いったいなんなんだ? この人生は……。
ほんとうに、ボロボロになった。
最後のきちがい親父の意地でぼろぼろになった。「(ネズミは)(俺が)ネズミシートで捕まえるからいい」と言って、聞かなかったんだよな。ネズミ本体がはいってくる状態を維持すると、ネズミの糞とかネズミのショウベンでひどいことになるから、穴をふさがないとだめだと言っているのに、頭がおかしいから理解しない。そのときの、「いじのはりよう」なんだよな。
なぐりたい気持ちをおさえると、自分をボコボコになぐったような感じになってつかれるのである。我慢したぶんだけ、つかれた。我慢したぶんだけ、こっちが、ボロボロになった。
怒りをおさえると、怒りが内向して、とんでもないことになってしまう。きちがい兄貴のヘビメタ騒音だって、騒音でもつかれたけど、きちがい兄貴のきちがい的な頑固さに対する怒りが内向して、つかれた。ボロボロになる。
ほかの人は、きちがいの意地がわかってない。ほかの人は、きちがいの感覚がわかってない。意地も感覚もわかってないのに、わかったようなことを言いやがって……。それも、腹がたつ。きちがいがいる家に生まれたことがない人は、ほんとうにわかってない。わかってないということもわかってないだろう。
だから、誤解をして、まちがった前提に立って、きちがい的な家族に「やられた人」をせめるんだよ。常識的な判断で、せめる。けど、非常識が成り立っていたんだよ。そのうちでは「非常識」がずっとずっと成り立っていたんだよ。これ、どういうことだかわかるか?
道徳が踏みにじられている。そして、道徳を踏みにじって、攻撃しているほうは、まったくそのつもりがないという状態が、何十年も、毎日、成り立つということだ。きちがい的な家族の「のうみそ」がかわらないじょう、毎日、二十四時間中二十四時間、きちがい的な感覚が成り立っているのである。
で、きちがい的な感覚が成り立っているところで、きちがい的な基準で、きちがい的な行為をする。そうすると、それをとめることができない。とめるとなると、殺さなければならなくなる。この、「殺さなければならなくなる」という状態も、きちがい家族と一緒に住んでいない人はわからない。根本的にわからない。だから、かならず、ずれたことを言ってくる。『そんなことが成り立つなら苦労してない』ということを、言ってくる。