2023年4月30日日曜日

「受け止め方をかえればいい」ということを言う人たちがいるけど、あれは、ペテンだ

 「受け止め方をかえればいい」ということを言う人たちがいるけど、あれは、ペテンだ。「受け止め方をかえればいい」と言っている人たちだって、「受け止め方をかえよう」とは思わない場面がたくさんある。

たとえば、「受け止め方をかえればいい」という考え方を批判された場合は、おこるという反応をする場合が多い。受け止め方をかえればいいのだから、いい話を聞いたと、受け止め方をかえて、よろこべばいいのだ。「勉強になった」と思って、感謝すればいい。ところが、「受け止め方をかえればいい」という考え方を批判された場合は、おこる。

たとえば、ある人は、「つま先をタンスにぶつけたときに、頭をぶつけなくてよかった」と思うらしい。つま先をぶつけることよりも、頭をぶつけることのほうが、いやなことなので、つま先をぶつけたときは、頭をぶつけたことと比較して、つま先をぶつけたという『いやなこと』をそんなに『いやなことに』しなくてもすむという、説明をする。

「道路で、ころんだときは、車にひかれなくてよかった」と思うらしい。「ころんだので、ひざがいたい。しかし、それは、車にひかれるいたさとくらべたら、なんでもない」というようなことを、説明する。

けど、この人、ほかのことでは、けっこう軽くおこったりする人なのである。ちょっとでも、自分の考え方を否定されるとおこる。「受け止め方をかえればいい」のだから、おこる必要がない。

この人は学生時代、教師が右をむけ言ったら、左むいて、教師が左をむけと言ったら、右をむくような性格だったらしい。学生時代だからそうなのか?

ちがう。

今でも、あまのじゃくなところがあり、人にさからうようなところがある。

ほかの人から指図されたときには、絶対に、ほかの人の指図にはしたがわず、指図されたこととは、ちょうど逆のことをやるとという性格は、まったくなおってないのである。むしろ、そういう性格が強くなっている。

「この人は、なおす必要性も認めてない」と、ぼくは思う。

人に指図されたとき、かっとなっておこらずに、受け止め方をかえて、指図されたとおりにするということは、この人の場合……ない。この人の言うとおりに、「受け止め方をかえればよい」のであれば、受け止め方をかえて、したがえばよいのである。ところが、本人は、そうしない。

はっきり言ってしまえば、この人が「受け止め方をかえればいい」ということを説明するときの『例』は、選ばれた『例』だ。

この人が、普段からそう考えているわけではないのである。この人が、すべての事柄に関して「受け止め方をかえればいい」と思って行動しているわけではないのだ。

ところが、ひとつ、ふたつの『例』を一般化して話すというくせがある。

ほんとうは、自分だって「受け止め方をかえればいい」と思って行動しないときがある。

むしろ、例外なのである。「受け止め方をかえればいい」と思って行動することのほうが、例外なのである。

普段は、指図されたら……この人が普段感じるように……おこって、指図にしたがわない。思い方をかえればいい……受け止め方をかえればいいと思うような出来事というのは、むしろ、例外的な出来事なのである。

しかし、二項目文のように、法則化して言ってしまう。『法則』であるかのように言ってしまう。権威がある人がそういうことを言った場合、言われたほうは、多数の出来事において、その『法則』を成り立たせようとすることになる。もし、「あの人の言っていることは正しい」「自分も、そういうふうにしよう」と思ったなら、日常的な出来事においても、それを当てはめようとするのである。

けど、言っておくけど、当の本人は、例外的なことをのぞいて、日常的な出来事において、それを当てはめようとは、してない。ほんとうに、意識にのぼったところだけ、そうしているだけ……。そういう関係性が意識にのぼったときだけ、注意して、そうしている。

「そういう関係性が意識にのぼったとき」というのは、どういうときなのかとうと、「そういうふうに思う条件がそろっているとき」なのである。おわかりかな?

指図されて、怒っているときは、そういうときではないのである。条件が成り立ってないときなのである。条件が成り立ってないときのほうが、実際には、多い。本人が、意識してないだけだ。

自分がおこったときこそ、「受け止め方をかえればいい」ということを実行すればよいのだけど、自分がおこったときは、「受け止め方をかえればいい」ということは実行されてない。普通におこる。普通に、おこったときの反応をする。

本人にしてみれば、腹をたてるだけの、理由があるのである。

あるいは、腹をたてるだけの理由があると「当の本人が」思っているのである。受け止め方をかえれば、腹がたたなくなるのに、「受け止め方をかえる」ということを思い出さずに、普通に腹をたてている。

ほんとうは、本人にとって腹をたてるだけの理由があるときこそ、「受け止め方をかえる」べきなのだ。「受け止め方をかえる」必要性がある。けど、実行しない。「受け止め方をかえればいい」と人に言っている人が、実際に「受け止め方をかえる」必要性があるときは、「受け止め方をかえずに」普通におこっている。

だから、「受け止め方をかえる」という方法は、本人によっても、普段は、実行されてないものだ。受け止め方の総体というのは、自我と深く結びついている。

あるいは、自我の基準そのものだ。これは、部分部分にきりきざめるものではないのである。かえるならかえるで、自我の基準をかえなければならないものなのである。

けど、そういうふうには考えないで、部分部分に切り離せるものだと考えて、そういうことを言うのである。もちろん、実際にそういうことが適応されている範囲というのは、非常に、狭い範囲だ。狭い範囲の出来事にしか、意識的にそういうことがで適応されない。

自分はすべてにそういうことを適応していると思っているのは、その人が『うぬぼれ屋』だからだ。

もちろん、これは、きちがい兄貴やきちがい親父の構造とはちがう。昨日、ちょっと、似たような話をしたので、「おなじことを言っているのかな」と思う人がいるかもしれないけど、ちがうことを言っている。

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「そんなのは、受け止め方をかえればいい」というような言い方についてのべてきたわけだけど、いまの日本というのは、やられたほうが、ボコボコにされる状態が成り立っている。かならず、やられたほうが「わかっようなことを」言われることになる。やったほうが、言われるのではなくて、やられたほうが、言われる。説教をされる。やったほうの責任は、だれも問わない。やられたほうが、やられたということに関する責任は、めちゃくちゃに追及される。これが、日本だ。

生まれの格差「上の上の上」がまきちらしていることが、生まれの格差「下の下の下」まで浸透しているのである。 

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もうひとつ、立場についてのべておきたい。「その人」という言い方だと、問題があるので、Aさんという言い方にする。Aさんは、成功した経営者で、自分が主催するセミナーで「受け止め方をかえればいい」ということを言っているとする。教師の言うことを聞かなかったAさんが、どうして、「受け止め方をかえればいい」ということを言えるかというと、自分が自分の会社で、てっぺんだからだ。Aさんに指図する人がいないのである。Aさんがほかの人に指図をするのである。Aさんに説教をする人がいないのである。Aさんがほかの人に説教をするのである。そして、セミナー会場には、Aさんの信者が集まるので、ここでも、Aさんにさからう人はいない。「受け止め方をかえればいい」と言っているけど、Aさんは、頑固なところがあり、実際の生活のなかで、受け止め方をかえることは、ほとんどない……などと指摘する人はいないのだ。立場……。立場……が「ものを言う」。立場がものを言う。Aさんが例として挙げたものは、どっちも、自分ひとりの話だ。道ですっころんだのは、自分。タンスにつま先をぶつけたのも自分。自分が勝手にへまをして、自分がいたいと思っただけだ。人が介在してない。「教師」が「指図」をした話ではない。その話のなかには、「教師」という他者が存在している。自分が指図をされない立場であり、自分が人に指図をする立場なのである。Aさんが経営する会社の会社員も、セミナーに集まっている人も、自分より「立場がした」。うえじゃない。そういうことが条件として成り立っている。ようするに、例として挙がっているものは、自分が失敗した話であり、自分一人で失敗したときの話だ。そういう条件が成り立っている。そして、自分が「指図」されたときに、指図に従いたくない気持ちになり、指図にしたがわないということにも、条件が成り立っている。しかし、「受け止め方をかえればいい」という言い方のなかには、条件が存在しない。あたかも、どんな条件でも「受け止め方をかえればいい」と言っているような状態になる。そして、このことこそ、ぼくが二項目文であつかってきたことなのだ。「受け止め方をかえればいい」というのは、二項目文ではない。しかし、「腹が立ってしかたがないときは、受け止め方をかえればいい」というような言い方にすると二項目文に近くなる。「Xのときは、Yをすればいい(問題が解決する)」という言い方に還元できるからだ。問題なのは、法則性なんてないのに、あたかも、法則性があるような話になっているというところだ。実生活のなかでは「受け止め方をかえればいい」とは言えない問題がある。「受け止め方をかえればいい」という考え方で解決できる問題と、「受け止め方をかえればいい」という考え方で解決できない問題があるのである。ようするに、解決できる問題の条件と、解決的ない問題の条件がちがう。ところが、「どんな条件」でも「受け止め方をかえればいい」のだという意味が成り立ってしまっている。「どんな条件」でもというとは、明記されていないのだけど、明記されないがゆえに、普遍性を帯びてしまうのである。ほんとうは、条件で、いろいろとちがう。


毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。