2021年4月23日金曜日

「どうでもいいことなのか、どうでもいいことではないのか」というのは、価値観がないと決められない

 ともかく、いまの生活を見直す必要がある。基本的には、ネットのやりすぎ。ほかの人のブログ読むことが日課になっているけど、相当に時間がかかっている。なんとかして、ネット依存を断ち切りたい。そうしないと、視力が落ちる。けど、まあ、やることがないから、そうしているというところもある。

ともかく、ほかの人のブログを読むことに関しては、考え直す必要がある。なるべく、時間を短くしようと思う。そして、そのぶんの時間を、なにかほかのことに使いたい。基本的に、他人と交流することに使いたいとは思っている。

しかし、約束の時間に行けないのである。時間を決めてしまうと、眠れなくなる。これは、長期騒音期間中に、数千日、学校に通ったことからしょうじたことだ。

もともとは、そうじゃない。長期騒音の結果、そういうふうになった。どれだけの回数、俺は緊張して、眠れなくなったか。「明日、何時に起きなければならない」と思いながらも、きちがい騒音に数時間から十数時間さらされていたせいで、眠れなくなってまうのだ。これは、兄貴がヘビメタ騒音を鳴らすまでなかったことだ。

「明日、なになに大会だ」と思っても、ヘビメタ騒音がはじまるまえは、ちゃんと眠ることができた。それを……。たとえば、毎日同じ時間に起きることができないとか、どうしても、約束の時間に遅刻してしまうということは、「ダメなこと」なのである。これを、相対的に考えることができるか?

基本的には、「優劣は考えなくてもいい」「人のことは気にしなくてもいい」と言っても、遅刻をすれば、怒る人が出てくる。

たとえば、関連する作業を集団でしなければならないとする。そんなのは、学校の班だろうが、学級だろうが、会社のプロジェクトチームだろうが、なんだろうがかまわない。

ともかく、つくられた集団があるとする。そして、その集団に自分が参加しているとする。その場合、日本人の集団だと、やはり、決まった時間にくるといういうことが要求される。その要求にこたえられない人間は、ダメ人間だということになる。

これは、価値観だ。

前投稿でも書いたけど、まるで、人間が他人の評価を気にしなければもっと自由に、人間らしく生きられるというような論調がある。そして、他人の問題と自分の問題を切り分ければよいのだというような論調がある。

きちがい兄貴がいるということによって生じた、睡眠障害は自分の問題だが、他人がすべて「遅刻する人がいたとしても、その人(遅刻した人の)の問題だ」と切り分けて考えてくれればこっちの問題はおさまる。

しかし、そんなことを主張しても認めてくれるか。

たとえば、だけど、睡眠障害は睡眠障害の問題としてあつかって、実際に遅刻したということは、遅刻したという問題としてあつかう。しかし、遅刻したという問題は、単に遅刻したという問題としてしかあつかわない……こういうことが可能だろうか?

可能じゃないよ。関連する集団があれば、集団内の他者は、「遅れたら、まるまるができなくなるからこまる」と言って、干渉してくる。

この干渉は、通常社会において正しい干渉だ。「自分の問題と他人の問題を切り分けて、俺に干渉するのはやめろ」と言っても通らない。アドラー主義者だって、集団で作業をする必要があるのに、遅刻してきたやつがいたら、そいつにむかって注意をするだろう。

自分の問題と他人の問題を切り分けて「遅刻をした」ということ自体は、その人の問題だから自分には関係がないとは考えない。自分が「かかわっている」ことに関して、「問題がしょうじた」と考えるからだ。

こういうことを言うと、「あなたはアドラーの主張を誤解している」と言うやつも出てくるだろう。けど、ほんとうにそうのかね? 誤解じゃなくて、アドラーの主張自体が、そういう問題を想定してないのではないかと思えるのだけど、どうだ?

認知療法もそうなのだけど、一方では効率主義が成り立っている。「すぐれているほうがいい」という価値観が成り立っている。認知療法は、効率を追求している。どうでもいいことで悩んでいることは、不効率だからまずいのである。

そして、「どうでもいいこと」というのを、勝手に決めてしまっている。「どうでもいいことなのか、どうでもいいことではないのか」というのは、価値観がないと決められないことなんだよ。そして、その価値観は、自我と深くかかわっている。

その価値観と自我は切っても切れない関係にある。

ようするに、この点では価値観中立的じゃない。*1

家族であるきちがいにやられたことがない人は認めないのである。俺が「どうしてもできない」と言っているのに、「どうしてもできない」ということを認めない。あるいは「できない」ということを認めない。あるいは、「できないようになった」ということを認めない。「ヘビメタ騒音『で』できなくなった」ということを認めない。

それは、俺には関係があることなんだよ。他人が考えることだから、関係がないとは言えないんだよ。そいつらは、圧力をかけてくる。文句を言ってくる。これは、実際に生じることで、不愉快なことだ。不愉快さを誘引することだ。関係がないわけがない。

++++++


*1 しかし、認知療法は、自らの考え方を価値観中立的だと標榜する。『標榜』という言葉自体が、すでに、認知療法に対するネガティブな考え方をあらわしているので、標榜するという言い方は不適切だ。なんか、いい言い方はないかな? 主張するでいいか。



 

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。