一括思考をしているときは、例外のない一括思考をしているのである。たとえば、「掃除をすればしあわせになる」と言っているときは、「掃除をすれば、しあわせになる」と言っているのである。「どんな状態でも、掃除をすれば、しあわせになる」と言っているのとおなじなのである。しかし、動かない人がいるとする。動けない人は、掃除をすることができない。なので、動けない人は、掃除をしてしあわせになることができないのである。しかし、ここでも、精神世界の人は、「動けないと思っているから、うごけない」「動けないということにこだわっているから動けない」「動けると言えば動ける」「動けると思えば動ける」と妄想的なことを言ってしまうのである。「動けないときは、まず、動けばいい」「動こうと考えるまえに、動いてしまえば動ける」「考えずに動くことを習慣化すれば、動ける」というようなことも、言ってしまう。これは、一括思考をしている限り、妄想的な内容なのだけど、「脳科学的に正しい」などと言ってしまうのだ。だから、動けない状態は、無視して、「動こうと思えば、動ける」というようなことを言ってしまう。一括思考というのは、このように、残酷なところがあるのである。そして、「掃除をする」ということと「しあわせになる」ということの関係は、ほんとうは、ない。これも、「しあわせになる」というのが、あいまいな言葉なので、どのようにも解釈することができるので、「掃除をすると、しあわせな気分になる」人は、疑問を感じないのだけど、実際には、関係があるとは言えない。ところが、一〇〇%の関係があると、これまた、一括思考をしてしまうのである。
じつは、それだけではすまない。動けない人がいると想定すると、動けない人に対しても「掃除をしないから、不幸なのだ」と言ってしまう。「掃除をしないことが、しあわせになれないことの原因だ」と決めつけてしまうのである。動けないという状態を、精神世界の人は、まったく考えていないのである。
ところが、精神世界の人が、いざ、動けなくなると、言っていることが、逆転してしまうのである。「これこれ、こういう理由で動けないのはあたりまえだ」と考えてしまうのである。いままで、自分が「正しい」と言ってきたことなんて、関係がないのだ。こういう、自分勝手なところがある。これは、言霊主義者の行動を通して、いままで、説明してきたことと、合致する。しかも、自分が、正反対のことを言っているということについて、無頓着なのである。矛盾に気がつかない。精神世界の人が、動けるようになれば、また、「動けると言えば動ける」と言い出す。動けないようになって、そのまま死んでしまった場合は、自分の矛盾に最後まで気がつかずに死んでしまうのである。だから、おろかな間違いが、人から人へ、伝統的に受け継がれることになる。