2022年11月9日水曜日

その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯なのかどうかについて

 その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯なことなのかどうかについて、ちょっとだけ、書いておく。結論から言うと、その前の文脈が重要なことになるので、なんとも言えないということになる。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんが男性で、Bさんが女性で、ふたりは、つきあっていた。あるとき、Bさんが慢性疲労症候群になって働けなくなった。それまで、Bさんは看護師として働いていた。Bさんが、「からだつらい」ということをAさんに言った。Aさんは、「慢性疲労症候群なんていうのは、病気のうちにはいらない」と言った。Bさんが「私がどんなにつらいか、Aさんにはわからない」と言った。そのあと、AさんがBさんに「相手が否定できないことを言うのはずるいぞ」と言った。

まあ、こういう文脈があった場合の話をしてみよう。いきなり「否定できないこと」を言ったわけではないのだ。否定できないことというのは、相手が否定できないこと、という意味だ。相手が否定できないことを言うのは、そもそも、きたないことだというのが、その人たちの主張なのである。ここでは、Aさんの主張だ。けど、文脈がある。Aさんが、さきに「Bさんのつらさ」について、否定している。話のなかでは出てこないけど、Aさんは、Bさんに対して「病気に、逃げるな」というようなことを言っているのである。まあ、そういうことを付け足したとしよう。この場合、Bさんを侮辱している……とぼくは思う。しかし、アドラー主義者は、そういうことを言って、まったく気にしない。自分が正しいと思っている。じゃあ、アドラー主義者が、おなじように……Bさんと同じ程度の慢性疲労症候群になったばあい、働けるのかというとそうではないのだ。アドラー主義者だってからだがきつくなって働けなくなる。しかし、今現在、アドラー主義者がそういうことを経験してなければ、アドラー主義者にとっては、慢性疲労症候群なるものはそういう程度のものでしかないのである。そういう認識しかない。だから、「病気に逃げている」「働きたくないから病気に逃げているだけだ」というようなことを言う。これは、ぼくの考えでは、相手を侮辱していることになる。しかし、アドラー主義者は、そういうふうには感じない。自分が正しいことを言っていると感じて、自分の発言を訂正したりしない。こういう人間が「さとる」のは自分が動けなくなってからだ。自分が働けなくなってからだ。しかし、アドラー主義者が実際にそういうふうに、働けなくなると、アドラー主義者は、適当なことを言って、間違いを認めないし、自分が病気で働けないのはあたりまえだということを言い出すのである。自分のかつての発言は気にしないのである。そういう、手前勝手なところがある。これは、「人間は働くべきだ」と言っていた人が、無職になったときにも、発揮されることだ。「自分の場合は」「あたりまえ」なのである。むかし、自分が無職にどういう発言をしたのかは、まったく問題にならないのである。これ、理論的に破綻していると思う。まあ、ぼくが、そう思うだけで、当の本人たちは、そうは思わないのである。これも、ちょっと脱線してしまうけど、言っておこう。たとえば、『「病気にならない」と言えば病気になることはない』ということを言っている言霊主義者がいたとする。この言霊主義者が病気になった場合、『「病気にならない」と言えば病気になることはない』ということはまちがっていたということだ。そういう現実にぶつからなければならないのである。そして、そういう現実を認めなければならないのである。『「私は病気にならない」と言えば病気になることはない』ということは、まちがっていたということを認めければならないのである。ところが認めない。これこそ、現実に立ち向かわないで、現実をごまかして認識しているということではないか? しかし、そういうふうには思わないのである。こういう人たちは、そういうふうには思わない。今度は、『「病気は治る」と言えば治る』ということを言いだす。そして、わざわざ、病院に行くのだけど、病気が治ったら『「病気は治る」と言えば治る』ということ言い出すのである。「事実だ。事実だ」という。『「病気は治る」と言えば治るということは、正しい。実際に、私の場合、病気が治った』ということを言う。「私は病気にならない」と言えば病気にならないんじゃないの? そっちは、どうなっているの?

まあ、そっちは、どうなっているの? ということを、ぼくが言ったって、言霊主義者は認めないのである。ああっ、あと、『「病気は治る」と言えば治る』のだから、病院に行く必要なんてないのである。「病気は治る」と言えば治るのだから、「病気は治る」とひとこと言えばいいだけの話だ。どうして、病院に行くの? なんで、入院するの? 病気は、治ると言えば、治るんでしょ。言えばいいじゃない。

まあ、普通の人、アドラー主義者、言霊主義者と見てきたけど……語ってきたけど……みんな、ご都合主義なんだよなぁ。自分の気持ちだけなんだよなぁ。言われた人のことをまったく考えてないんだよなぁ。

まあ、話がずれたので、話をもとにもどす。その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯なのかどうかについては、わからないけど、前後の文脈がたいせつなのではないかということだ。これも、自分が否定できないことを言われたということだけを問題にしているんだよ。「否定できないこと」を言うのは、ずるいというようなことを言う人は、自分が否定できないことを相手が言ったということをだけを問題にしている。そのまえに、「慢性疲労症候群なんてたいしたことがないから、Bさんは働けるのに、働こうとしない。病気に逃げている」ということを言っている。だから、Bさんが「あなたに、私のからだのことがわかるのか」ということを言っているわけでしょ。ぜんぜん、きたくない。卑怯じゃない。むしろ、Aさんが、そういう決めつけをするのがよくない。かってに、「慢性疲労症候群なんてものはたいしたことじゃない」「慢性疲労症候群でも働ける」「慢性疲労症候群でも働けるのに、働かないのは、けしからんことだ」ということを言っている。「検査で正常なら、病気じゃない。病気じゃないなら働ける」と、勝手に、思っている。検査というのは、完全じゃないのである。その検査は、その検査でしかないのである。こういうことがわかってない。普通の検査だと、毛細血管のつまりぐあいはわからない。毛細血管のつまりぐあいを問題にしないなら、正常だということを言っているだけなのである。レントゲンとか、普通の血液検査では、毛細血管のつまりぐあいはわからない。けど、毛細血管がつまってしまうと、「だるい」とか「しんどい」という主観的な認識が発生するのである。毛細血管のつまりぐあいを調べるにはDダイマーという検査をしなければならないのである。だから、検査をしたと言っても、抜けている検査があるかもしれないので、普通の検査をして正常なら(広い意味で)病気ではないとは言えないのだ。

さきに攻撃を加えておいて、『 その人が「否定できないこと」を言うのは、卑怯だ』と言い出すやつが卑怯者なのである。

 

毒チンについて参考となるサイト
https://note.com/akaihiguma/
https://ameblo.jp/sunamerio/

ワクチンをうけてしまった人は、なるべくはやく、イベル〇クチンや5-ALAやN-アセチルグルコサミンなどを飲んで解毒したほうがいいと思う。ニセモノのイベル〇クチンには気をつけください。味噌汁、納豆、甘酒、緑茶、みかん、バナナなど、なじみの食品も食べたほうがいい。味噌汁は、減塩ではなくて、従来の製法で作ったものがいい。麹味噌とかいいんじゃないかな。緑茶はペットボトルのものは、酸化防止剤が入っているのでよくない。ちゃんとお茶を淹れて飲んだほうがいい。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。