20度ぐらいの水につかっている人が、「俺だってつめたいと感じることはある」と1度の水につかっている人に言うんだよね。「だれだって、つめたいと感じる」「けど、俺は、がんばって、バスタブのなかから出ないでつかっている」「つめたいから、いやだなんていうのは、あまえだ」「ちゃんとつかってないダメだろ」……こんなふうに、20度の水につかっている人が、1度の水につかっている人に言う。
けど、1度と20度ではちがう。ぼくは、意図的に、室温にはふれてこなかった。風呂場の室温については、言及してこなかった。これは、意図的に言及しなかっただけだ。たとえで言うのなら、39度のお湯につかっている人だって、室温が低ければ、「さむい」と感じることがある。
けど、それなら、39度のお湯につかっていることと1度の水につかっていることは、おなじなのか?
ちがうでしょ。
* * *
20度の水につかっている人が、1度のみずにつかっている人の側に立たずに、つねに、39度のお湯につかっている人の側に立つのだ。
そして、39度のお湯につかっている人が言いたいことを、言う。
「俺だって、つめたく感じることがある」「それなのに、なんだ」「つめたいつめたいと愚痴を言いやがって」「あったかいあったかいと言えば、あったかく感じる。これは事実だ。科学的証明された事実だ」と20度につかっている人が言いやがる。
つねにつねに、20度の水につかっている人は、39度側に立って、ものを言う。39度のお湯につかっている人よりも、20度の水につかっている人のほうが、1度の水につかっている人に、そういうことを言いやすい。
実際、20度だと「つめたい」と感じることはあるからなぁ。
「俺は、がんばって、逃げないでつかっている」「俺は愚痴を言わないで、つかっている」「俺は、あったかいあったかいと言ってつかっている」「あったかいあったかいと言ってつかっていればいいのに、つめたいつめたいと愚痴を言って……。愚痴を言うからつめたく感じるんだ。なんでも受けとめ方の問題だ」と言って、1度の水につかっている人を、せめる。
20度の水につかっている人が、1度の水につかっている人を、道徳的にせめる。「社会道徳がない」「常識がない」「がまんがたりない」と言ってせめる。
けど、1度の水につかっていることと、20度の水につかっていることは、ちがう。からだの反応がちがう。こいつらは、みんな、カラダの反応を無視して、1度の水につかっている人に説教をしだす。
こういう状態は、風呂場にはいない、もっともっと、すごくいい生活をしている人たちにとっては、好都合だ。そういう状態のほうが、制御しやすいのだ。管理しやすいのだ。
いま必要なのは、みんなが、38度から42度ぐらいのお湯につかれる状態だ。それなのに、1度の水につかっている人をせめまくる。「文句を言うな」「不満を言うな」「文句を言うから不幸なんだ」「不満を言うから不幸なんだ」「不幸を引き寄せている」「なんだっふ、感謝感謝だ」と言う。
けど、1度の水につかっている人が、すべてのことに感謝をしたとしても、1度の水につかっている人はつらいままなのだ。「感謝感謝」などとふるえながら言っているうちに死んでしまう。1度の水につかっている人が、1度の水につかれるという状態に感謝をしても、1度の水につかっている人の「つらい状態」はかわらない。
それを「感謝感謝」と言えば、かわると言うのだ。39度のお湯につかっている人は……そして、20度の水につかっている人は……。かわらない。それから、20度の水につかっている人は、つめたいと感じることがあるかもしれないけど、それは、1度の水につかっている人が感じるつめたさとはちがう。
けど、「つめたさがちがう」と言えば、怒りだす。1度の水につかっている人が20度の水につかっている人に「つめたさがちがう」と言うと、20度の水につかっている人は、怒りだすのだ。「そんなことはない」「だれだってつらい」「不満を言うな」「泣き言を言うな」と言って、きれる。
こんな状態がいいわけないでしょ。みんなが、38度から42度ぐらいのお湯につかれる状態をめざしましょうよ。
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