タマムシを食べるとしあわせを感じる人がいるとする。とりあえず、この人をAさんだとする。「タマムシを食べると、しあわせになる」とAさんが言ったとする。
Aさんのなかでは、これは、絶対に正しいことだ。主体がAさんである限りは、それで問題はない。
けど、Aさんが「どんな人だって、タマムシを食べるとしあわせになる」「どんな状況だって、(人は)タマムシを食べるとしあわせになる」「これは正しい」とほかの人に言ったとする。
ちなみに「人は、タマムシを食べるとしあわせになる」というのは、「どんな人だって、タマムシを食べると、しあわせになる」「どんな状況だって、(人は)タマムシを食べると、しあわせになる」ということを含んでいる。
「どんな人だって」という言葉が入っていない場合も、人は、タマムシを食べればしあわせになると言っているのだから、「どんな人だってタマムシを食べればしあわせになる」ということを含んでいる。
「どんな状況だって」ということに関しても、「人は、タマムシを食べるとしあわせになる」ということを言ったとき、状況について触れていないのだから、「どんな状況でも」「いかなる状況でも」そうなるということを言っているのとおなじだということになる。
すべての状況においてそうなると言っているのだから、特殊な状況も含んでいるということになる。
ラーメンだと、不思議に感じない人も、タマムシだと、不思議に感じる人がおおくなると思う。ちなみに、タマムシは、調理して食べないとだめだ。生で食べただめだ。タマムシのほかにも、イナゴ、バッタ、コオロギなども、適切な調理をすれば食べられる。
話を元に戻す。ラーメンを食べたとき、しあわせを感じる人は多いけど、タマムシを食べたときしあわせを感じる人は少ないので、多くの人にとっては、「タマムシを食べれば、だれだって、しあわせになる」とか「どんなにつらくても、タマムシを食べれば、しあわせになる」とか「どんな状況でも、タマムシを食べれば、しあわせになる」というような文言は、嘘のように聞こえる。
けっきょく、「Xをすれば、しあわせになる」というのは、多数派の理論だ。あなたが、少数派なら、まったく意味がないということになる。まあ、多数派に属していても、いろいろな問題があるとぼくは言っているのだけど……。つまり、多数派に属している人にとっても「Xをすれば、しあわせになる」とは言えないと思っている。その理由は、ずっと書いてきた。