「ヘビメタ騒音でくるしい」と言っているだろ!「ヘビメタ騒音でくるしい」と言っているだろ!! 「ヘビメタ騒音でくるしい」と言っているだろ!! きちがい兄貴、きちがい兄貴、きちがい兄貴。
「きちがい兄貴、しずかにしろ!」「きちがい兄貴、しずかにしろ!」「きちがい兄貴、しずかにしろ!」……ああっ、もう、死ぬしかないか。「ああっ、死ぬしかない」は、非・合理的な思考です~~。けど、くるしい。ヘビメタ騒音でくるしい。
あのときの……切迫感や「どうしようもなさ」がすごいのである。あの騒音のなかで感じた、圧迫感がすごいのである。絶望感がすごいのである。「あせり」がすごいのである。「いかり」がすごいのである。あんなのずっとやられていて、いいわけがない。
あんなのずっとやられて、しあわせなわけがない。しあわせになれるわけがない。あの騒音なかで「いいことある、いいことある」とずっと言ったって、いいことなんてない。
あの騒音のなかで「しあわせだ。しあわせだ」と念ずるように言ってたって、しあわせ感なんて感じない。少しも感じない。「ふあん」「いかり」がすごい。
きちがいヘビメタが、鳴っている状態の「いかり」と「ふあん」がすごいのである。
ぼくの人生に直結している音なのである。
ぼくの人生に直結している騒音なのである。
それなのに、それなのに……。どれだけ言っても、絶対に一分間ですら静かにしてくれない。殺さなければ、「ふあん」「いかり」がどんどん増えていく。
きちがい兄貴が出し続ける圧迫騒音で、どうしても、増えていく。そんなのが、何千秒、何万秒と続いていいわけがないだろ。
一秒だって、破裂しそうなほど頭にくる。そういうきちがい家族がいないやつらが、ヘビメタ騒音の影響を無視して、好きな勝手なことを言ってくる。全部、まちがっている。
けど、まちがっていることに気がつかない。
* * *
「カネをかせげるかどうか」で「人の価値」が決まるわけじゃないのに、決まると思っているやつ。
そういうイロメガネで、人を見て、人を判断して、相手が、無職という弱い立場なら、自分のほうが『上』だと勝手に決めて、えらそうに、説教をしてくるやつ。
そういうやつがどれだけ多いと思っているんだ?
「カネをかせげるかどうか」で人の価値は決まらない。俺はそう思っている。そういうこととは関係がない人の価値があると思っている。
けど、どうだ?
ほかのやつらは、まるで本能的にそう思っているように、行動する。まるで、「カネをかせげるかどうか」ということが、その人の価値全体に影響をあたえていると、無意識的に考えている。カネをかせげる人には価値があると、その人の価値全体を考えるまえに決めてしまって、カネをかせげる人を見上げる。カネをかせげない人には価値がないと、その人の価値全体を考えるまえに決めてしまって、カネをかせげない人を見下す。そして、あろうことか「人生とはなにか」というような哲学的な問題について語りだすのだ。
自分が人の価値を「カネをかせげるかどうか」で判断して語るようなやつが語る……哲学。
しかも、そいつらは、行動してはまったくもって「カネをかせげるかどうかで人を判断」しているのに、その自覚がないのだ。そういう凡人がどれだけ多いか?
普段、日常生活のなかで「人の価値」を「その人がカネをどれだけかせげるかどうか」で決めているやつが、語る、哲学なんてろくなものじゃないよ。そいつの哲学なんてろくなもんじゃないよ。