2021年10月5日火曜日

人に親切にしていたのである。じゃあ、きちがいヘビメタにやられて……中略……しあわせじゃなかったのだ。

  親切行為ということを考えた場合、どういうことが親切行為だと思えるかどうかということは重要なことだ。たとえば、ぼくは、母親のために二十数年間にわたって毎日、ご飯をつくってきたけど、これが、親切行為なのかどうかわからない。

親切行為なのであれば、ぼくは、毎日、親切行為をしていた。人に親切にしていたのである。

けど、じゃあ、きちがいヘビメタにやられて、働けない状態で、きちがい的な父親と一緒に住んでいて、しあわせだったかというとしあわせではなかったのだ。

きちがいヘビメタにやられたあと、ずっと、からだがくるしい。いまも、くるしい。

けど、きちがい兄貴ほど、夢中になってきちがいヘビメタをでかい音で鳴らした人が、まわりにいない人は、そういう兄が横の部屋に家族として住んでいるということの、意味が、ぜんぜん、わかってない。

そういう兄が横の部屋に家族として住んでいるということの影響のでかさがわからない。この問題に関係がない人……よその人……自分はヘビメタ騒音にやられたなかった人にとってみれば、ヘビメタ騒音がどれだけでかい音でも、鳴り終わったなら関係がないと思ってしまう。

けど、身体的に言っても精神的に言っても、関係がある。

ともかく、だるい体をひきずりながら、ご飯だけはつくっていたのである。きちがい的な父親もじつはぼくがつくったご飯を食べていた。きちがい的な父親には「たべさせない」というような意地悪はしていない。


ぼくが、母親に親切にしたにもかかわらず、ぼくは、しあわせにはならなかった。それから、母親の状態なのだけど、はっきり言ってよくないのだ。よくなかった。ずっと、超低空飛行なのである。病状がよくなるということがほとんどなかった。

たまに、調子がほーーんのすこしだけいい日があったとしても、次の日には、また前々日よりも悪くなっているという状態で、全体を通して、病気が治るということがなかった。

母親が抱えている病気は一種類ではなかった。同時に何種類もの病気を抱えていた。特に、免疫系の病気がほかの病気に影響を与えていたと思う。ともかく、どれだけ世話をしても、どれだけ、栄養がある料理つくっても、ぜんぜんよくならなかったのである。長期間にわたって……。


もしかりに、母親のためにご飯をつくるということを親切行為としてカウントするのであれば、親切にしたのだから、しあわせになるはずなのである。「XをすればYになる」というかたちで「親切にすれば、しあわせになる」ということを言う人は、現実的なことがまったくわかってないのではないかと思える。


一日のなかで、親切にしたときにしあわせ感を感じる回数と度合と持続時間といったものと、ほかのトラブルで不愉快に感じる回数と度合と持続時間というものを考えなければならないのだ。

どうして、親切にするということだけをとりあげて、ほかのことを取り上げないのだ。一日のなかで、かりに、あかの他人に親切にしたとしても、一日のなかで、きちがい的な家族と、108回の激しいトラブルが生じていたら、全体感情としては、やはり、しあわせだとは感じることができないのである。


介護殺人について思い出してしまった。

50代の女性が、それまで介護をしていた3人の高齢者を殺してしまったのである。それまで介護をしていたということがポイントだ。この50代の女性が、一日で、ひとりつき50回の親切行為をしたとする。

一日で150回だ。介護をはじめてから、50代の女性が3人の高齢者を殺すまでに、3000日あったとする。その場合、150回かける3000日で、合計450000回も親切にしたことになる。けど、この50代の女性のしあわせ感というものはどうだったのだろう。

親切にしてあげたから、しあわせを感じていたのだろうか。親切にしたから、しあわせになったのだろうか。けっきょく、「もうだめだ」と思って、殺してしまったのだから、くるしいものであったと想像できる。しあわせなのに、殺すか? つらかったから、殺したんでしょ。くるしかったから、殺したんでしょ。

どうして、しあわせな人、しあわせ論について語る人はそういうことを無視してしまうのか? どうして「人に親切にすると、しあわせになる……これは絶対に正しい」と思ってしまう人は、そういうことを無視してしまうのか?


わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。