あんまり言いたくないけど、努力論者が「だれか」を「さぼり魔だ」とか「ダメ人間だ」と決めつけたということは、ほかの人にも影響を与える。
たとえば、Aさんは、ほんとうは、才能がないから、成功しないのだけど、「ちゃんとした努力をしないだめな人間だ」と決めつけられることになる。そういう発言を、職場でしたなら、ほかの人もAさんは「ちゃんとした努力をしないだめな人間だ」とみなすようになるのである。
Aさんは、死に物狂いの努力をしていたかもしれない。「間違った方向の努力だ」と思われがちなのだけど、間違った方向の努力かどうかは、わからない。
これも、成功しなかったという事実に基づいて、勝手に努力論者側が、「Aさんは間違った方向の努力をしている」と決めつけただけなのだ。後出しジャンケンだ。ずるいことをしている。
ともかく、努力論者が、だれかを「努力論」に従って、「ダメ人間だ」と言い切ってしまうと、ほかの「努力論者ではない人たち」も、影響を受けて、だれかを「ダメ人間だ」と決めつけるようになる。そうなると、その人は、その場所で、居場所を失うことになる。
才能がないだけなのに、「努力不足だ」と言われて、「(ちゃんとした努力をしないダメ人間のレッテル」をはられて居場所を失うのである。
ある分野の才能がないということは、ある分野の才能がないということを意味しているにすぎない。
ところが、「さぼり魔だ」ということになると、道徳の問題になるのである。
才能がないだけなのに、「性格が悪い人だ」ということになってしまうのである。才能の問題が、性格の問題になってしまう。努力論は、才能がない人のことを、「悪い性格をもっている人」にしてしまうのである。
どうしてなら、ほんとうは努力するべきなのに、努力しない人間だということになり、それは、努力をしようとしない性格の問題だということになってしまうからだ。
才能がないだけなのに、性格が悪い人だということになってしまうのである。
これも、「努力論」が実際の社会で運用されることになると、発生する問題だ。
かりに、Aさんが、その分野で才能がないということに悩んでいるとする。ところが、努力論者のなかでは「才能の問題」はないことになっているので、「努力不足の問題だ」ということになってしまうのである。
けっきょく、「さぼろうとしているAさんが悪い」ということになってしまう。Aさんが、どれだけ、頑張って努力しても、「やること」に成功しない限りは、努力をしていないことになってしまうのである。あるいは、努力不足ということになってしまうのである。
あるいは、正しい方向で努力をしてないということになってしまうのである。
まあ、まとめると「さぼって、ちゃんとした努力をしないから、やることに成功しないのだ」ということになってしまうのである。 Aさんが、なんらかの作業をする場合、その、なんらかの作業する場合には、絶対に必要なあることがでなかったとする。
その必要なことをする才能がAさんにはなかったとする。
その場合、Aさんは、その作業をすることに成功しないわけだから、努力不足だということになってしまうのである。ちゃんと努力をしていない問うことになってしまうのである。
Aさん(本人)は、どれだけ、ちゃんとやろうと努力したとしても、結核的に、その作業ができないのであれば(その作業をやることに成功しないのであれば)……自動的に、ちゃんと努力をしていないということになってしまうのである。
別に、さぼりたいわけではないかもしれない。けど、どれだけ努力をしてもできないのだから、しかたがない。
けど、努力論者や努力論者の影響を受けた人は、Aさんが「さぼり魔だからダメなんだ」と思ってしまうのである。
Aさんが「努力をおこたった」からダメなんだと思うようになってしまうのである。Aさんは、努力をしないような悪い人だということになってしまうのである。
ちゃんと努力をしないということは、誠実ではないということになってしまうのである。
Aさんは、「誠実ではない」のではなくて、その作業をする「才能がなかった」だけなのだ。ところが、才能の問題が、誠実さの問題にすりかわるのである。
ようするに、才能の問題が、性格の問題にすりかわるのである。ようするに、努力論という触媒があると、才能のなさが、性格の悪さにすりかわってしまうのである。
努力論によって、Aさんは、性格が悪い人間だと思われることになってしまうのである。Aさんがどれだけ、誠実に頑張っても、才能がないからできなかったとする。
それでも、努力論がはびこった職場では、「Aさんは努力不足で、誠実に努力をしないからできないのだ」ということになってしまうのである。