「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかったと思う」とEさんが言ったとする。ほんとうに、Bさんが成功しなかった理由が、Bさんの貧しさにあるのかどうかは、わからない。
しかし、「貧しいから、努力をしても成功しなかった」ということは、ありえることだ。貧しさが理由で、Bさんが、成功しなかったのかどうか、それだけではわからない。
しかし、貧しさが理由で、Bさんが成功しなかったということは、ありえることだ。
貧しい人は、みんな、貧しいから、努力をしても成功しないということを言っているのではなくて、Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかったということを言っているのだ。
これは、正しいのかどうかわからないことだ。しかし、最初から、否定することはできない。
神様視点では、どっちなのかわからないことなのだ。
おのおのが、勝手に、「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかった」と考えたり、Bさんは、ほかの理由で、努力をしても成功しなかった」と考えたりするだけなのだ。
そして、Fさんが、「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかった」と言ったとする。Gさんが、「Bさんは、才能がないから、努力をしても成功しなかった」と言ったとする。Fさんが正しいのか、Gさんが正しいのか、ほんとうのことはわからない。
しかし、「Bさんは、貧しいから、努力をしても成功しなかった」という考え方が、正しい場合もある。それは、否定できない。
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いちおう、才能という視点を導入してみた。「努力をすれば、成功する」という場合は「努力」だけが、「成功するかどうか」を決めることになる。
努力のみについて語っていた時は、努力だけで、「成功するかどうかが決まる」ということを言っていたのである。
ここまでの話のなかで、「才能があるかどうか」なんてことは、出てこない。成功するかどうかは、努力をするかどうかで決まってしまうのである。
もちろん、努力をするかどうかで決まるということを、「努力をすれば、成功する」と言っている人たちが、主張しているだけだ。
ここで重要なのは、「才能がある」ということが、一意には決まらないということだ。「才能がない」ということも、一意には決まらないのである。だから、ほんとうは、こういうことを一〇〇%構文で言うべきではないのだ。
ところが、「これはこうだ」と断定することが、はやっていたのである。
いまでも、一〇〇%構文を使って、断定する人が、多数、いる。
この人たちは、「一意に決まらない」ということに注目しない。この人たちは、「(各項目のもつ意味が)一意に決まらない」ということに気がつかないまま、一〇〇%構文を使って、断定的にものを言う。
もう、この時点で、問題が発生している。
間違った思考をして、他人のことを「決めつけてしまう」のだから、問題が発生している。ただ、「間違った思考をしている」ということを、頑固に認めないのだ。
ともかく、集合的一括思考をして、他人のことを決めつけてしまうのは、よくない。
よくないことだ。