たとえば、線分ということについて考え見よう。この線分は、関係性の線分だ。「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」という場合は始点(A)と終点(B)をむすぶ、線分だと仮定しよう。
その場合、実際の世界には、ほかのこともいっぱいある。一日のなかですら、実際には、無数の線分が、あらわれている。
しかし、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」と言ってしまった場合は、無数にある線分のうち、ひとつの線分に焦点をあてて、あたかも、現実生活において、線分ABしかないような印象を与える。これが、言語化の問題だ。
あるいは、ずっと野へできたように抽象化の問題でもある。そうなると、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」ということを読んだ人は、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」という線分を考えて、生活のなかのさまざまな線分を無視して、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」という線分だけを考えるということになってしまう。
もし、自分が人に親切にした場合は、自分はしあわせになる「はず」なのである。ほかの、線分は見えなくなってしまうのである。けど、ほかの線分こそが、しあわせ感にとって重要なことかもしれないのである。
あるいは、ほかの線分が、ふしあわせ感をつくっていて、そのふしあわせ感をつくっている、線分をなくすということが、実際には、その人のしあわせ感を増大することになるのかもしれない。
しかし、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」と言ってしまったがために、意識が「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」に集中してしまう。
無数にあるほかの線分が、しあわせ感に影響与えているのに、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」だけを考えてしまう。人に親切にしたかどうかで、自分のしあわせが決まると思ってしまう。
しかし、人に親切にしかたかどうかで、自分の幸せが決まるわけではないのだ。
うまれてから、ずっと、いろいろなことを経験してきたのだから、そういう経験によってつちかわれてきたものが影響を与える。
「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」は現実の『うつし絵』にはならないのだけど、今度は、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」というところから、現実を考えてしまうのである。しかし、現実はそんなに単純なものじゃない。
では、どうして、幸福論者は「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」などということを言ってしまうのか? 幸福論者にとってみれば、「親切にすれば(A)しあわせになる(B)」ということは、ひとつのことでしかない。
はっきり言ってしまえば、幸福論者は、人に親切にしなくても、しあわせなのである。
恵まれたところに生まれて、いろいろな恵まれた経験をしてきた。
なので、しあわせなのだ。
しあわせに暮らしているとき、たまたま、人に親切にしたとき、しあわせを感じただけだ。「理由」ではないのだ。
その日、すでにしあわせしあわせである理由ではないのだ。
これは、しあわせに暮らしている人が、たまたま、タマムシを食べたら、これはうまいと、満足感を得たということに似ている。
これ、満足感と幸福感はちがうのだけど、ある程度、似ている。満足感に、「幸福だ」という思考がくわわるとし幸福感になるのだ。
話をもとにもどす。
ある人が、恵まれた家に生まれて、成長して、今度は自分の家族をつくって、しあわせに暮らしているとする。生まれた家も、自分がつくった家でもしあわせに暮らしているとする。
しあわせに暮らしている人が、タマムシを食べたとき、しあわせを感じたとする。タマムシを食べたとき、しあわせになった。……こういう経験があるとする。
その場合、しあわせな生活をしている人は、『タマムシを食べれば、しあわせになる』と思ってしまう。それは、もともと、しあわせな生活をしているのだけど、タマムシを食べたとき、幸福感を得たのだから、そういうふうに言っても、おかしくはない。
けど、不幸な生活をしている人が、タマムシを食べれば、しあわせになれるのかというとそうではない。あるいは、『案外、うまかった』と一時的には、しあわせ感を感じるかもしれない。
しかし、そのしあわせ感がいつまで続くのか?
すでに、しあわせな生活をしている人は、タマムシを食べたあとだけではなくて、次の日も、家族といっしょにすごして、しあわせを感じているわけだ。別に、タマムシを食べなくても、「家族団らんで楽しかった」「子供をカヌーに連れて行ったら、俺も楽しかった」と幸福を感じることができる。
なので、タマムシを食べたあとも、しあわせ感があり、しあわせな生活が続くと思うことができる。それは、タマムシを食べて幸福感を得たという経験のあとに、もっとしあわせだとと感じる出来事が、持続的に発生しているからそう思えるのである。そう思えるだけなのである。幸福な人にとって、タマムシを食べて幸福感を得たという経験は、さまざまな幸福感を与える経験の一部でしかない。タマムシを食べたあとも、しあわせ感がある生活が続くのである。タマムシを食べたとき、特に幸福を感じたけど、そのあとも、さまざまな幸福を感じる出来事がたくさんある。そういう生活が、成り立っている。だから、「つづく」ような感じがしているのである。
けど、もともと不幸な生活をしている人は、かりに、一時的に、タマムシを食べて幸福を感じたとしても、店から帰ったころには、その幸福感はかなり減衰している。だれもいない安いアパートの一室に帰り、明日の通勤のことを考えて、不安になったりする。しあわせじゃないのである。もともと、不幸な生活をしている人は、一時的に、幸福感を得たとしても、その幸福感は長くは続かない。