しかし、つかれたなぁ。賃貸アパートの広告を見ていた。広告というか、ウエブページ。
どうするかな?
そして、この、やる気のなさ。やる気がないねぇ。
まあ、生存しているからいいか? なんかやることを考えると、「めんどうくさい気持ち」がさきにたつ。
たとえば、近いので広告に掲載されていたアパートを実際に見てこようかなと思ったのだけど、めんどうなのでやめる。このアパートは、近所のストアに行く道にある。近所のストアでは、いくらを買うつもりだった。なので、近所のストアに行くついでに、物件を外から見て、イクラを買って帰ってくるという案が浮かんだ。けど、めんどうくさい。(たしょう、遠回りすることになるけど、ほんとうにたしょう。大通り?をさけるためにその道を使うことが多かったので、やはり、近所のストアに行く道にあるという表現であっている)
どうするかな? ほんとうにめんどう。そして、この時間もけっきょく、ヘビメタ騒音が鳴っていた。冬休み期間中の、ヘビメタ騒音の雰囲気がする。
「やる気、が、ぶっ壊れている」。ヘビメタ騒音で壊れている。この場合、ヘビメタ騒音の繰り返しがある。毎日毎日、繰り返し、何時間も何時間もヘビメタ騒音が鳴っていた。どうしたって、学習してしまう。そういう「時間が人生のなかでながいわけだから」影響をうけないことは、可能ではない。ところが、そういうきちがい家族がいない人は、そういうきちがい家族による騒音が、毎日毎日、繰り返し、何時間も何時間も鳴らして、つらかったという経験がない。そういう経験がないところでの、発言なんだよ。わかってない。そういう経験なしで、たしょうの騒音を経験した。だから、たしょうの騒音のことを思い浮かべて、俺に説教をしてしまう。けど、それは、まちがっている。
あと、これは、省略して書くけど、「できるサラリーマンと、だめサラリーマンの比較」みたいな記事が、ネット上には、たくさんある。だめサラリーマンの特徴が、全部、ヘビメタ騒音にやられたときの特徴なのだ。そして、きちがい家族による、しつこい・しつこい騒音を何年間も毎日経験してない人は、「努力することで、だめサラリーマンが、できるサラリーマンになる」と言うのだ。記事というのはだいたいおなじだ。意図がある。「努力をしないからダメなのだ」といういつもの、誘導。
これは、ほんとうは、「能力」の問題なんだけど、「努力」の問題にすり替えられている。きちがいヘビメタ騒音といった物理的な刺激は、障害を引き起こす。これは、五度の風呂に毎日、入っているような状態だ。ちがうのである。けど、生活をするというところまで抽象化すると、「風呂は風呂だ」ということになる。「努力」することができない環境があるのに、それは、考慮されない。ひどいのになると、「努力することができる環境を」手にいれればいいとということを言う。そして、手に入れるには、「努力すればいい」ということを言う。
ぼくの場合、後天的に、能力がそぎおとされて、障害がしょうじたのだけど、そういう人ばかりではない。こういう記事を書く人は、基本的な能力の格差というものを認めていない。それは、いいことのように思えるかもしれないけど、「ダメ出し」の連続になる。ダメ人間のレッテル貼りにしかならない。そして、障碍者の人権に対してあれほど敏感な佐藤(仮名)ですら、「ダメ人間」の人権はまったく認めてないのである。けど、ダメ人間と言われている人たちは、言ってみれば、健常者と障碍者のあいだの存在だ。障碍者というカテゴリーには入らないけど、健常者で、『下位』の人間なのだ。これは、人間として『下位』であるといこうとではない。しかし、「努力」という言葉で、「能力」の問題を「性格」の問題に置き換えてしまうので、人間的に性格が悪いということになってしまうのである。「努力」をすればいいのに、「努力しない」からダメなのだという言い方をする場合、「努力」をしない性格が悪いからダメなのだということになってしまう。できる人は、性格がいい人、できない人は、性格が悪い人ということになってしまうのである。しかし、それは、性格の問題なのだろうか? ほんとうは、「能力」の問題なのではないか。「努力をすればだれでもできるようになる」という幻想のほうがまちがっているのではないのか? この幻想は、あまりにも当たり前すぎて、幻想だと思われてないのである。幻想と書いたけど、妄想と言っていい。ともかく、「努力をすればだれでもできるようになる」という考え方が正しいかどうかということをまったく問題にせず、「正しい」という前提に立ち、正しいという前提を隠して、物事を言う人が多い。正しいという前提を隠すというのは、ようするに、暗黙の了解として、あつかうということだ。それが正しいことは、議論の余地がないので、それが正しいということを前提にして、意見を言うのだ。この場合、議論の余地がいない考え方をメイン、そこから派生する考え方をサブということにすると、ようするに、このかくされた前提がメインで、いろいろな意見がサブということになる。サブの意見は、あたかも正しいように思われるのだけど、それは、メインの前提が正しい場合に限られるのだ。メインの前提が正しくない場合は、そこから派生するサブの考えたも正しくない。はたして、努力をすればだれでもできるようになる」という前提は正しいのかどうか? ぼくは、正しくないと思う。なので、そこから派生する個々の意見も正しくないと思う。
ほんとうは「能力」の問題なのだけど、「人格の問題」「性格の問題」にすり替えられているというところがある。「できるサラリーマンの特徴」「できるサラリーマンになるにはどうしたらよいかのということについての助言」……こういう記事は、じつは能力の問題を人格の問題に置き換えて、能力がない人間にダメ出しをするようになっている。この場合の「能力」というのは、サラリーマンとして活躍?するのに、必要な能力ということだ。サラリーマンでなければ、別に、そういう能力は必要ではない。なのであれば、人間の価値とは直結していないはずだ。特定の能力があるほうが価値があるという価値観がまちがっているのだ。
構造として、能力差はある。それは、人間なので、身長や体重の分布のように、ノーマルカーブを描くようになる。ノーマルカーブのカーブをとって直線にすると、『のび太のひし形』になる。この場合、上位のできる人、中位の普通の人、下位のできない人にわかれる。けど、それは、ある能力について、上位から下位にならべた場合に発生することだ。これは、その能力をはかれば、そういうことが言えるということだ。あるいは、はからなくても人間生活のなかでだいたいわかるような部分があり、なんとなく、みんなの頭のなかに、格差ができあがっているようなものだ。しかし、それは、『その能力』は価値があるという視点に立ったときだけ、効力を発揮するものなのである。その能力自体の価値は、わからない。さらに、冒頭でも述べたように、能力の問題を性格の問題にしてはいけないのだ。どうしてかというと、能力とは別に、人間としての価値があるからだ。能力とは関係なしに人間としての魅力があるからだ。しかし、学校や会社という組織は、むりやり、能力の格差をつくりだし……ある視点における能力格差を視覚化・数値化してあぶりだし……能力の格差を人間としての性格の格差にしてしまう。そして、能力格差『下』の人間に対して、「努力をしないからダメなんだ」という攻撃を加えることになる。そして、これは、無限に繰り返される……。まあ、実際には、ひとりの人間のなかでは、無限ではなくて有限だ。ともかく、いろいろなところで能力の差を性格の差と言い換えて、ダメダシをするのである。能力の格差「下」の人間は、性格が悪いということになってしまうのである。けど、そうだろうか?
ここでずっと言ってきているけど、アドラーのような価値観が、そのあとおしをするのである。