハンダゴテ事件とまった同じ。
譲歩が譲歩になってない。譲歩が、相手に屈辱をあたえることになっている。譲歩が、相手をよりこまらせることになっている。
けど、どれだけ相手が、それを説明しても、まったくわからない。普通の人なら、説明しなくてもわかることがわからない。きちがいが、きちがいの気持ちだけで、動いている状態だ。こんなのは、ほかの人にはわからない。ほかの人はどうしたって、自分の常識で考えてしまう。
ほかの人が、自分の常識で考えるときに、基準となるのは、自分自身の家族だ。
自分自身の家族との関係だ。
自分自身の家族の態度だ。
……そういうことが、判断の基準になるのである。きちがい兄貴……具体的な「うちのきちがい兄貴」が基準になってない。きちがい兄貴の態度が、基準になってない。きちがい兄貴のやってきたことが、基準になってない。きちがい兄貴の認知・認識が、基準になってない。基準になっているのは、その人の家族の態度、その人の家族がやってきたこと、その人の家族の認知・認識なのだ。
そういうことであるのならば……そりゃ、ぼくとは、意見がちがってくる。それは、実際に経験してきたことがちがうということから生じることなのだけど、その人の「その場の判断」はその人の『信念』に近いものなので、簡単には揺らがない。ぼくの話を聞いても、ぼくの話のほうが嘘なのだと思う。ぼくの話が矛盾があるへんなことだと思う。