「こだわりをすてれば、どうにかなる」というようなことを言うような人がいるけど、こういう人たちは俺にとって人生全体がどのようなものかまったくわかってない。わかってないところで、発している言葉だ。どれだけの騒音が繰り返されたか。騒音の日常がどのようなものか、ぜんぜんわかってない。
ともかく、こだわりたくてこだわったわけじゃないのである。
あるいは、俺がこまっている状態を、俺がこだわっている状態だと勝手に見なしているだけなのである。きちがいヘビメタにさらされれば、どうしても、こまる状態になるのに、そのこまる状態を「外から見ると」こまっている状態にこだわっているように見えるのだ。あるいは、みなすことができる。
それは、関係のない他人であって、経験がまったくないから、涼しい顔でそういうふうに思うことができるということ意味しているにすぎない。それこそ、思っているだけだよ。
きちがい兄貴がこだわりきって、普通の人が考えられないほどしつこく騒音を鳴らした。
そうなると、俺のほうに障害がしょうじるのである。
自分の障害は意識せざるを得ない。それは、いたいところがいたいから、いたいと思うのとおなじだ。
けど、外から見れば、エイリさんは「いたい」ということにこだわっているということになってしまうのである。あるいは、「いたい」と感じることにこだわっているということになってしまうのである。
これは、外から見ている他人が実際には「いたくないから」そういうふうに感じるだけなのである。いたいと言っている人は、いたいということにこだわっているということになってしまう。関係がない人は、ほかの人のことをそういうふうに見ることができる。どうしてかと言うと、実際にはいたくないからだ。いたがっている他人に向かって、いたいということにこだわるからダメなんだと言っているようなものだ。