2018年10月18日木曜日

無意識的な確信が、ひっくり返らない

俺の哲学修行はなんーーんの役にも立たなかったんだなぁ。まあ、そういうものじゃないか。少なくても金にはならなかったけど、それでいいや。哲学のおかげですこしは解決した問題もある。気違いヘビメタ騒音問題の一部でしかないから、問題だな。全部じゃないからね。

にしても、つかれた。本当に、つかれた。

俺がどんな気分で生きてきたと思っているんだ? 兄貴!!

おまえの騒音のせいで、俺がどんな思いをしてきた通っているんだ?? 兄貴!! おまえ、親父のように完全に無視して鳴らしてたけど、鳴らしてんだよ。これ、無視して鳴らせば、鳴らしてないのとおなじ……という気違い思考だからな。いや、それ以前に、「デカイ音で鳴らしていることに気がつかない」。あるいは、「デカイ音で鳴らしていると思ってない」。「どれだけデカイ音で鳴らしたって、無関係だ」と確信している態度。「がたがた言ってくるほうがわるい」と思っている。「静かにしてくれ」「静かにしてくれ」と言ってくるほうが悪いと思って、ずっと、デカイ音で鳴らしてたんだよ。鳴らしてないわけじゃない。けど、デカイ音で鳴らしてないと、デカイ音で鳴らしているあいだじゅう思っている。いや、言われたときだけ思っている。言われなければ、親父状態で、気違い的にデカイ音で鳴らして、「まったく自分には関係がない」と思っている。この「まったく自分には関係がない」というような無意識的な確信が、ひっくり返らない。気違い兄貴よ! 気違い親父が、わけのわからないことで怒り狂っているときに「わけのわからないことで怒るのはやめてください」と言われても怒り狂うということをやめないのとおなじだ。次々にきちがい的な理由を見つけて、つっかかってくる。あんな気違いはない。けど、親父は「つもりがない」状態なんだよ。「わけのわからないことで怒るのはやめてください」と言われて、「それもそうだな」と言って、やめてくれるわけじゃないだろ。親父はそうだっただろ。気違い兄貴のヘビメタはそれとおなじなんだよ。「やめてくれ」「静かにしてくれ」と言われて、静かにするわけがない。そのあとずっと続けて、「デカイ音で」鳴らしている。けど、本人は、それでいいと思っている。自分が文句を言われたということに関しては、腹を立てるけど、まったくなにも悪いことをしてないつもりで、その当の行為を続ける。で、一日の中で、やり終わったら、「まったくやってない」という気持ちになってしまう。そういう気持ちになってしまったら、本当にまったくやってないのとおなじ認識が成り立つ。こういうことが、毎日繰り返されていいわけがないだろ。


   *   *   *

これだって、俺が普通の人に言えば、普通の人は「なんかこわい人だな」なんて思ったりするんだよ。おかしいやつにやられたやつが、やられたことを正確に説明すると、「おかしなやつ」だと思われるんだよ。けど、正確に説明しなければ、なんて言うのかな……気違い兄貴のヘビメタ騒音にさらされたままの俺が、普通の状態だと思うわけだよ。そりゃそうだろう。

何万回、言われたって、おなじことをする

俺は、終わっているのだろうか?
なんか、終わっている感じがする。
ともかく、つかれた。
完全に取り残された。
感情がうまく動かない。

ヘビメタ騒音以降、感情がうまく動かない。
ヘビメタ騒音のことをどれだけ言っても、無駄なんだけど、……そうだ。これ、ずっとそうなんだよな。これ、ちがうんだよ。他の人は誤解している。誤解している。ヘビメタ騒音は水銀のようなもので、ずっと影響を与える。摂取してしまったら、ずっと影響を与える。

ボディーに、頭に、人生に影響を与え続ける。

他の人は、可逆的な短時間の騒音しか経験してない。精神病質者による騒音ではなくて、健常者による騒音しか経験してない。家族による、精神病質者的な騒音じゃなくて、他人による精神病質者的ではない騒音しか経験してない。

だから、認知に差ができる。


たとえば、『家』という単語を聞いて、どういう家を思い浮かべるだろうか? おのおの自分が住んでいたような家を思い浮かべるのではないだろうか。お屋敷のような家に住んでいる人?はお屋敷のような家、小屋のような家に住んでいる人は小屋のような家を思い浮かべるのではないだろうか。

『騒音』という単語でもおなじだ。その人が経験したような『騒音』をまず第一に思い浮かべる。その人が経験したことがない『騒音』に関しては、空想で補うしかない。しかし、その空想が、じゅうぶんではない場合がある。もっとも、経験した人でなければわからないということが前提だと、かならず、その空想はじゅうぶんではないということになってしまうのだけど。

ようするに、視たことがないような家を、言葉を聞きながら、想像するということになる。

その想像した家は、実際の家とはちがうのである。実際の家というのは、この場合、だれかが言っている家だ。だれかが、家について記述しているのだけど、その記述は、言葉でしかないから、想像で補わなければならない。しかし、その「想像したイメージ」と、実際の「それ」がちがうのである。

『騒音』の場合、そのちがいがものすごくでかいものになる。そりゃ、ずーーっと、精神病質者にたたられた人じゃないとわからない。精神病質者に騒音で毎日たたられた人じゃないと、騒音生活そのものがどれだけくるしいかわからない。想像もつかない。想像しても、
その想像したものが、実際のものとは、大きく異なる。

それから、気違い兄貴は、「やってないつもり」なんだよな。『鳴らしてないつもり』なんだよ。あるいは『静かにしてやったつもり』なんだよ。これが、どれだけおかしいことか?

普通の人にも、兄貴にもわからない。兄貴に言っておくけど、そんなのは、親父が『ぜんぜん怒らなかった』『理由がないことで怒り狂ったことはない』『常に譲歩してやった』『常に買ってやった』と言っているようなものだぞ。実際には、何年間でもがまんさせっぱなし、なんだけど、本人はまったくつもりがない。

本人はつもりがない。まったくつもりがないままやり続ける。

これが、相手にとってどれだけ残酷なことかわかるか? しかも、何万回も、言われたのに、「つもりがない」状態を維持しているんだぞ。こんなのはない。普通の人は、まさしく、想像もできないだろう。だから、気違い家族にやられた人が、そういうことを正確に記述しても、他の人は、正確に記述している人が『嘘を言っている』と思う。思う人たちがいる。実際には、『そういうこともあるだろうな』と思う人たちもいる。少数だけどな。

ともかく、気違い的なやり方がわからないということになる。「そんなことはない」のである。「そんな人はいない」のである。常識的な人たちにとっては、あるいは、気違い家族にやられたことがない人たちにとっては、「そんなことはない」「そんな人はいない」ということになる。間違っているのだけど、そう思う人たちの方が多い。

あるいは、不遜にも「自分だったら、どうにかできる」と思う人たちの方が多い。これもけっきょく、気違い家族が、「い・え・の・な・か・で」どいう態度で、どういう振る舞いをするかわかってない人たちが勝手に思うだけのことだ。ようするに、事態に対する認識があまいのである。あまいのは、おまえらだ。本当に、「やってないつもり」でやりつづけちゃうんだからな。こんなのはない。けど、そうだ。うちではそうだった。ずっと毎日毎日、何年間も何年間もそうだったんだよ。どうしてかというと、うちにいる限り性格がかわらないからだ。これ、本当に、そういう性格だからそうしているといったたぐいのもので、殺さなければ、「うちでは」やめさせることができない。認知のズレまで含めて、うちの兄なのである。認知のズレまで含めて、うちの父なのである。認知のズレというのは、本人が気違い的な意地でやっていることをやってないと思うような認知的なズレだ。これも、気違い的な意地でやってないと思うわけで、本人がそう思ったら、本人のなかでは終わっているんだよ。だから、まったく気にしないで、その当の行為をやり続けることができる。もちろん、やっているあいだ、まるでそのつもりがないままなんだよ。相手が「やめろ」と言ったあと、「やっている」とは思わない。死んでもそういうふうに思うことができない。自分にとってだけ、都合がいい感覚、思考回路だ。自分とってだけ都合がいい認知回路だ。そういう認知回路を持っていれば、「やってないつもり」で好きなだけやることができるのだから、楽だろ本人は、気がつかないのだから、まったく悪気がしょうじない。気がつかないのだから。何万回、言われたって気がつかない。何万回、言われたって、おなじことをする。気がつかないままおなじことをする。……し続ける。うちでは……。だから本人は、気楽なもんだよ。本当は、気違い的な意地で押し通しているのに、まったくやったつもりがしょうじないのだから、まったく悪気がないまま普通に生活することができる。ちゃんと、自分の意地を通して、やっている……ズッとやっている……ゆずらずにやっている……けど、そんなことはやってない」という認知がずっと成り立っている。こういう、異常なことが普通に成り立ってしまうのが「うち」だ。他の人には、この深刻さがわからない。どれだけ腹が立つことかわからない。どれだけ、不可避的に影響を受けるかわからない。そりゃ、気違い的な意地で毎日、午後一一時一一分まで、ガンガンヘビメタを鳴らされ続けたら、影響を受けるだろ。ちがうんだよ。普通の騒音と。俺の部屋の中心にして考えると、もう、ぜんぜんちがう騒音なんだよ。普通の騒音じゃないんだよ。

2018年10月14日日曜日

「その言葉が最初から結果を含有している」……定義と暗黙知

幸せのメカニズム 実践・幸福学入門 (講談社現代新書)

レビューの感想(最初の段階)


https://www.amazon.co.jp/%E5%B9%B8%E3%81%9B%E3%81%AE%E3%83%A1%E3%82%AB%E3%83%8B%E3%82%BA%E3%83%A0-%E5%AE%9F%E8%B7%B5%E3%83%BB%E5%B9%B8%E7%A6%8F%E5%AD%A6%E5%85%A5%E9%96%80-%E8%AC%9B%E8%AB%87%E7%A4%BE%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E5%89%8D%E9%87%8E-%E9%9A%86%E5%8F%B8/product-reviews/4062882388/ref=cm_cr_dp_d_show_all_top?ie=UTF8&reviewerType=all_reviews


あくまでもレビューを読んで思ったことで、本を読んで思ったことじゃない。


この本のレビューなんだけど、この本を科学的だと考えている人と、科学的ではないと考えている人の読解能力をくらべると、科学的ではないと考えている人のほうが、読解能力が高いのではないかと思う。また、どちらが科学的かというと、この本は科学的ではないと言っている人のほうが科学的なのではないかと思う。まあ、本体の本を読んでないから、『感じがする』と意味だけどな。

   *   *   *

幸福学よりも不幸学が必要なんだ。これが、わかってない人たちが多い。

   *   *   *

あとは、幸福というものが定義できないのであれば、どうすればよいのかということだ。幸福も、幸福感も定義できないのであれば、話しがはじまらない。だから、かりそめの定義が必要なのだけど、そのかりそめの定義が、トートロジーになってしまうのではないかということだ。

人に対して、どういうときに幸福だと感じるか?ということを問うたとしよう。その答えを、集計して、だいたいこういうときに、幸福だと感じるということを導き出せたとしよう。

で、その結果を元に、幸福を定義しようとすると、トートロジーになってしまうのである。

ようするに、『赤は赤である』とか『赤はレッドである』とか『赤とは700nm付近の波長を持つ可視光線である』というような感じになってしまう。けど、『赤は赤である』を抜かして、赤を言い換えたものにすぎない。

赤と呼ぶことになっているということは、言い替えを最初から含んでいるということを意味しているのである。

結果の含有。

「その言葉が最初から結果を含有している」ということ。結果というのは、主語に対して述語に相当する部分のことである。また、結果とは『言い替え』自体のことである。『赤は赤である』は、言い替えである性質をまったく持ってないという意味では、完璧だけど、『赤は赤である』ではなにも言ってないのとおなじである。

けっきょく、言葉を介した暗黙知のようになってしまうのか。けど、暗黙知の部分を言語化しようとしても、言語化できない部分がある。それが暗黙知なのだから。



2018年10月13日土曜日

「つまんないつまんない」と言う人

まじ、つまんねぇわぁ~~
だいたい、「つまんないつまんない」と言う人は、魅力がない……という説がある。一理あると思う。けど、俺は言う。「つまんないつまんない」。つまんないんだよ。ヘビメタ騒音がはじまってからずっとつまんないんだよ。強制的に、強迫的につまんないんだよ。くるしいんだよ。

2018年10月11日木曜日

ヘビメタ騒音で障害者になった(公開バージョン)


幼稚園児が、「いっち、に、の、さーー、ん、わわわわわわわわ~~~」ってやっている。これも、けっこううるさい。ひとりじゃないからね。大合唱だからね。けど、もちろん、勉強はできる。ヘビメタ騒音のなかで勉強はできない。このちがいがでかすぎる。

また、両親の寝室……母親の寝床なら、ヘビメタ騒音が鳴っていても、眠れたんだけど、自分の部屋で眠るのは、不可能なんだよな。こうなると、うるさいときは眠って、起きてから勉強するということができない。

本当に、勉強にたたるのである。

偏差値で二〇ぐらい、足を引っぱられた状態だ。そういう状態で暮らしてきた。これ意味がわかってないのである。気違い兄貴は、これの意味がわかってない。気違い兄貴、おまえのせいで、底辺の仕事にしか就けなくなったんだぞ。学問研究ができなくなったんだぞ。

底辺の仕事ですら、ヘビメタ騒音でだめだけどな。勉強だけじゃなく、生活体力と睡眠力にたたる。生活体力と睡眠力も、「偏差値」で言うと、三〇ぐらいさげられた状態だ。もっとか。

ヘビメタ騒音がなければ健常者なのに、ヘビメタ騒音が一四年間も毎日鳴っていたので、障害者になってしまったのだ。睡眠障害。自律神経失調症。起立性調節障害。言葉はないけど、生活体力障害。本当に慢性疲労症候群のような状態になって、何時間も続けて作業をするということができなくなった。これがでかいんだよな。

だから、通勤して普通に働くことはできない……と言っているのに、気違いヘビメタ騒音にやられたことがない人たち……一四年間毎日ヘビメタ騒音にたたられたことがない人たちが……「甘えている」とか言い出す。

俺は、ヘビメタ騒音に一四年間も毎日たたられなかったら、普通に働くことができたんだ。これが、どれだけくやしいことか……。頭にくる。気違い兄貴も、「甘えている」とか俺に言うやつも、頭にくる。ヘビメタ騒音に毎日一四年間毎日たたられてきたわけじゃないだろ。条件がちがうんだよ。話がちがうんだよ。

「俺だって、つらいことぐらいあった」「俺だって、朝、つらいときがある」……そうかもしれないけど、ヘビメタ騒音を一四年間毎日浴びてから、言ってくれ。

で、これを言うと、「なんだ!!おまえだけつらいと思っているのか!!」と発狂してしまう人がいるのだけど、まずは、ヘビメタ騒音を一四年間、浴びてから言ってくれ。

それじゃないと話にならない

。おなじ音量のレベル、おなじ時間の長さ、おなじ期間の長さだからな。一日がどれだけぶっ壊れるか、一〇年でいいから、経験してみろ。そのあとに、言え!!







これ、本当、書いちゃったけど、書くと、ごっそり、読者が減るんだよ。まえ、同じようなことを書いたとき、ごっそり、読者が減った。







それと、幼稚園の騒音だけど、耐えられない人にとっては耐えられない。むかし、横の横のうちに住んでいた人がいたんだけど、その人がまあ、結婚した。その人は、男で、嫁さんが新しく、その家にくることになった。で、しばらくはいっしょに暮らしていたんだけど、嫁さんが幼稚園の騒音に耐えらなくて、離婚したみたいなんだよな。「わたし、ここにいたらおかしくなっちゃう。ここらへんの人、よく、耐えられるなぁ」みたいなことを言ったらしい。幼稚園の騒音だけが離婚の原因ではないのだけど、幼稚園の騒音は最大の理由だ。そういうふうに、耐えられない人がいるぐらいの騒音なんだよ。特に、運動会の前の一ヶ月は太鼓の音がひどい。あれは、間近で聞かされると、たしかに、くるしい。







けど、その幼稚園の騒音よりも、何十倍も何百倍もひどいのが、兄貴のヘビメタ騒音だ。

2018年10月10日水曜日

常識でものを言いやがって。

ここで書いていてもしかたがないかなぁという気分になってきた。



自転車で行くべきか? 徒歩で行くべきか?



どうするかな?



うーん。



本当にヘビメタ騒音でつらかったな。だれに言ってもわからないことなんだよな。言えば言うほど、へんなやつだと思われる。ともかく、人生全部で、ヘビメタ騒音が一番でかかった。どんなでかい出来事よりも、ヘビメタ騒音の積み重ねのほうがでかい。とてつもなくでかい。


他の人にはわからない、精神病質的な兄による長期にわたる長時間のヘビメタ騒音という問題が、でかすぎる。他の人にはわからない。そりゃ、一日だって、一時間だって、経験したことがないから。一時間でも経験すれば、それがどれだけ、体力や気力をうばうものかわかる。一時間、ヘビメタ騒音にさらされながら、勉強を続ければ、どれだけ、その音のなかで勉強することがむずかしいかわかる。本当に、短期記憶がすべて、吹き飛ばされる。〇・三秒で、短期記憶が吹き飛ばされるので、まともに考えることができない。ヘビメタ騒音のなかでやったことは、重たい雰囲気がつきまとうようになる。おぼえたものも、ヘビメタ騒音のなかで見ると、忘れて?しまう。はっきりとおぼえたものも、ヘビメタ騒音のなかで読んでしまうと、おぼつかなくなる。マイニチそんなことがつづいていいわけがないだろ。学生時代ずっとそういう状態で良いわけがないだろ。「学生時代ずっとそういう状態で良いわけがないだろ」……これが、気違い兄貴はまったくわからないのである。親父が、自分のあずけたハンダゴテが使えないと言うことを理解しないようにわからない。本当におなじなんだよね。気違い親父が、自分が強制的に持たせたハンダゴテで、兄貴が恥をかいたということが、どうしてもわからないように、兄貴のヘビメタ騒音で、俺が学校で恥をかくということがわからない。どれだけ言ったって、わからない。そのものずばりを、どれだけぶつけても、わからないものはわからないのである。で、わからないまま、やり続ける。自分がやっていることをゆずる気持ちは、一%もない。〇・〇〇〇〇〇〇一%もない。しかし、「ゆずる気持ちは〇・〇〇〇〇〇〇一%もない」ということがわかってないのである。実際〇・〇〇〇〇〇〇一%もゆずらなかったしても、ゆずってやったということになってしまう。これも、親父とおなじだ。親父は絶対にゆずらなかったけど、ゆずってやらなかった」という気持ちはないんだよ。まったくない。逆に「ゆずってやった。ゆずってやった」「ちゃんとやってやった。ちゃんとやってやった」と思っている。気違い兄貴もおなじなんだよ。自分が実際にゆずってないのに、ゆずってないといこうとがわからない。それは、言われないから、わからないのではなくて、何万回言われてもわからないのである。そして、ゆずらずに鳴らす。ゆずらずに鳴らしているとき「ゆずってないだろ」とどれだけデカイ声で言っても、親父のように無視して「わからないまま」なのである。こういうしくみが、どれだけの人にわかるというのだ。こういうしくみで、迷惑行為をやられたとき、どういう気持ちになるか、他の人はまったくわからない。わかるわけがない。そんな「じんがい」の行為が、わかるわけがないから。頭がおかしい家族がいない人は、そういう人の意地がわからない。脳みそのしくみがわからない。実際にやられなければ、そういう態度でやりきるひとがいるということがわからない。常識でものを言いやがって。

   *   *   *

洗濯物を干した。

ぼくのこころは、暗い。



これ、二十歳のときの暗い気持ちと同じなんだよな。



あーあ。

2018年10月9日火曜日

と言っても、記憶喪失だったり認知症だったりするわけじゃないのである

気違い兄貴の場合は、親父とおなじで、激しく意地を張ってやっていることは、やってないことになってしまうのである。「まったく」やってないことになってしまう。そもそも、「つもりがない」ことになってしまう。そういう人がいるということが、他の人にはわからない。これは、ぼくにとっては、事実なんだよ。そして、そういうふうにやられてきたんだよ。まあ、「そういうふうにやられてきた」というようなことを言うと、やられた人が「やられた」という現実をつくっているなどと言い出す人がいて、議論をしなければならないことになる。

気違い兄貴のしくみは、わりと複雑だ。もう、だいぶ書いてきたから、ここをずっと読んでいる人にとってみれば既出なんだけど……。「『まったく』やってないことになってしまう」と言っても、記憶喪失だったり認知症だったりするわけじゃないのである。これが、わかりにくいところなのである。これ、本当に、めんどうなんだよな。だいたい、本人だって本当に「つもりがない」気持ちでいるわけだからさ……親父とおなじで。



昨日、寝る前に考えたときは、すらすらっと説明することができたのだけど、いまはできないな。まあ、既出だからなぁ。既に書いたことをもっとスマートにまとめあげただけだから、書く必要はないか? まとめだからなぁ。所詮はまとめ。

兄貴や親父の場合、神経症的な『否認』と、それを支える脳の構造が問題であると思われる。



2018年10月8日月曜日

俺とまったくおなじ経験をした人以外、その言葉を口にするな!


解放してやったんだよ。解放してやるしかないだろ。もう、「つきあう」必要はないよ。俺は、働けない。「つきあう」必要はない。君は働いて、自分のキャリアを積めばいい。俺にかまう必要なんてないんだよ。


どうして、俺が通勤して働けるかどうかがそんなに問題になるか? 働けなくてこまるのは俺だけだろ。「おいてきぼり」にはできない? だから、『無理だ』『できない』と言っているだろ。俺がどういう気持ちで、『無理だ』『できない』と言っていると思っているんだ?

心配してくれるのはありがたいけど、無理なんだよ。これ、本当に、ヘビメタ騒音を経験した人と経験してない人とではちがう。もう、生きている世界がちがう。ヘビメタ騒音が積み重なった世界が、どれだけくるしいか? みんな、こんなことになっちゃんだよな。気違いが鳴らすと、そうなる。

これ、本当に、気違い兄貴の感じ方は気違い親父の感じ方とおなじなんだよな。で、世間の人の感じ方も、わりと似たようなところがある。俺だけが、クレパスに落ち込む。経験がちがいすぎる、認知がちがいすぎる。『俺だって、これこれ、こういうことをされた』『俺だって、こういうつらい思いをした』……それは、事実だろう。事実だろうけど、それは、『通えない』状態をつくりだすものではなかった。『通えない』というのは、『どうやっても通えない』ということだ。どうやっても、どれだけ努力しても、無理なことなんだよ。これ、ちがうんだよな。一回だけのことを考えているみたいなんだよな。一日だけ、ヘビメタ騒音が午後一一時一一分まで鳴っていたというわけではない。積み重ねがある。ヘビメタ騒音がおなじようにつづくという積み重ねがある。それは、負の積み重ねだ。ぼくは毎日、それに、死にものぐるいで耐えていたんだ。死にものぐるいの努力をして耐えていたんだ。もう、一三年間つづいて、限界だったんだよ。終わってなかったの! 家に帰れば鳴ってたんだよ。どんだけくるしい思いをして、学校に通っていたか。一日ずつ死にそうだったよ。毎日、死にそうだったよ。ヘビメタ騒音がきつくて死にそうだった。他の人にはそれがない。俺とまったくおなじ経験をした人だけ、『どうやっても通えないなんてことはない』と言え。俺とまったくおなじ経験をした人以外、その言葉を口にするな!

やつらができるのは、あたりまえだ。俺だってできた。俺が、ヘビメタのなかで、どういう気持ちで生きていたと思っているんだ? これ、ヘビメタが鳴ってないときも、ずっと、ヘビメタノ影響を受けている。兄貴の気違いヘビメタの影響を受けている。それは、不可避的なんだよ。これも、やられたことがないやつが、『影響を受けるかどうかは本人の資質次第』というようなことを言う。けど、ちがうんだよ。これ! そういう頭がおかしい無慈悲なことを言うやつと、俺が空想のなかで、独り相撲か? それ、ヘビメタ騒音が鳴っている最中もそうだったから。ヘビメタ騒音が鳴り終わったあと、眠れない状態でもがいていたときもそうだから。 ほ・ん・と・う・にちがうのに、何千日もやられたことがない人はわからない。あの音のでかさで、やられたことがない人はわからない。

2018年10月7日日曜日

先に行けないと言うなら、俺は、しりぞくしかないだろ


俺がどういう気持ちで「働けない」と言っていると思っているんだ? どういう気持ちでぇ!!!!どういう気持ちでぇ!!!!どういう気持ちでぇ!!!!どういう気持ちでぇ!!!!

何千日の積み重ねがあると思っているんだ? 負の積み重ねがあると思っているんだ?? 数千日、俺がどういう気持ちで、どういう身体状態で、ヘビメタ騒音の中でがんばってきたと思っているんだ。

たえて、「かよった」と思ってるんだ。もう、無理なんだよ。

「かよう」ことは、不可能。いまだって、インターネットがなければ、働けないんだよ! 通勤ができない。俺が、どれだけくるしい思いで、起きて、学校に行ってたと思っているんだ。図書館に行ってたと思っているんだ。あの時だって鳴ってたんだぞ。



あー、俺を置いてきぼりにして、先に行けないと言うなら、俺は、しりぞくしかないだろ。『働けない』のだから。『そこをなんとか』とか……。『できない』と言っているだろ。俺がどういう気持ちで、『できない』と言っていると思っているんだよ!!! どんな気持ちで言っていると思っているんだよ!!!



もう、一三年つきあわせてしまったしな。君が前に進めないというのであれば、絶交するしかないだろ。知っているはずだぞ。

2018年10月6日土曜日

どれだけ言っても、一分もやめてくれなかっ

どうも、再起不能っぽいんだよな。

やられ方が違うからなぁ。

ヘビメタ騒音をやられてからずっと、地べたを張っているような状態だ。どうしても、暗い。憂鬱だ。激しくだるい。どーにもならない。

いまの時間帯はヘビメタ騒音が鳴ってたんだよ。で、ヘビメタ騒音が鳴っている感じがする。いまでも、なっている感じがする。



どれだけ言っても、一分もやめてくれなかった。どれだけ俺が、ヘビメタ騒音でこまっているときも、一分もやめてくれなかった。これが、何千日もつづいてみろ。どれだけ、元気な人だって、元気をなくして暗くなる。しかも、一目見て、『元気がない』ということについて、他人から文句を言われる状態になる。これが、現実だ。これが、この世の現実だ。鳴らされている生活が続いている状態で『元気を出せ』とか言われるのが、どれだけつらいか。どれだけつきあいきれない気持ちになるか。つきあいきれねぇーよ。つきあいきれない。



もう、そういうことが積み重なりすぎた。積み重なりすぎた。

2018年10月4日木曜日

あなたは、一人で「ゆるすゆるす」と一日に何十回も、何百回もベットの上で言って、満足なのか?

来年の今頃は、飛び跳ねている感じがする。飛び跳ねていろいろなところに行っている感じがする。ただ、そういうシーンが浮かんだだけなんだけど……。まあ、これは、わからない。いまの体調を考えると、「あり得ないこと」だけど……。







ビデオテープの整理をしていた。あとは、網戸のシートを買って、網戸ではなくて、網をはろうかと思っている。戸ではないけど、ゆるめにはって、内側から、小さな戸を開けられるようにする。物置みたいなところなんだけど、そういうふうに改造しようかな?







あとは、洗濯をした。







どうなるかな? ヘビメタ騒音でくるしいわけよ。こっちに書いてもしかたがないわけだけど……。どこに行くのも、なにをやるのも、実はヘビメタ騒音でくるしい。なにをやっているときも頭のリソースの八割は、ヘビメタ騒音にさかれている。占領されいる。







これ、俺以外の、だれにもわからないんだよな。俺以外の、だれにもわからないことなんだよな。むなしい。本当に、どれだけやられたか。そして、「どれだけやられたか」と毎回言っている俺に対して、他の人は、あんまり言い思いを持たないわけだろ。それが、五〇〇〇日、一〇〇〇〇日、二〇〇〇〇日つみかさなってごらんよ。


これ、本当に、ヒトゴトなら、過去のことはどうしようもない」とか「暗いことを言うな」というふうに言えるわけだけど、実際、自分が五〇〇〇日以上やられて、動けなくなったらどうなんだよ? 学生時代とわかいときと、ずっとヘビメタ騒音の毎日がつづいて、人生のスタートが切れなかったらどう思うんだよ? あきらめがつくのか? やられてないから、考えられないだけだろ。やられてないから「『ゆるす!ゆるす』と言えば、ゆるせる」なんて言っているだけだろ。本当に、どれだけのことが?? これ、本当に、やったやつが、ハッピーに生きていて、自分が不幸のどん底にいて、『ゆるす!ゆるす!』なんて、寝床で何回も何回も言っている姿を想像したことがあるのか? と言いたくなる。ぼくが仮に、へんな考えにとりつかれて、ぼくになにも悪いことをしていない、あなたに石油をかけて、火をつけて、半殺しにしたとする。いや、それだけじゃなくて、こう……毒を注射器を使って注入して、動けなくしたとする。一生、だるくて動けないという障害を背負うことになったとする。それで、本当は、好きな女子とつきあって、好きな学問をして、自分の才能を生かせる研究するということができたのに、できなくなってしまったとする。そして、好きな女子が去って、自分の病室で、横になっていたとする。何年間も何年間も。まあ、病院にはいれないかもしれないけど……。病院にずっと入院してたとする。その場合「ゆるすゆする」なんて言って、ゆるせるのか? 一人で病院ベットの上で「ゆるすゆるす」と言って、それで、ゆるせるようになるのか? 自分のことはそういう目に遭わせた『ぼく』君が、反省して、刑務所から出てきて……元気に暮らしていたとする。あるいは、未成年のときそういうことをしたとする。まあ、ともかく、やった本人は、やったことに関係なく、元気なんだよ。それで、普通に女とつきあって、結婚して暮らしてたとする。やった人は幸せに普通に暮らしているということを話しに聞いたとして、それであなたは、平気なのか? あなたは、一人で「ゆるすゆるす」と一日に何十回も、何百回もベットの上で言って、満足なのか?



しかも、これ、なんて言うのかな? スピ系の人や常識的な人?は、「やみおちした」なんて言うんだよ。自分を守りたい人は、怒っている人から離れたいと思う。自分を守りたい人は、自分には関係がない人をうらんでいる人を、遠ざけたいと思う。それは、人間の本能みたいなもので、しかたがないところがある。けど、「ゆるすゆるす」と言いながらも、どうしてもゆるせない気持ちを持っているあなたのことを、他の人が「やみおちしている」とかのんきに言ったら、あなたはどう思うのか? 「知りもしないくせに」と思わないか?

2018年10月3日水曜日

ヘビメタ騒音をどうにかしたかった

つかれているのに眠れないので、やばい精神状態になっている。

つまんない。



今日はもうだめなのがわかっているのだけど、眠れない。

まあ、散歩がてらに買い物でもしてきたほうが良いのではないかと思うけど、外に行く気かしない。



やっぱり、昨日の睡眠があんまりよくなかったんだな。



やっぱり、他の人にはない、ヘビメタ騒音でめちゃくちゃだ。こんなのはない。あれ以来、つかれたままだ。ずっと、地獄だ。一度も救われた気分になったことがない。



まあ、ここに書いてもしかたがないか。



ヘビメタ騒音をどうにかしたかった。
ヘビメタ騒音をどうにかしたかった。
……それだけなんだ。これ、気違いヘビメタ騒音に毎日 何年間も何年間もたたられたことがない人には、わからない。根本からわからない。だから、俺がへんなことを言っているように思うのだろう。けど、俺はやはりくるしい。ヘビメタ騒音でくるしい。いまも、ヘビメタ騒音でくるしい。

ここには書けないのだけど……。小説あつかいにする必要があるからな……。フィクションあつかいにしないと書けないことがある。

ともかく、他の人にとっては、過去の出来事なんだろうけど、ぼくにとってはそうじゃない。それは、過去の出来事だということを否定しているわけではない。現在に影響を与えている過去の出来事だということだ。本当に、気違い兄貴を「もやさなければ」やめさせることができなかった。他の人が過去の出来事だと言う場合は、その過去の出来事は、現在に影響を与えない過去の出来事だと言っているんだよ。だから、「こだわる必要がない」ということになる。けど、やけどでたとえると、小さなやけどと大きなやけどの違いがある。小さなやけどは、治ってしまうだろ。けど、大きなやけどは、跡が残る。かりに、上半身全部にやけどの跡が残ったらどうだよ? それは、その人の気持ちにずっと影響を与えないか? 全身やけどの場合は、死んでしまうだろうけど……全身やけどに近いやけどをした場合であって、なおかつ生き残った場合、やけどの跡は、小さなやけどのようにきれいに治ってしまったりしないわけだから、気にすることはあると思うな。「過去の出来事にすぎない」と言う人は、そういうことを完全に無視して、「過去の出来事なのだから現在に影響を与えるはずがない」という信念を言っているんだよ。そして、「自分だってやけどをしたことがある」ということを言う。その人が言う「やけど」というのは、小さなやけどなのである。だから、「いま現在」気にしないのは、あたりまえだ。けど、「やけど」はやけどだ。「騒音」は騒音だ。だから、おなじだという立場に立つ。前から言っているけど、可逆的か不可逆的かということが重要なんじゃないかなと思う。あとは、「期間の長さ」だ。やられた期間の長さ。どうして、やられた期間の長さを無視してしまうのか。一〇代のあいだずっと毎日やられたことが……一日に何時間も何時間も……やられたことが、影響を与えないわけがないだろ。二〇代前半までずっと毎日やられたことが人生全部に影響を与えないはずがないだろ。どういう了見で、「過去のことは過去のことだから、現在には一切合切関係がない」などということを言っているのか、俺には見当もつかないね。そりゃ、すぐに治ってしまう小さなやけどなら、俺だって、こだわらないけどな!

そういうことではないと、ずっと言っているのに……。そうじゃないと、ずっと言ってるだろ。

2018年10月2日火曜日

「相手をかえるのではなくて、自分がかわるしかない」などと言う人


   *   *   *



いまも鳴っている時間だ。時間帯だ。過去、ずっと毎日鳴っていた時間帯だ。兄貴がどれだけ俺の足を引っぱったかわからない。気違い兄貴が、となりの部屋で、囲碁に夢中になっているのであればまったく問題はない。けど、人が怒鳴る声より何十倍も何百倍もデカイ音でヘビメタを鳴らすことにこだわって、ヘビメタを鳴らしていた。人が怒鳴る声よりも何十倍も何百倍もデカイ音でエレキギターを鳴らしていた。ヘッドホンをすれば良いのに、ヘッドホンをすると「感じが出ない」という理由で、入試の前日だろうが、すべての時間、そので買い音で鳴らすことにこだわりつくて、鳴らす。気違い兄貴は、「ゆずってやったつもり」があるらしいのだけど、そんなのは、うそだ。気違い親父の譲歩とおなじなんだよ。まったく意味がない譲歩だ。そういう意味がない譲歩をされるとこっち(やられたほうが)こまるんだよ。腹が立ってしかたがない状態になるんだよ。ずっと鳴っているわけだから、ずっと気になる。気違い親父は、親父と接触している時間だけ、腹立たしいわけだけど、気違い兄貴派の場合は、気違い兄貴と接触している時間だけではなくて、気違い兄貴が鳴らしている時間はすべて腹が立つ。その腹が立つというのは、「音がうるさいから」だけでなく、「親父のような、そういう態度で鳴らしているから」腹が立つのだ。そういう態度というのは、本当はゆずってないのに、ゆずってやっていると思って、頑固に、デカイ音で鳴らしているにもかかわらず、デカイ音で鳴らしていないと思っている態度だ。ともかく、兄貴の場合は、親父と接触した時間しか、腹が立たない状態なのだけど、俺の場合は、ちがう。それは、兄貴がやったことが、壁を突き抜けてくる騒音を鳴らすということだからだ。親父と接触して腹が立っても、親父が視界から消えれば、それで、いちおうは「現在進行形で腹が立つ原因」はなくなる。これが、本当は、気違い親父に一〇分間接触してしまうと、一日中、腹が立って腹が立ってしかたがない状態になってしまうのだけど、気違い親父の場合は、そのあとずっと、騒音という、物理攻撃をしてくるわけじゃない。そこがちがう。壁で姿は見えなくなっているけど、そういう気違い的な態度で、自分の言っていることを否定したやつが、こだわりつくして、激しくでかい騒音を鳴らしているのだから、腹が立った状態というのが、ずっと続くことになる。これ、ヨソの人は「他人は思い通りに動かない」というようなことを言うわけよ。だから、「相手をかえるのではなくて、自分がかわるしかない」というようなことを言うわけよ。それは、一理あるのだけど、絶えず物理攻撃を受けている場合はちがう。それから、頭がおかしい人が世の中に入るわけで、その頭のおかしい人にやられている場合はちがう。そして、その頭のおかしい人が「家族」である場合はちがう。実際に、「相手をかえるのではなくて、自分がかわるしかない」というようなことを言う人は、気違い的な家族から毎日毎日、何時間も何時間も物理攻撃を受けてきた人ではない。だから、そういうところで「よゆう」がある。はなから、話していることがちがうのである。これも、本当に、ヨソの人にはわからない。気違い的な人……特に家族が、どういう態度で、やるか、ヨソの人にはわからない。「うち」のなかで、気違い的な家族がどういう状態で自分の意地を押し通そうとするか、ぜんぜんわかってない。どういう態度なのか、わかってない。どういう状態なのかわかってない。だから、キレイゴトを言える。この「相手をかえるのではなくて、自分がかわるしかない」というのは、キレイゴトだ。しかし、なんて言うのかな? そういうことを言う人のほうがうける。そういうことは、キレイゴトだと言うひとよりも、そういうことを本当にそうだと思って言う人のほうがうける。そういう人たちは、精神病質者の無視がわかってない。そういう人たちは、精神病質者の意地がわかってない。本当に現実を全否定だからな。「やったってやってない」だからな。どれだけ言われても、気にしない。気にしないとなったら気にしないわけで、本人が怒ってしまったら、どれだけ言ってもつうじない。この「つうじなさな」が尋常じゃないんだよ。そういうことが、本当にはわかってない。どうしてかというと、そういう家族が実際には、いなかったからだ。俺の兄貴や親父のような人にたたられながら……「相手をかえるのではなくて、自分がかわるしかない」などと言う人がいたら、その人は、人じゃなくて、神様か天使だ。あるいは、自殺してしまう人だ。本当に、人を自殺に追い込むようなことを、軽く言うな。本当のことがわかってないから言えるだけなんだよ。こんなの……。わかってたら、絶対に言えない。家族が精神病質者で、その精神病質者が異常なこだわりで、ヘビメタをデカイデカイ音で鳴らしている場合は、そんなことは、言えない。口が裂けても言えない。そういうことを言うこと自体……がどれだけひどいことかわかっている。そういうことを言うこと自体というのは、どういうことかというと、そういう尋常じゃない家族にやられている人に向かって「相手をかえるのではなくて、自分がかわるしかない」と言うことだ。こういう人たちは尋常じゃない家族にやられている人を追い込む。もちろん、そういうつもりはないのだろう。けど、追い込む。もともと、そういうことを言う人たちは、精神病質者が家族の一員であった場合というのを、想定してない。ただ単に「意見が違う健常者」しか、想定してない。ぜんぜんちがう。

それから、もうちょっと言っておくと、そういうことを言う人は、相手をかえようとしている。もちろん、かわるかどうかはわからないけど、かえようとしている。「相手をかえるのではなくて、自分がかわるしかない」などと言って、相手の考えをかえようとしている。あるいは、相手の行動をかえようとしている。もちろん、わからなかったら、そのままなんだろうけどさ。相手というのは、「相手をかえるのではなくて、自分がかわるしかない」などと言うときの相手だ。「相手をかえるのではなくて、自分がかわるしかない」とAさんに言っているときは、Aさんが相手だ。

2018年10月1日月曜日

「認識」の差がもたらすもの


俺は、だるいままだ。

けっきょく、ここ一年で、一日ぐらいしか、「からだの調子がいい」状態が続かない。一日しかない。そりゃ、できれば、調子がいい状態のほうがいいけど、本当につかれてだるい。



ヘビメタ騒音を経験したあとのだるさは、異次元のだるさだ。他の人にはわからない。「つかれ」と言っても、「つかれ」の種類が違う。「だるさ」と言っても「だるさ」の種類が違う。

他の人にはわからないんだよな。わからないところで、ものを言う。常識にあわせてものを言う。そうなると、ぼくは、侮辱されたと思うわけ。それは、根拠がある。ヘビメタ騒音でソウナッテイルのに、ヘビメタ騒音を経験してない人が、経験してない状態で、経験した俺に、だめ出しをするわけだから、腹が立つ。わかるかな? わかんないだろうなぁ。すべては、ヘビメタ騒音の負の効果がどのくらいあるかということに関する「認識」の差がもたらすものだ。


2018年9月30日日曜日

一〇〇億円、持っているとして、それでやりたいことはなにか?

いま、一〇億円、持っているとして、……それでやりたいことはなにか?

一〇億円だとちょっと不安か?? じゃ、一〇〇億円、持っているとして、それでやりたいことはなにか?



こういう質問、よくあるじゃない~~~

あるよね~~~



もし、この先生活するのに十分な金を持っていたとして、それで、やりたいことはなにか? それが、あなたの本当にやりたいことだ!



とか。



俺の場合、どうしても、ヘビメタ騒音という人生上の経験がものを言ってしまう。こういう質問の場合でも、ヘビメタ騒音にたたられた人生だと、普通の人が答えるようなことを答えられないのである。そして、ぼくがやりたかったことというのは、ヘビメタ騒音なしで小六、中学三年間、高校三年間、大学四年間をすごしたかったということなので、架空の話になってしまう。で、たとえば、十分な金があるにしろ、やりたいことというのが、全部、気違いヘビメタ騒音の影響があるので、たいして、やりたくないことなのである。まず、時間をさかのぼらせる必要があるのだけど、そんなのは、いくら金があっても、可能じゃない。だから、一四年ヘビメタ騒音でボロボロになったからだ……一四年ヘビメタ騒音でボロボロになった精神で、やりたいことというのは、全部、ヘビメタ騒音に汚染されたものであって、……本当の意味では、「いきいき」してない。半分以上、死んでいる。どれだけ金があっても、半分以上、こころが死んでる状態でやることなんて、楽しいわけがない。実際、楽しくない。さすがに、一〇億円はないけど、たとえば、一日に一〇万円使って楽しい?と思えることをやるとする。まあ、死ぬつもりであれば、一日に一〇〇万円でもいい。……それが、楽しいか? 楽しくない。思いつくことは全部、ヘビメタ騒音に汚染されたなかでやることになる。ヘビメタ騒音の影響下でやることになる。全部、カビが生えている。全部汚染されて、くるしいものになっている。「楽しく、はめをはずしてやりたいこと」と言っても、むなしく感じるだけだ。普通の人には、そういうことじゃない、やりたいことがあるのだろう。一〇億円あれば、解決する問題があるのだろう。まあ、当時一〇億円あれば、完全に解決してたけどな。俺は、どこか他のところに住めば良かったわけだから。小学六年生だからいろいろと問題はあるだろうけど、「絶対に一分も静かにしない状態」で鳴らしているのだからしかたがない。気違い兄貴は、気違い親父モードで、ヘビメタ騒音の影響を完全に無視してたけど、ヘビメタじゃない音が……家に帰ってきたら……ずっと、あの音のでかさで鳴っているということが、どういうことなのか、経験してみればいい。これ、普通の人だと、親父のことがわからないように、兄貴のこともわからないんだよな。「絶対に一分も静かにしないで、自分がやりたい音で鳴らし切る」ということに、どれだけの意地がかかっているか、わかってない。そんなの、ちょっと注意されたぐらいで、静かにするわけがない。何万回、何十万回、強く、激しく注意されたって、わかるわけがない。だいたい、他の人は、ちょっと注意されても静かにしないなら、強く注意すればいいと思っているみたいなんだけど、強く注意すればするほど、意地を張って静かにしないのである。で、ここが他の人にはわからないところなのだけど、「意地張って静かにしない」という認識がまったくないのである。兄貴には、そういう認識がまったくない。実際には、明らかにそういう反応を返しているのに、そういう反応を返しているというつもりがない。つもりがないということは、やってないということだ。やってないことを、気にするわけがない。一巡したけど。強く、何回も注意されたら、不機嫌になって、怒って、頑固にやるのである。強く、何回も注意されたから、静かにしてやろうなんて、まったく思わない。強く言われれば、言われるほど、頑固になって、やる。絶対の意地でゆずらずにやる。絶対の意地は、実は、言われない状態でもある。つねにある。けど、強く言われれば言われるほど、それが表面化する。けど、表面化したって本人は、本人のそういう感情についてまったく、関知しないわけだから、本人としてはいつまでも「そんなつもりはない」ままなのである。本人はいつまでも「(自分は)そんなんじゃない」と思っている状態が、成り立つ。何万回、意地を張って、頑固に迷惑行為をしても、相手が「うち」の家族なら「まったくやったつもりがないまま」なのである。

これ、常識的な他人が、俺の話を聴いて「そんなのは、注意すればいいのに、注意しないからだめなんだ」と思うわけだけど、俺は注意した。何万回、強く注意したかわからない。そのたびに、気違い兄貴は、気違い親父とおなじ反応を返してきた。気違い兄貴は、親父に一回でも「やられれば」それがどれだけ腹が立つことか、わかるのに、自分は、何万回も何十万回もおなじことを弟にして、わからない。親父のようにわからない。


2018年9月28日金曜日

八時間気違い的な音にさらされ続けるということ

いま、幼稚園は通常運行で、ガキどもは騒いでいるけど、問題はない。太鼓は、きつい。しかし、こまったな。ヘビメタ騒音。

起きたときのアノカンジはない。あれはない。「別人化」……6年で「別人化」。人間である以上無理なんだよ。けど、他の人は「経験したことがないから」好き勝手なことが言える。そして、その好き勝手なことが正しいと思っている。それは、やられてないことをベースにした感想だ。単なる感想。間違っている。

起きたとき、本当にくるしかった。ヘビメタ騒音思い出がくるしい。だれもわかってくれないな。わかるはずもないけど……。にしても、これを俺の問題だと思うやつらは、ゆるせない。俺の問題というのは俺の側の問題だと思うということだ。ちがうから。俺の側の問題というのは、「こだわるからだめなんだ」というような感じで俺の側の問題にするということだ。そういうことじゃない。俺じゃなくても、実際におなじことをやられれば……一四年間も毎日やられれば……成長期に一四年間もずっと毎日やられれば……おなじことになる。たぶんだけど、俺はまだ増しで、騒音耐性がある方だ。強い方だ。体力的にも、能力的にも、精神的に強い方だ。強い俺がこうなってしまうほどの効果があったということだ。たぶん「こだわるからだめなんだ」などというやつは、一年ぐらいで、自殺していると思う。あるいは、本当に自殺未遂をして、自分で残した傷ができていると思う。この傷というのは、物理的な傷だ。簡単に考えやがって。俺の性格が暗いから気にしている……というような考え方をするやつらがいる。俺が騒音に弱いからだめだったんだというようなことを考えているやつらがいる。ゆるせない。



本当に毎日、がんがん鳴る騒音のなかで二一時間ぐらい、ものすごい勢いで働いているような状態なんだよな。三時間ぐらいしか、寝れない。二一時間働いている人は、働いているからいいわけで、俺は騒音のなかでくるしんでいるだけだ。その騒音の効果がすごいのである。実際には二一時間鳴っていたわけじゃない。そうだなぁ……。八時間鳴っていて、あとの一三時間は、ただ単に、働いているだけでいいよ。けど、損なのが、毎日何年間も本当に休みなく、続いたらどうなってしまう? 八時間気違い的な音にさらされ続けるということは、本当に、体力的に、能力的に、精神的に影響を与える。八時間やられたあとの一三時間の労働がどれだけこたえるか? 毎日、毎日。本当にちがうんだよな。二一時間、ただ単に働くことと、八時間気違い的な騒音にたたられて作業をし続けたあと、一三時間作業するというのとはちがう。八時間やられてた場合の、残りの時間のつらさがちがう。本当にちがう。やられてないやつは、わかってないだけ。しかも、一日だけそうだったというのであれば、ずっとうらんでいるなんてことはないけど、ずっと毎日、やられたんだぞ。中学三年間、高校三年間、フルに……本当に毎日やられた。日曜日も祝日もずっとやられた。高校を卒業したあともやられた。中学に入学する前もずっとやられた。起きたとき、本当にくるしかった。ヘビメタ騒音思い出がくるしい。だれもわかってくれないな。わかるはずもないけど……。にしても、これを俺の問題だと思うやつらは、ゆるせない。俺の問題というのは俺の側の問題だと思うということだ。ちがうから。俺の側の問題というのは、「こだわるからだめなんだ」というような感じで俺の側の問題にするということだ。そういうことじゃない。俺じゃなくても、実際におなじことをやられれば……一四年間も毎日やられれば……成長期に一四年間もずっと毎日やられれば……おなじことになる。たぶんだけど、俺はまだ増しで、騒音耐性がある方だ。強い方だ。体力的にも、能力的にも、精神的に強い方だ。強い俺がこうなってしまうほどの効果があったということだ。たぶん「こだわるからだめなんだ」などというやつは、一年ぐらいで、自殺していると思う。あるいは、本当に自殺未遂をして、自分で残した傷ができていると思う。この傷というのは、物理的な傷だ。簡単に考えやがって。俺の性格が暗いから気にしている……というような考え方をするやつらがいる。俺が騒音に弱いからだめだったんだというようなことを考えているやつらがいる。ゆるせない。

本当に毎日、がんがん鳴る騒音のなかで二一時間ぐらい、ものすごい勢いで働いているような状態なんだよな。三時間ぐらいしか、寝れない。二一時間働いている人は、働いているからいいわけで、俺は騒音のなかでくるしんでいるだけだ。その騒音の効果がすごいのである。実際には二一時間鳴っていたわけじゃない。そうだなぁ……。八時間鳴っていて、あとの一三時間は、ただ単に、働いているだけでいいよ。けど、損なのが、毎日何年間も本当に休みなく、続いたらどうなってしまう? 八時間気違い的な音にさらされ続けるということは、本当に、体力的に、能力的に、精神的に影響を与える。八時間やられたあとの一三時間の労働がどれだけこたえるか? 毎日、毎日。本当にちがうんだよな。二一時間、ただ単に働くことと、八時間気違い的な騒音にたたられて作業をし続けたあと、一三時間作業するというのとはちがう。八時間やられてた場合の、残りの時間のつらさがちがう。本当にちがう。やられてないやつは、わかってないだけ。しかも、一日だけそうだったというのであれば、ずっとうらんでいるなんてことはないけど、ずっと毎日、やられたんだぞ。中学三年間、高校三年間、フルに……本当に毎日やられた。日曜日も祝日もずっとやられた。高校を卒業したあともやられた。中学に入学する前もずっとやられた。俺の、メンツが立たない。ゆるせない。

2018年9月27日木曜日

微妙なサインを読み取る能力というのは、だれもが、努力すれば身につけることができるのだろうか?

相手が表情や微妙な体の動きや不明瞭な言葉で、なんらかの意思をしめそうとしたとき、その意思をうまく読み取れる人と読み取れない人がいる。

たとえば、健常者の母親のなかにも、赤ちゃんが出しているサインを読み取れない母親がいる。まったく読み取れず無関心なタイプと、読み違いをするタイプのふたつのタイプがある。赤ちゃんが出しているサインを読み取るのが苦手な母親もいるということは、おぼえておかなければならない。そりゃ、母親ならみんな、赤ちゃんが出すサインをちゃんと読み取ったほうがいいわけだけど、そうじゃない母親もいる。

問題なのは、明確な言葉によるサインではなくて、表情や微妙な体の動きや不明瞭な言葉によるサインだということだ。もともと、読み取ることが不得意な人は、練習をしても「表情や微妙な体の動きや不明瞭な言葉によるサイン」を正確に読み取ることができないかもしれない。


だれもが、注意を向ければ、不明瞭なサインしか出さない人の「意図」を正確に読み取ることができるのだろうか? 健常者であれば、注意を向ければ不明瞭なサインしか出さない人の「意図」を正確に読み取ることができるのだろうか?

健常者でも、不明瞭なサインを正確に読み取ることができない人は、いると思う。それは、赤ちゃんの不明瞭なサインを読み取れない母親がいるということから類推できる。

根性論や努力論に傾倒している人だと、練習をすれば、健常者ならだれでも、不明瞭なサインを読み取ることができるようになるというような前提でものを言ってしまうことがある。

たとえば、障害者の介護をする人は、障害者が出す不明瞭なサインを、読み取ることができるのだろうか? ということを問題にせずに、「できるに決まっている」という前提でものを言ってしまうのである。

不明瞭なサインであろうとサインは出しているのだから、そのサインを読み取るのは介護者の責任だろということだ。しかし、練習しても不明瞭なサインを明確に読み取れない人は、相当数いると思う。

たしかに、良い方法で練習すれば、多少は改善されるのかもしれない。しかし、良い方法で練習しても、根本的には少しも改善されない場合があるのではないかと思う。その場合、「根性論や努力論」を前提にして、あれこれ言うのは、良くないことなのではないかと思う。

もし、根性論や努力論が正しいのであれば、自閉症スペクトラム障害の人なんていないことになってしまう。良い方法で練習すれば、他人のサインを読み取ることができるということになってしまうのだから、自閉症スペクトラム障害の人ではなくなってしまう。また、知的障害者だって、良い方法で練習すれば、知能が高くなって、知的障害者ではなくなるのである。

それをしないのは、自閉症スペクトラム障害や知的障害者が努力不足だということになってしまう。良い方法で練習すれば、「克服」できることなのに、そういう努力をしないから、だめなんだということになってしまう。これは、ぼくが考えていることではなくて、「根性論や努力論が正しい」という前提に立つと、そう考えるしかないということになるということだ。

健常者のなかにも、サインがかなり不明瞭なサインである場合、読み取れない人がいると思う。そして、そういう人たちは、かなり明瞭なサインを読み取れない障害者とおなじで、良い方法で練習をしても、かなり不明瞭なサインは読み取れない状態にとどまるかもしれない。

健常者にも、各分野ごとに「健常者スペクトラム」のようなものがあるのではないかと思っている。要するに、健常者といっても連続的に、その分野のことが得意な人から不得意な人が存在しているのではないかと思う。

その分野というのは、たとえば、今回の場合は「かなり不明瞭なサインを読み取る分野」だ。分野ごとに、得意と不得意があるのではないかと思う。その場合、「健常者なのだから」練習をすれば絶対にできるようになるはずだと考えるのは、問題があるのではないかと思う。それを前提にしてしまうと、その人の「努力不足」をせめることになる。

障害者と健常者のふたつの値(二値)しか考えないでものを言うのは、やめたほうがいいのではないかと思う。おのおのの分野に得意な人と不得意な人がいると思ったほうがよいのではないかと思う。さらに、得意な人と不得意な人というような二値思考を避けて、得意さの程度、不得意さの程度が人格とあわさったかたちで、連続的に存在しいてると考えたほうがよいのではないかと思う。

   *   *   *

努力論という言葉をどういう意味で使っているかというと、ここでいう努力論というのは「がんばって練習をすればどんなことでもできるようになる」というような考え方のことだ。要するに「努力すれば、なんでもできる」という考え方のことだ。


根性論も、おなじだ。

しかし、根性論の場合は、根性が重要になるのである。「努力すればなんでもできるようになる」という意見に対して「できない場合がある」という反対意見が出た場合、「根性でやればできるようになる」と考えるのが根性論者だ。努力論者にしても、努力すればなんだってできると言っているのであって、根性論者とおなじなんだけど、まあ、根性論は努力論のパワーアップ版と言ったところか。

まあ、使い分ける必要はないか?


「根性でやればできる(根性を出せばできる)」と「努力すればできる」の差でしかない。


「努力すればできる」のであれば、そもそも、知的障害者や精神障害者はいないということになる。そういう人たちは「努力」がたりないだけだということになってしまう。「努力すればできる」ようになるというのは、間違った考え方だと思う。


   *   *   *

ところで、介護者はすべて、かなり不明瞭なサインを出す人の意図を正確読み取るべきだというような障害者福祉的な「べき論」と、俺の実の兄や実の父親の、どんな明確なサインも頭ごなしに否定して反対のことを叫ぶというような実態にどれだけの差があると思っているんだよ。「実の兄」が普通の人が想像することができないような意地で、普通の人が想像することができないような態度で、ヘビメタを鳴らすことにこだわっていたとき、兄は健常者として認知されているんだぞ。いまだって、そうだけど。「うち」での態度と「よそ」での態度がちがうから、「よそ」では発覚しないだけだ。案外、障害者福祉的な「べき論」を展開するやつが、兄や父親のような性格の人がいるということを認めなかったりするんだよな。そういう人は、障害者施設に入っているはずだと決めつけている。けど、本当にそうなりますかね? と言っておきたい。


2018年9月26日水曜日

だれの現実認知がゆがんでいるのか?

相手の言っていることをちゃんと理解して、反論しているわけではないのである。しかし、相手が「自分に文句を言ってきた」という不快感だけはある状態なのである。だから、「そんなんじゃない」と絶叫して否定したり、無視して押し黙っている状態でテーブルを離れれば、それで、なにもなかったことになってしまうのである。だから、どれだけ言われても、「そんなの知らなかった」と言える状態なのだ。で、「そんなの知らなかった」というのも、相手が言っていることの否定であるわけで、構造が似ている。「そんなの知らなかった」も、よく理解しないまま、ともかく、条件反射のように否定しているだけなのである。これは、「現実」を無視して、ともかく、条件反射のように否定している状態で、相手が言っていることをちゃんと一度は受けとめて、そのあとに否定するという態度ではない。いちおう、文章としては相手の言っていることを理解した!のだろうけど、それは、現実の自分の行為とは一切合切関係がないことなのである。そして、なんとなく!自分に文句を言ってきたというレベルでしか理解しない。理解は「なんとなく」なのである。もちろん、「文字列」「言葉」の意味は「不快になった」という意味で、理解しているのである。しかし、自分に結びつけて理解しているわけではないので、ただ単に、言葉として否定して終わりなのである。「やった」と言われたら「やってない」と否定したら、本人のなかではそれで済んでしまった状態になっている。だから、そのあと、その行為をやっても、まったく問題を感じないのである。言われてないのとおなじ状態で、やり続けることができる。その当の行為を「やった」と言われて、「やってない」と否定した直後にその行為を「頑固に意地になって」やったとしても、本人のなかでは「やってない」のとおなじなのである。これ、本当に、説明しにくいけど、本当に現在進行形で「やったってやってない」が成り立っている状態なのだ。だから、どれだけ言ったって、やめないし、「問題だ」と思わない状態が成り立つ。どれだけ、「家族に」言われても、「そんなのは知らない」状態でやり続けることができる。言われなかったんじゃなくて、気にすることが一切合切できなかっただけなのだ。怒った!ということは、言葉の意味だけは理解しているはずなのである。しかし、その「理解」というのが「ただなんとなく」「不愉快なことを言われた」というような「理解」でとどまってしまうのである。普通の人が理解できるような言葉を使うと、自分には関係がないことで文句を言われたという状態になってしまうのである。本当は、本人の行為に対する文句だから、本人は関係があるのだけど、本人の関係(本人の関与)を認めるということができない。本人の関係(本人の関与)を認めるとなると、「対処してやらなければならなくなる」のである。それは、可能性としても絶対に、避けなければならないことなのである。どうしてかというと、現実を無視して、自分がやりたいことをやりたいからだ。「ちゃんと言われた」という現実を無視してしまうのである。また、「やった」あるいは「やっている」という現実を無視してしまう。だから、言葉自体は理解できるけど、それは、ちゃんと、「やった」ということを認めて、理解しているわけではないのである。親父と兄貴は、常にそういう状態なんだよ。自分にとって、不都合なことを言われたら、常にそういう反応を返す状態なんだよ。だから、いついかなるときに言っても、(本人にとって不都合なことであれば)条件反射のように否定して、それで、終わってしまう。本人のなかでは、それで済んでしまう。その場合、単に無視した場合でも、否定した言葉を絶叫した場合でも、おなじなのである。単に無視した場合も、否定した言葉を絶叫した場合でも、本人が「怒ったら」それで、本人のなかではすんでしまう。「そんなんじゃない」つもりになれる。それでまた、こういうしくみが成り立っているということが、「ヨソの人」にはわからない。「うちなかで」だけ、そういうことが、何千回も何万回も繰り返されたとしても、実際にそういう場面を見てないヨソの人には、実感としてわからない。事実そういうことがあるということが実感としてわからない。事実そういう人がいるということが、実感としてわからない。「うち」のメンバーなのかで「やられた人」がヨソの人に説明すれば、ヨソの人は「そんなこと、あるのかしら」と思って信じない場合が多い。説明しても、半信半疑のままだ。で、本人……そういうことをやっている本人じたいが「ヨソの人」よりも本人の行為について理解してないというところがある。だから、何万回言っても、そのまま続く。別に、「罪悪感」なんてうまれない。家族のひとりが「やめてくれ」「やめてくれ」と毎回絶叫していることをやり続けても、なんと思わない状態が発生する。



「やられた人」というのはその都度ちがう。親父が妻、長男、次男に対してやった場合は、妻、長男、次男が「やられた人」になる。兄貴が、俺にやった場合は、俺がやられたひとになる。兄貴は、親父にはやられた人間だけど、俺に対しては「やった」人間だ。親父とおなじやり方で、のちに本人が否定するようなことを、頑固にやり切る。後に本人が否定するようなことと書いたけど、やりきるときとおなじ頑固さで否定する。だから、「現場を見てない第三者」にとっては、どっちが本当のことを言っているのか、わからないということになる。そして、「やったこと」がもしそれが本当なら異常なことなのだから、「そんなのはないんじゃないか」と思うようなところがある。異常なことを異常なやり方でやるんだよ。そして、一番、異常なのは「本人にそのつもりがない」ということだ。あれだけ、頑固にやったことなのに、「つもりがない」とか、本当に頭がおかしい。これ、本当に言いがたいんだよ。認知症じゃないのに、つもりがない。「やった」という記憶が、本人はないことになっている。本人の言っていることを信じるとそういうことになる。これ、最初から、否定されていることで、やったってやってないことなんだよ。で、起きているときにやっていることなんだよ。夢遊病者じゃない。また、酒を飲んで記憶がないという状態でもないんだよ。そのとき、否定しているのは、現実と、自分の関与なんだよ。これが、吹っ飛んでいる。現実認知と自分の関与に関する認識が吹っ飛んでいる。だから、過去のことになってしまえば「やってないない」「やってないない」と言い張ることができる。何回も言うけど、「やってないない」「やってないない」と言い張る態度が、「やりたいとき」のやりきる態度とおなじなのである。現実認知が吹っ飛んでいる。相手にとっての意味合いが吹っ飛んでいる。そんなのは、端から認めないから、どれだけ言われても、「言われた」ということにすらならない。

2018年9月25日火曜日

これからどうするかな?


これからどうするかな?



午後一一時五九分。こんな時間に起きてしまってよいのかどうかわからない。夢をまた見た。風呂のことで、気違い兄貴をなぐろうとしているところで目が覚めた。







オウム返しに正反対のことを怒鳴るのである

つまんないなぁ~~



これから、寝るよ~~







今日はなんか、図書館に行ってた頃の雰囲気だな。こういう雰囲気の日曜日、図書館に行ってたよ。あの頃は、まだ、友達とつきあってたな。けど、その時ですら、ヘビメタ騒音でめちゃくちゃなんだよ。僕のこころは。みんなわかってない。わかるわけがないか。実際にやられなければ、どれだけ、たたるかわかるわけがない。言われるのと経験するのはちがうからね。そりゃ『騒音がうるさかったんだな。それでつらかったんだな』ということはわかるかもしれないけど、ぼくが経験したのはそういうことではない。理解できることではない。実際にやられてみれば、どれだけの「しばり」になるかわかるよ。本当にゼンブガゼンブ、だめになる。これは、行きすぎた一般化なんだけど、ゼンブガゼンブと言っていいほど、だめになる。すべてにたたる。だから、かならずしも、イ・ラショナル・シンキングとは言えない。それは、生活全部に影響を及ぼすので、『ゼンブガゼンブ、ヘビメタ騒音でだめになる』というのは、真実なんだよ。わからないとは思うけど……。そして、気違い兄貴の態度が、気違い親父の態度とおなじだというのが、最大の問題だ。これは、他の人には……ヨソの人には、まったくわからないことだ。『親父の態度』事態がわからないからな。けど、気違い兄貴は、親父にやられて親父の態度がどういうものかわかっているんだよ。ただ、親父の場合、自分が気違い的な意地でやったことは、全部、やってないこととして認識するという気違い的な認識方法がある。この認識方法が兄貴にも成り立っているので、気違い兄貴が、顔を真っ赤にして、気違い的な意地でやり通したことは、本人にとっては「やってないこと」になっている。「そんなんじゃない」と認識している状態が、ずっと成り立つ。成り立っている。いまも、そうだ。やっていた当時もそうだ。やっていた当時、現在進行形で、「やったってやってない」という認識が成り立っているのだ。こんなのは、ない。そういう人が、閉鎖病棟に収容されていないということはないと考える人にとっては、俺が嘘を言っていることになる。けど、ちがうんだよね。まさしく「やってないこと」なのだけど、それは、相手に「やった」と言われたときだけそう思うことなのである。あとの時間は、「やったとかやってないとか、そういうことは、一切合切関係がない」という認知が成り立っている。だから、「やったのはやった」のだけど、「やったってやってないのとおなじ」なのである。はじめから、その通りに受け取ってない。兄貴の場合は、『本当はデカイ音で鳴らしている』のだけど、『デカイ音で鳴らしている』とは認知してないのである。親父の場合は、理由がないことで怒っているのだけど、理由がないことで怒っているとは認知してないのである。で、あとは、「認めたら、自分にとって不利なことをしなければならない」という無意識側の認知があるんだよ。だから、「自分にとって不利になることは、どんなことがあっても、認めない。認めないということも認めないというかたちで認めない。だから、いつも「そんなことはない」という認知が成り立っているのである。「デカイ音で鳴らしている」ということを認めてしまったら、音を落とさなければならないのである。そして、音を落とすのは死んだっていやなので、絶対に、「デカイ音で鳴らしている」ということを認めない。これが、意識的なレベルで起こっている場合はよいのだけど、無意識的なレベルで起こっている場合は、全体の認知がゆがむということになる。デカイ音で慣らしているあいだじゅう、本人は、本当に「デカイ音で鳴らしているつもりがない」状態なのである。意識的には!! けど、よそのうちではデカイ音で鳴らさないのだから、デカイ音だということは、わかっているのである。聴力が弱いから、デカイ音だということがわからないということではない。要するに、無意識的にはでかい音だということがわかっている。兄貴にはわかっている。

やりたいときは、やっているということを「即座に否定する」ということになる。気違い親父の「なんだって反対表現」とおなじだ。オウム返しに正反対のことを怒鳴るのである。本人は「そんなんじゃない」「そんなんじゃない」「なんだ!なんだ!」と怒り狂えば、それですんじゃっているのである。これ、本当にこまる。否定して怒鳴れば、それで、本人のなかでは終わっている。もちろん、やり通すし、これからも、おなじようにやるのだ。「やっている」ということを認めて「やらないようにする」ということは、ない。死んでもない。こういうルールが成り立っている「うち」の状態なんて、「よそ」のひとは、本当にわからない。だから、「よそ」の常識でものを言う。けど、それ(よその常識)は、「うち」では成り立たない。



2018年9月24日月曜日

けど、実際にそうしている。



まあ、アクセスのことなどは考えないで、書きたいことを書いてしまおう。書きたいことというのは「つまらない」ということだ。本当につまらない。なにもする気がしない。正直言って、体調が悪い。起きているだけで、つらいんだけど、横にっていてもつらいんだよね。とことん、ヘビメタで人生がなかった……そう思う。この感覚……この世のこの感覚……こりゃ、だめだ。どうしたって、こうなるんだよ。舞値にやられちゃったら……。毎日やられてわかいときの時間をうばわれれば……。あの、親父のような態度でやられたら……。本当に、気違い的な意地で、やりきるのに、気違い的な感覚で「やってない」と本気で思っているんだぞ。そういう毎日なんだぞ。そういう気違いが、横の部屋にすんでいて、壁のすぐうしろで、ばかでかいスピーカーが、ばかでかい音を出しているんだぞ。気違い親父とおなじで、本人がやっているのに、本人はまったくつもりがないという状態が「つねに」成り立っている。こんなの、ない。で、やることが、常識外れなんだよ。「よそ」じゃ絶対にあり得ないことなんだよ。しかも、本人はスイッチが入っていて、殺されなければ、どれだけ言われたってやるのに、本気で「やった」と思ってないんだからな。本人は「そんなの知らなかった」みたいな態度でずっとやりやがる。何万回怒鳴り込んでも、そういう態度がかわらない。
そうすると、スピリチュアルな人からも、攻撃を受けるんだよ。「現実は自分がつくっている」なんて、言ってくる。これは、間違っている。ベットで寝ている障害者が、ナイフで刺されて死ぬという事件があったけど、その刺されて死んだ障害者に関しても「現実は自分がつくっている」なんて、言うのかよ? これ、自分でひどいことをしているというのがわからないのかね?
ともかく、なんて言うのかな? 感覚がずれた人にやられると、一般の人は常識を押しつけてくるし、スピリチュアルな人は非常識なことを押しつけてくるんだよ。一般の人の常識というのは、間違った認識に立った間違った解釈だ。常識に従った解釈は、非常識な家で成り立っている現実を説明できない。だから、間違っている。間違っているけど、「関係がない」常識的な人にとっては、ちょっとだけ思ったことが、自分にとって正しいことであるわけで、ずれた「いえ」で成り立っている非常識なことをちゃんと理解しようとは思わない。動機すらない。ちゃんと理解してあげる、理由がない。自分の中にある「常識」を壊してまで、相手が言っている「へんなこと」を信じてあげる必要性がない。だから、俺が「これこれ、こうで、ちがうんですよ」と言ったあとも、常識的な人は「そんなことはない」と思っている状態が続く。で、それとは関係なしに、気違い兄貴が、気違い兄貴モードで、頑固に、絶対的な意地で、絶対的にうるさい騒音を鳴らす。デカイ音で鳴らすことにこだわりきって鳴らす。けど、気違い兄貴本人は、気違い兄貴の感覚に基づいて「デカイ音で鳴らしているつもりがない」という状態が成り立つ。毎日毎時間、ずっとそうやって、「つもりがないまま」鳴らし続ける。どれだけ「やめてくれ」と言われても、無視して鳴らし続ける。けど、鳴らしたつもりがない。ずっと鳴らしているのだけど、鳴らしているつもりがない。本人がずっと、そういう感覚を持っているのであれば、現実を無視して、ずっと、そういう感覚を持っているのである。これが、腹立たしい。親父もおなじなんだよ。大家である親父がおなじ感覚の持ち主。しかも、気違い兄貴がそういう感覚を持つことになった理由を、つくっている。何千回も、兄貴と同じようなことをした。気違い的な意地でやっているのに、本人は「まったくそのつもりがない」という感覚を持っている。これは、「感覚」だけなんだけど、持っている。そういう感覚を持っているということに関しては、無頓着なんだよ。「そんなことはない」ということになっている。本人の意識的な感覚では「そんなことはない」はずなのである。けど、実際にそうしている。

2018年9月22日土曜日

本当に人間ってなんなんだろうな?

あーしかし、本当に人間ってなんなんだろうな?

俺の騒音生活は苦しかったよ~~



人間の能力の差なんて本当に小さなものなのに、現実の社会ではものすごく、その小さな差が大きな差になって現れてしまうんだよな。というか、みんながみんな、その小さな差にこだわりつくして、大きな差だと感じてしまう。しかも、得意不得意なんて、分野によってちがうのに、その分野が絶対的な大きさで現れてしまうんだよな。目の前に現れる。そうすると、『格付け』がはじまる。これが悲惨なのは、自分以外の他人に対する格付けが、だれの頭のなかにもあるということだ。自分は「ぬき」なんだよ。自分を入れると、いろいろと問題がある。自分を入れた場合、自分を自分でバカにするというようなことがはじまる。こんなのはない。本当は、たいしたことじゃないのに、あたかも、重要なことだと思ってしまう。最重要案件になって、目の前をふさぐ。


   *   *   *

優雅な散歩に行ってくるかなぁ。
とぼとぼ、ひとりで歩くわけだけど、わりと、いいんだよなぁ。
あーー、ヘビメタ騒音がなければなぁ!!

散歩中も、ヘビメタ騒音のことで頭がいっぱいだ。というよりも、感覚として生きている。感覚として生きている。ヘビメタ騒音でつらくてつらくてたまらなかったときの感覚が生きている。『地続き』。これ、わからないだろうな。ちがうんだよ。たんなる、過去の記憶じゃないんだよ。ときどき思い出すような過去の記憶じゃない。たとえば、息を吸っているときは息を吸っているときの感覚があるだろ。あれとおなじだ。息を止めれば、一〇年前に息を止めたときとおなじ感覚があるはずだ。イップンカン息を止めようとした場合、最後のほうはだいぶくるしくなるだろ。俺は、イップンカンはたぶん無理だけど。その、くるしい状態というのは、たとえば、一〇年前にトライしたときも、おなじだろ。そういうことなんだよ。(まあ、イップンカン息を止めることにトライして死なないようにしてください。ぼくは責任、もちません)。

   *   *   *

気違い兄貴の態度で、ヘビメタ騒音を鳴らされ続けたら、だれもが、俺とおなじ状態になると思う。鳴らされたことがないから、認知療法家みたいなことを言ってられるだけだ。

これは、水俣病でもおなじなんだよ。

絶対的な差がある。絶対的な差というのは、『それでこまっている』か『それでこまっていないか』という差だ。こまっているのは、水俣病で言えば、水俣病患者だ。水俣病患者に「つらいと言うから、つらいんだ」というような言葉を投げかける人は、こまってない。こまっているか、こまっていないかが絶対的な差になる。

そして、たとえば、『つらいと言うから、つらいんだ』というような言葉が正しいか正しくないかは、関係がないのである。……こまってない人には関係がない。関係がないので、正しいか正しくないのかは、切実な問題にならない。

しかし、こまっているほうは、切実な問題になる。水俣病の場合、有機水銀が問題なので、『つらいと言うから』つらいと感じるというわけではない。

また、『つらくない』『つらくない』と言うことによって、つらくない状態になるかというと、ならない。それは、脳細胞から有機水銀が離れて体外に放出されるのであれば、つらくなくなるかもしれないけど、『つらくない』『つらくない』と言っただけでは、つらくない状態にはならない。

しかし、『つらくない』『つらくない』と言ったことによって、言った後、ちょっとあいだは『ちょっとは楽になった』と感じることはあるかもしれない。けど、長い目で見れば、その効果は、ないに等しい。

やはり、有機水銀の問題をどうにかしないと、楽にならない。だから、『つらくない』『つらくない』と言うことでは、根本的な問題解決にはならない。ちょっとだけ、『つらくなくなったような感じがする』と感じることがあるもしれないけど、それは、有機水銀の効果にくらべて小さい効果だ。

ここらへんが、ガンとはちがうのである。ガンは、時間の問題できれいになくなる(治る)場合がある。『治る治る』と言わなくても、治る場合がある。けど、ガンであることがわかってから、『治る治る』と言って、実際にガンが治った場合は、『治る治る』と言った「から」治ったのだと考える人が出てきても不思議ではない。ガンの場合は、わりと、可逆的な変化なのだ。

いっぽう、有機水銀のほうは、かなり不可逆的な変化で、『治る』『治る』と言っても治らない。しかし、一般には、ガンのほうが重い病気として認知されているので、ガンですら治るのだから、他のどんな病気だって治ると、思われてもしかたがないようなところがある。

これは、間違った推論なのだけど、そういうことを言う人は、そういうことを気にしないだろう。指摘されても、たぶん、納得しないと思う。「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」というのは、科学的な問題ではなくて、宗教的な信仰の問題だからだ。

話を元に戻そう。実際に水俣病で苦しんでいる人にとっては「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」ということが、正しいか正しくないのかは、重要な問題だ。

しかし、水俣病にかかってない人にとっては、「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」ということが、正しいかどうかは、関係がない。現実とは関係なく、その言葉が成り立ち続ける。特に、自分のことではなくて、他人のことであるならば、なおさら、そうなる。

現実を無視して!!「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」ということを信念として言いまくるということができる。現実を無視して、だれにでもその言葉を本気で投げかけることができる状態を維持できる。そりゃ、本人はいたくもかゆくもないのだから。

水俣病になっている人にとっては、「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」のか、治らないのかは、重要なことだ。常に、苦しみから解放される『解』を求めているのである。「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」という解が正しい解なのか、間違った解なのかは重要な問題だ。そして、残念なことに、「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」という解は間違った解だ。

しかし、水俣病でくるしんでいる人は、ワラをもつかむ状態なのだ。溺れている状態なのだ。だから、「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」という「ワラ」をつかんでしまう。しかし、それは、くるしんでいる人を救ってくれない。間違った解だからだ。水俣病に限らず、わりと、不可逆的変化が関係している場合は、『治る』『治る』と言っても、治らない場合が多い。

だいたい、「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」と言っている人は、この世に病院が存在する意味がわかってない。「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」のであれば、病院なんて必要がないだろう。「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」のだから。

「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」と言っている人にしたって、盲腸のような激しい痛みを感じれば、病院に行くのではないだろうか。「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」のだから、「『治る』『治る』」と言い続けて、病院に行かないのだろうか。

「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」と言っている人は、虫歯になったと感じても、歯医者に行かないのだろうか。「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」のだから、「『治る』『治る』」と言うことで虫歯を治してしまうことができるのではないか。もっとも、ぼくは、そういうことにこだわって、歯医者に行かないようにするということを推奨したりはしない。だから、普段「『治る』『治る』と※言えば※どんな病気だって治る」と他人に言っている人が、歯医者に行ってもいいと思う。





2018年9月19日水曜日

『被害者意識ばっかり』という言い方

   *   *   *



そう言えば、スピリチュアルな人たちは、常日頃から『引き寄せ引き寄せ』『すべては自己責任すべては自己責任』とえらそうにブログに書いている。もし、こういう事件が起こった場合、『そういう人を引き寄せてしまったからだめなんだ』と言うのだろうか。そういう人というのは、この話で言えば『犯人』だ。ベッドの上にいる人を、一〇人ぐらい刺した犯人だ。刺された一〇人は、「そういう人を引き寄せた』から悪いのだろうか。

また、『すべては自己責任』ということを考えた場合、どういうことが言えるだろうか? 『すべては自己責任』と考える人は、刺された人の自己責任だと考えるのだろう。実際そういうふうに言っている。『すべては』自己責任なのだから。

そういう施設を選んだ人が、悪いのである。そういう施設を選んだ人の責任なのである。また、こういうふうに言う人は『人のせいにしてもしかたがない』などということも言う。

少なくてもぼくは、刺されて傷を負ったということに関しては、刺した人の行為が原因なのだから、刺した人のせいだと思う。しかし、『すべては自己責任』ということを言う人は刺された人に『人のせいにするな』と言うのである。

他人の行為に原因がある場合は、『人のせいにする』というような言い方は、不自然ではないか? 

他人の行為に原因がないのに、その他人のせいだと言う場合は、たしかに、『人のせいにするな』と言うことは問題がないと思う。しかし、相手の行為に原因がある場合は、「すべて」とひとくくりにして良いのだろうか?

『人のせいにする』というのは、そもそも、ちがった原因を設定している人のみに言われるべき言葉なのだと思う。原因があっている場合は、『人のせいにする』というのは、間違った言い方だと思う。

あとは、『被害者意識ばっかり』という言い方か。自分がなにもしてないのに、刺された場合、被害者であるのは間違いがないので、被害者意識を持って当然だと思うけどな。

これも、まるで、本当は、被害者意識だけを持つべきではないのに(もかかわらず)加害者意識を持たず、被害者意識だけを持っているので、「けしからん」という抗議の気持ちがこめられた言葉なのである。加害者意識というのは、実は、過去の文脈を問題にしているのである。ようするに、被害者側が、加害者側に過去において、不適切なことをしたというような意味がこめられているのである。

それであれば……被害者になった人が、加害者に対してなにがしかの悪いことを、過去において、しているのであれば……被害者意識だけを持つのは、不適切なことだと思う。

しかし、『被害者意識ばっかり』と思う人が勝手に頭の中で、でっち上げたことなので、でっち上げた事実?に基づいて、人のことを判断しているということになる。

しかも、『被害者意識ばっかり』という言葉を使った場合、あきらかに、その人のことを批判しているのである。その人というのは、ここで言えば、刺された人のことだ。

だから、この場合は、実際に過去において、被害者が加害者になんらかのことをしたのかどうか? 過去の時点において、実は、被害者が加害者に被害を加えたという事実があるのかなのかということが問題になる。

話しはそれるが、ちゃんと、過去の事実は、判断に影響を与えている。こういう場合においても、『過去のことは過去のことだから、どうでもいい』とか『過去のことは過去のことだからこだわる必要はない。こだわる必要がないことにこだわっているのはおかしい。非合理的だ』ということにはならないのである。

「被害者意識ばかり」とか「すべては自己責任(なのだから、他人を批判するべきではない)」ということを言う人たちも、ちゃんと、他人を批判している。問題なのは、それが、架空の事実に基づいた批判である場合だ。「被害者意識ばかり」と言う場合は、実際に、被害者のほうが、加害者のほうになんらかのことをしている場合に限られる。

事実、好ましくないことを、過去において加害者に対してしているのであれば、被害者意識ばかり」をもつのは正しくない態度と言える。しかし、過去において加害者に対して好ましくない行為をしていないのであれば、間違った架空の事実を設定して、被害者を批判しているのとおなじことになる。それは、良くない行為だ。

なので、過去においてどのようなことがあったかということを問題にせずに「被害者意識ばかり」と「被害者」をせめるのは良くないことなのである。よく知りもしないくせに、「被害者意識ばかり」というような言葉の攻撃を加える人は、自分がしていることがわかってない。これでは、まるで、掲示板の荒らしではないか。

ここまで、被害者が過去において加害者に対してなんらかの悪いことをしている場合について考えてきたけど、過去において、被害者が加害者になんらかの警告をしたかどうかということも問題になるだろう。警告を怠ったのであれば、被害者にも悪いところがあり、責任の所在は加害者だけに限られるわけではないということだ。この場合は、たしかに「被害者意識ばかり」をもつのは問題があることかもしれない。しかし、無限に責任を押しつけるのは良くない。予見できることに対して、普通に警告をしたのであれば、(被害者のほうに)問題はないと考えるべきなのである。予見できないことについて、被害者が……被害者になるひとが……警告をするというのは無理なのである。なので、そういうことに関しては、予見ができることなのか、できないことなのかということが重要になる。また、予見ができることに関して警告しないのであれば、問題はたしかにあると思うが、警告したにもかかわらず、加害者側が考えをかえなかったということに関しては、無限の責任を負うと考えるのはまずいことなのではないかと思う。ここらへんも、「無限の責任を負う」と考える人たちがいるんだよな。たぶん、冒頭の「すべては自己責任」などと考える人は、「(被害者は)無限の責任を負う」と考えているのだろう。これは、どういうことかというと、過去の時点において加害者の考えをかえることができなかったのだから、(被害者にも)責任があると考えているということだ。「すべては自己責任」と考える人はおそらく、そう考えるのであろう。けど、これは、不適切だ。個人に対してそこまで責任をかぶせるのは良くない。「すべては自己責任」という人は自分に対してその言葉を言っている場合は、まったく問題はない。しかし、多くの場合、他人に対してその言葉を使っている。他人の人生上の出来事に対しても、その言葉を使っている。他人というのは、この場合「すべては自己責任」と言っている人以外のひとのことだ。「すべては自己責任」などと普段から言っている人は、やはり、他人のぶんまで、他人に対して責任を追及している。こういう人が「批判はするべきではない」「人のことを批判するのは良くない」ということを言うのは、問題がある。けど、「すべては自己責任」という言葉を言う人は「批判はするべきではない」「人のことを批判するのは良くない」と言っている場合が多い。「すべては自己責任」と「批判はするべきではない」はわりと、セットになって表れる言葉だ。批判、しているじゃないか。「すべては自己責任」と「批判はするべきではない」というルールをセットにしてもっている人は、部分的に自己撞着に陥っていると言える。



2018年9月17日月曜日

架空の事件を考えて、さらに、架空の事件に関する感想を述べてみた(こんな事件が起こらないように、事前に対策について語っておいたよ)


障碍者施設の職員が障碍者を殺してしまった事件というのを、空想の世界で考えて、その空想の世界の事件について感想を述べようと思う。

この事件について詳しく調べるつもりはないので、ちょっとした感想を述べておこう。ちょっとした感想なので、認識が間違っていることもあるかもしれない。私は、犯人の年収は知らない。わからない。そして、彼が働いていた施設で、ひとりの障碍者の生活を維持するのにどのくらいの金がかかっているのかわからない。だから、感じで言ってしまうけど、『自分は働いているのに、金がない。年収が低い。この人たちは働いてないにもかかわらず、金がある生活をしている』というような気持ちが芽生えたんじゃないかなと思う。

こういう気持ちは、働いているにもかかわらず、収入が生活保護をもらっている人たちよりも低い人たちにもあると思う。底辺の仕事は、労働強度が高く、精神労働強度(仮)が特別に高い仕事だ。精神労働強度というのは、ぼくが勝手につくった概念で、詳しい説明は、そのうち、するかもしれない。労働強度は、基礎代謝量と労働時の代謝量だけが問題になるのだけど、精神労働強度の場合は、『気苦労』が問題になる。

だから、主観的な尺度にしかならないようなところがある。精神労働強度が高い仕事では、プライドをずたずたにされるというようなことがよく起こる。底辺の仕事は、ともかく、労働強度も精神労働強度も高いのである。にもかかわらず、もらえる給料が少ない。なので、「ストレスがたまりがちになる」のである。

自分が耐えたくないことに耐え、我慢して、働いているのに、生活保護費よりも収入が低いということになれば、怒るのも無理はない。「自分は働いているのに、さまざまな点で優遇?されている生活保護の人よりも苦しい生活をしている。こんなのは不公平だ」という気持ちになるのではないかと思う。

たぶん、犯人も、同じような気持ちを持っていたのではないかなと、ぼくは思う。根拠はあんまりない。そんな感じがするというだけだ。

この問題に対処するには、介護する方の年収を上げるしかない。たとえば、ひとりの障碍者の生活を維持するのにかかる金が一〇〇だとする。この一〇〇というのは、一〇〇万円という意味ではなくて、単位がない、比較のための数字だ。

ひとりの障碍者の生活を維持するのにかかる金が一〇〇だとすると、障碍者の世話する人にはだいたい、一五〇ぐらいの金が入らないとだめなんじゃないかと思う。まあ、理想だと二〇〇なんだけど。二倍ぐらいは、世話をする人がもらったほうがいい。まあ、理想論だ。

犯人が最初から、殺すつもりで介護の道を選んだのか、あるいは、働いている途中で、そういう気持ちになったのかということだけど、たぶん、働いている途中でそういう気持ちになったのではないかなと思う。これも、『感じ』だ。

たぶんだけど、彼は「たてまえ」や「きれいごと」を真に受けてしまったタイプなのではないかと思う。介護職に就いているのだから、介護に関する教育を受けているはずだ。その教育課程で「たてまえ」や「きれいごと」を教えられた。けど、実際の介護はそういう「たてまえ」や「きれいごと」を吹き飛ばすようなものだった。

だから、自分が思い描いていた理想と現実のギャップが大きくなっていたのではないかと思う。これも、ストレスがたまることだ。まあ、むかしのはなしで言えば、『金八先生』にあこがれて教師になってみたけど、一年後、二年後には、だいぶちがった気持ちになっていたというような感じではないかなと思う。

現場のリアルを無視した「たてまえ」や「きれいごと」をあんまり吹聴しないほうがいいんじゃないかなと思う。真に受けてしまう人がたまにいる。なるべく現場のリアルに対応したようなことを教えたほうがいいんじゃないかと思う。

まあ、これも、無理な話だろう。どうしたって、現場のリアルを無視した「たてまえ」や「きれいごと」を教えることになる。「教育課程」では理想を語ってしまうのだよね。まあ、わかる話だ。「教育課程」でなるべく理想を語らずに、現場のリアルに対応したことを教えましょうというのは、理想論だ。これも理想論。

で、まあ、最後に、言っておくと、彼は仕事を間違えたんじゃないかと思う。彼は「介護」にはまったくむいてなかった。畑違いの仕事に足を踏み入れてしまったのではないかなと思う。

で、まあ、付け足していっておくと、だれもが働く社会よりも、働くことにむいてない人が働かなくてもいい社会をつくるべきだということになる。『働くことはすばらしい』というイメージを吹聴しているから、こんなことになるんだ……とは言わないけどね。そりゃ、ちょっと話しが飛躍しているからね。

けど、ギリケン(ぎりぎり健常者)の問題は考えたほうがいいよ。今回の話しとは、つながりがないけど、ぎりぎり健常者も含めてだれもが、働く社会がいいという考え方を、あらためなければならないところまできている。

(「彼」というのは、「犯人」のことです)。

   *   *   *

彼も無理して働かなければ、こんなことにならないですんだかもしれないんだぞ……とつぶやいておこう。それを、『働くのはすばらしい』『みんな我慢して働いている』『みんなものすごくつらい思いをして働いている』『つらいなんていうのは甘えだ』『くるしいなんていうのは甘えだ』『無職は社会のゴミ』などという考えを流布させるから、彼は畑違いの仕事に足を踏み入れ、畑違いの仕事をしているうちにストレスを限界までため込んで爆発してしまったのかもしれないんだぞ……というのは、我田引水にすぎるか。

   *   *   *


そう言えば、障害者差別にはあれだけ敏感な人たちが、無職差別にはまったく鈍感なのはどうしてなんでしょうかね? 自らすすんで無職差別をしてますしね。就職できなくて追い込まれた若者が自殺したり、『どうせ将来なんてない』と思っている若者が、あーーんなことや、こーーんなことをしてしまったら、こまるなぁ。『無職でも良いじゃないか』ということにておいた方が、いいんじゃないかな。

   *   *   *

けど、看護師が点滴を使って施設利用者を殺してしまうというような問題はどうなんだろうね。あれも、同じような感じがするんだよな。もとは、看護師になろうというような人なのだから、ある程度の理想は持ってたんじゃないかな。職場のストレスをうまく発散できない人が多いのではないかと思う。


   *   *   *

もうひとつだけ言っておくと、たとえば、犯人が精神障害者だったらどうなるかという話しだ。そりゃ、異常なことをしたのだから精神障害者であることがうたがわれる。精神障害者である犯人が障害者を殺してしまったということになったら、どうなるんだろうか。こうなると、いろいろとややこしいことになりそうだな。犯人に精神科の通院歴があったということにしておこう。その場合、どうなるんだろうな?

   *   *   *

もうひとつ言っておくと、こういう事件が起こった場合、「たてまえ」が強化されると思う。もちろん、『教育』のなかで「たてまえ」が強化される。そうなると、ますますこういうやつが出てくる土壌ができるということになる。

   *   *   *

たぶん、利用者が自分の思ったとおりに動かないことにいらだち感じていたんだろうな。キレイゴトの世界で想像していた、反応がなかったんだな。自分がこうしたら、利用者はこうしてくれる……こういう反応を返してくれるはずだというような思い込みが強かったんじゃないかな。手短に言うと、「むいてない」。むいてないと思ったら、すぐにやめるべきだったんだな。

 
   *   *   *

理想を言えば、一日に四時間ぐらい働けば、じゅうぶんに生活できるというような社会が望ましい。

   *   *   *

2018年9月15日土曜日

出来事が中立的に生起しているだけだということ……についてもうちょっと真剣に考えたほうがいい

スピリチュアリズムの人は、新しいおもちゃを手に入れた幼児のようだ。そして、それを他の人に投げつけたりする。

有機水銀が入っている排水をがぶ飲みしたあとにものを言えとは言わない。そりゃ、飲まれてしまったらこまるしね。ぼくは、すすめませんよ。飲まないでくださいね。これ以降は、『かり』の話しだ。

もし、自分が気がつかずに、有機水銀を摂取してしまったら、どうなのかということをちょっとは考えたほうがいい。出来事は中立的に生起している。「くるしい」とか「つらい」といったことは、その中立的な出来事に「くるしい」とか「つらい」といった意味合いを与えているにすぎない。……などと言っていられるだろうか?

意味合いを与えているのは自分だ。だから、「くるしくなる」「つらくなる」。そんなのは、本来、中立的な出来事に「くるしい」「つらい」といった意味合いを与えた自分のせいだ。……などと言っていられるだろうか?

たとえば、あなたが誰かにナイフで刺されたとしよう。
その場合、「ナイフで刺されたという中立的な出来事が生じたにすぎない。『いたい』というような意味を与えるのは自分だ。だから、『いたい』という現実は自分が作り出した現実すぎない」……などと言っていられるのだろうか?

さらに、そうやって、いたがっている?……あるいは、『いたい』と感じているあなたに、「それは、自分が作り出した現実だから、他の人の『せい』にするべきではない」などと言う人が出てきたら、どう思うんだよ?

「すべては自分が作り出している現実だ。自己責任自己責任」……刺されているあなたにそういうことを言う人が出てきたらあなたはどう思うのか? 

そういう人がスピリチュアルな人だと思うのか? 彼の言っていることは正しいと思うのか?

認知療法家だと、「反応すべきことは反応べきだ」と言う。この場合、反応すべきことというのは、たとえば、ナイフで刺してきたやつをなぐることや、助けを求めたり、救急車を呼ぶということだろう。認知療法家だと、とっさの反応を認めている。

適切な期間、怒って反応するというのは認められている。適切な期間、悲しむのも認められている。しかし、適切な期間をこえて怒るのは不合理なことだとされている。適切な期間をこえて悲しむのは不合理なことだとされている。

それは、どうしてかというと、効率が悪いからだ。「適切な期間」悲しむのは、効率が良いのでよいことであり、「適切な期間」をこえて悲しむのは効率が悪い良くないことなのである。

しかし、この場合も、たとえば、有機水銀を摂取してしまったあと、有機水銀を摂取してしまったということからしょうじる、いろいろなことを『気にしている』場合は、認知療法家のいうような「適切な期間」というような条件は成立しない。一度、摂取してしまったらずっと続くからだ。「適切な期間」なんてことは言ってられない状態になる。

出来事が中立的に生起しているだけだということ。そして、中立的に生起していることに意味合いを与えるのは自分だということ。それらに関しては、スピリチュアル系の人が言うことと、認知療法家が言うことは似ている。「すべては受けとめ方の問題だ」と彼らは言う。しかし、「すべては受けとめ方の問題だ」というのは、間違っている。どういうふうに間違っているのかということについては、すでに書いた。『騒音サイコパス』のどこかに書いた。

   *   *   *

たとえ、知らずに有機水銀を摂取してしまったにしろ、自分の身に実際に起こったことは、すべて、自分自身が『選択』したことだ……なんてことはない。知らずに摂取したのであれば、その人の『選択』ではない。

   *   *   *

だいたい、『すべては自己責任』ということは、他人における他人の責任を追及している。『あの人がああなったのは、あの人の責任』『あの人がああいう思いをしているのは、あの人の責任』と責任の所在について言及しているということになる。

もちろん、そういう人は、主観的には『自分の身に起こったことはすべて自分の責任だ』と常日頃から考えて生きているのだとは思うけど、実際は、普通に『他人の責任を追及して』怒ることがあると思う。

自分が不当なあつかいを受けたと感じたら、不当なあつかいをした人間に対して怒りをぶつけると思う。あるいは、抗議すると思う。自分が不当なあつかいを受けたと感じているのに、『すべては自己責任だから、相手が自分を不当にあつかうのも、自分の責任だ』なんて考えないと思う。本当に毎回毎回、『すべては自己責任だ』などと考えているのだろうか? 本当に『すべては自己責任だ』と考えているなら、怒る必要も、悲しむ必要もないのだが……。その人はもう、広い意味で言って『この世の人ではない』と思う。

まあ、他人がなにをしたにしろ、『不当だ』と感じるのは本人であり、本人の感じ方次第であると言うのであれば、そういうことを言う人は現実生活のなかでどんな目に遭っても不当だとは感じずに、中立的なことが発生したと思うだけだろう。

『すべては自己責任』というのは、普通は『他人に対して』投げかける言葉だ。自分のなかで、本当に『すべては自己責任』だと思っているのであれば、自分に向かってそう言っていればよいのである。人知れず、言葉に出すのでもなく、『すべては自己責任』ととっさに思って、自己責任だと思っている人間がするような態度で、自己責任だと思っている人間がするようなことをすればいいだけだ。わざわざ、他人に向かって言う必要なんて、それこそない。

いずれにせよ『すべては自己責任』と他人に向かって投げかけるということは、他人に対して他人の責任を問うている。つまり、他人に対して他人の責任を追及している。『他人の責任を追及する』ということをまったくしてないということではないのである。

   *   *   *

不当、云々について言っておこう。たとえば、通販で三万円のおせち料理を買ったとしよう。そうしたら、重箱の中にちくわが二本入ったものがきたとする。その場合、『ホームページの写真とはちがうじゃないか』などとは思わずに、『そういう店を選んだのは、自分なのだから自己責任だ。他人の責任を追及するのはやめよう』と思うのが『すべては自己責任』と日頃から言っている人の思うことだ。

けど、日頃から「すべては自己責任」などと言っている人も、いざ写真とはちがうものが送られてきたら『写真とはちがうじゃないか』と思って、「写真通りのちゃんとしたものを送ってくれ」と抗議の電話をするのではないかと思う。まあ、「返金してくれ」でもいいけど。意図的にやった人たちが、ちゃんとしたおせち料理を用意しているとは思えないからな。

(ホームページと書いたけど、本当はウエブサイトだ。日本ではなぜかウエブサイトのことをホームページと呼ぶことになっているので、そう書いた)。


2018年9月14日金曜日

無料セール中 騒音サイコパス 3: 兄のヘビメタ騒音で人生がない

無料セール中

騒音サイコパス 3: 兄のヘビメタ騒音で人生がない

どれだけ言っても、なにも伝わらない。

https://www.amazon.co.jp/%E9%A8%92%E9%9F%B3%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%91%E3%82%B9-%EF%BC%93-%E5%85%84%E3%81%AE%E3%83%98%E3%83%93%E3%83%A1%E3%82%BF%E9%A8%92%E9%9F%B3%E3%81%A7%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%84-%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%AA-ebook/dp/B01HX2MNEI/

サイコパス(精神病質者)はこういうふうに家族にたたる。迷惑をかける。けど、迷惑をかけたつもりはまったくないという状態のまま暮らす。どれだけ言われても、わからない。

2018年9月12日水曜日

そんなの、小さいときはやられっぱなしになるに決まっているだろ

なんとかなんないか?



そういうふうに言ってしまうと、また問題があるんだよな。



そのしくみは、書かない。書かないけど、あるんだよ。







けっきょく、「どうにかしたい」というようなことを書くと、突っ込まれるんだよな。「溺れる者は藁をもつかむ」ってやつさ。水に浮かぶワラのようなアドバイスをもらうことになる。ワラなんてつかんだって、どうにもならない。「はずれ」だから。けど、ヘビメタ騒音というものがわかってないひとは、わかってないひとの常識でアドバイスをする。そのアドバイスは、ぼくの現実をうらぎったものなんだよ。



はっきり言えば、水俣病になっている人に「元気だ元気だと言えば元気になる」とか「なおるなおると言えばなおる」とかそういうアドバイスをしてもしかたがない。それとおなじだ。あるいは、水俣病になっている人に「あなたは、病気を引き寄せてしまったんだ。自己責任自己責任」と言ってもしかたがない。『引き寄せ』とか『前世で悪いことをしたから』とか『すべての出来事は意味があってしょうじている』というようなことを言って「せめて」もしかたがない。これ、どれだけの人が、これだけの説明でわかるのだろうか? えせスピなんだよね。ほんとうにスピリチュアル的な人はそんなことは絶対に言わない。ちゃんと相手の状態が見える。相手がどういうことを経験してきたのか、ぱーーっとみえるわけよ。自分のことのように一瞬体験してしまうわけよ。だから、「自分はだいじょうぶだった」「自分はそんなことになってない」という立場から、神様目線で、『スピリチュアリズム的なアドバイスをする』ことがない。ちゃんと、受けとめたあとの話しだからね。けど、中途半端というか、よくわかってない人は、無邪気な幼児が●●ている人を見て「あのひと●●ている」と言うような状態で、『スピリチュアリズム的なアドバイス』をしてしまう。こどもが買ってもらったばかりの刀のおもちゃを振り回しているのとおなじだ。幼児が買ってもらったばかりのおもちゃを、ぽーんと人に向かって投げてしまうのとおなじだ。まあ、スピリチュアリズム的なアドバイスというのは、実は、間違った前提に立った間違ったアドバイスなので、「あのひと●●ている」と言うのよりもひどい。ヘビメタ騒音について言うと、常識的な人からも、攻撃を受ける。しかも、この常識的な人の考えていることも、実は間違った前提に立った間違ったことなので、たちが悪い。家の中に、常識的な人が絶対に理解できないことを、常識的な人が絶対に理解できない頻度で、常識的な人が絶対に理解できない時間の長さ、常識的な人が絶対に理解できない強情さで、やる人がいると、そういうことになってしまう。これも必然だ。常識的な人にとっては「そんなの、言えばいい」ですんでしまうことなのだ。「そんなの、言えば静かにしてくれるのだから、静かにしてって言えばいいだろ」という考え方がぬけない。こっちが、どれだけ「言っても静かにしてくれない」と言っても、半信半疑で信じない。『家族なら静かにしてくれるはずだ』というような考えがぬけないので、言われた後もそう思っている……状態が続く。「そんなのは、言えばいい。他の家族がなにも言わないなんておかしい」……そういう考えを持ち続ける。『そんなにデカイ音で鳴らし続ける人がいるかなぁ』などという疑問も、持ち続ける。俺が『いる』と言った後も、そういう疑問を持ち続ける。こういうやつは、話にならない。気違い兄貴の感覚や、気違い兄貴のやり方があまりにも常識外れなので、そういう疑問を持つ方が多数派だという現実ができあがってしまう。俺の立場はどうなる? これ、ほんとうに、催眠術にかかったように、頑固に認めないでやりきるのに、催眠術にかかったように、やったということを認めない。血相を変えて頑固に頑固にやったことがまったくやったことではないのだ。兄貴の頭の中でそういう認知ができあがっている。これは、どれだけ言っても、くずれない。気違い親父とおなじなんだよね。常識的な人は『親のことを、気違いとか……』と思ったりする。これも、常に気違い的な意地で、気違い的な考えにしたがって、気違い的な感覚で、虐待してくる親のことを知らない人は……。知らない人は、無邪気な感覚で、こっちを攻撃してくる。気違い的な意地で、迷惑行為をやりきる人間が近くにいるということが、どういうことなのか、ほんとうにわかってない。しかも、その人間が社会的にいって、生物的にいって親だから、他の人から『親』だと見なされるということの意味がわかってない。そんなの、小さいときはやられっぱなしになるに決まっているだろ。悪気なく、常にエンジンがかかっていて、常に、わけのわからないことをする。わけのわからないことというのは、わけのわからない迷惑行為だ。だいたい理由もないのに、逆上して怒鳴り込んでくるというのがおかしい。常にそういう状態だというのもおかしい。おかしいけど、事実なんだよ。それなのに、常識的な人は「そんなのはおかしい」『理由がないのに、親が怒るはずがない』「子供だからわからないだけだろ」と思ってしまうのだ。これが、自動思考だ。常識的な自動思考だから、常識的な世界では肯定されうることなのだけど、うちの状態をうまく説明してない。間違っている。間違っているということが、根本からわかってない。気違い的な親にやられている人は、気違い的な親の自動思考、自動行為と常識的な人の自動思考の間にはさまって、くるしんでいる。常識的な人はまず、否定から入ってしまうので、うまく理解できない。



2018年9月10日月曜日

認知療法と水俣病 『過去は現在に影響を与えない』という行きすぎた一般化

有機水銀のことを考えれば、過去のことが現在のことに影響を与えない、なんてことは、ないということがわかる。これは、過去のことはすべて現在のことに影響を与えないということではない。現在に影響を与えることがある過去の出来事もあるし、現在に影響を与えない過去の出来事もある。


オール・オア・ナッシングというかたよった思考をするのであれば、「過去のことはすべて現在に影響を与えない」と考えることになる。しかし、それは間違っている。現在に影響を与える過去もあるし、現在に影響を与えない過去もある。実際には、現在に影響を与えない過去ではなくて、現在に影響を与えないと見なしうる過去だけど。(見なしているのは、その人本人か、本人の話を聞いた認知療法家である)。

「過去のことは現在に影響を与えない」と言う場合は「すべての過去のことは現在に影響を与えない」もしくは「過去のことは、すべて現在に影響を与えない」という意味で言っているのである。『過去』の抹消なのである。


過去の影響力ということを完全に無視している。それは、かたよった価値観なのである。『すべては思考』なのである。「過去のことはすべて現在に影響を与えない」というのは、かたよった信仰なのである。かたよった価値観なのである。『過去の出来事は一切合切関係がない』というような態度をとるのは、その価値観のあらわれだ。過去の出来事ひとつずつを吟味するのではなくて、過去の出来事であれば、現在に影響を与えるはずがないという先入観にしたがって、過去の出来事が持つ意味を否定しているのである。ひとつの過去の出来事がもつ意味を考えずに、そのひとつの過去の出来事は、過去の出来事だから意味がないと考えてしまうのである。

これは、価値観中立的なのではなくて、かたよった価値観をもっているというとだ。なんとしても過去は無視しなければならない……のであるから。『過去の出来事は、現在に影響を与えるはずがない』という間違った信仰を持っているのであるから。彼らが言うには、たとえ、過去の出来事が影響を与えたとしても、それは、無視できる影響にしかすぎないのである。ひとつひとつの過去の出来事を考えることなく、全部、過去のことを考えるのは無意味という名の「ゴミ箱」に突っ込んでしまうのである。

「無視できる影響を、無視できない影響だと考えているから、考えがかたよっている」と言うのであれば……「無視できない影響を、無視できる影響だと考えているから、考えがかたよっている」と言うこともできる。

価値観中立的なのではなく、過去の無視、過去の無価値化という、価値観をすでにもっている。認知療法家やそういう考え方に賛成する人たちは、そういう価値観をすでにもっている。しかし、これは「行きすぎた一般化」なのではないか? 

これもまた、『影響があると考える必要がある過去の影響は認めましょう』ということになるのだろうけど、『必要がある』とか『必要がない』というのは、どういう価値基準で決めているのかということが問題になる。

どんな過去だって、「必要がない」と決めつけることができる。そりゃ、どんな過去だって考える必要がない過去だと考えることは、できるのだから。ひとつの過去を取り上げて、どういう基準かは知らないけど『この過去の出来事は現在に影響を与えない(与えていない)』と言い切ることはできる。

しかし、それは、考えずに言っているだけなのである。最初から『価値がない』と決めつけている。最初から『過去の出来事は現在に影響を与えない』と決めつけている。考える前に、決めつけているのである。

いずれにせよ、認知療法家は「過去の軽視」「過去の無視」「過去の無効化」という価値観をもっているわけで、価値観中立的とはとても言えない。認知療法家が過去を無視する傾向があるのは、フロイトの精神分析が影響している。最初から、反・フロイト的な価値観なのである。だから、認知療法の理論は価値観中立的ではない。

有機水銀を摂取してしまったためにからだがだるくなっている人は、『過去なんて関係がない』と言われても、だるさが軽くなることがない。有機水銀がいま現在、脳みそをおかしているからだ。そういう状態が続いているからだ。そして、そのような現在の状態は、過去!において有機水銀を摂取してしまったという『出来事』からしょうじているのである。ようするに、過去の出来事が現在に影響を与えている。

反・フロイト的な価値観に基づいて、過去の影響を否定してしまうから、細胞の死滅ということまで、気分的なものとしてあつかい、否定してしまうのである。これは、間違った考え方だ。反・フロイト的な価値観に立とうとしたために過去の影響を無視することにしてしまったのだけど、脳細胞に不可逆的な変化が生じている場合は、過去の影響を無視することはできない。

認知療法家だって、言霊主義者だって有機水銀が入った食べ物を食べ続ければ、からだがだるくなったり、からだが震えるということがおこる。これは、人間としてかわらないからである。

ようするに、水俣病の患者も、認知療法家も、言霊主義者も人間としてのからだをもっている。脳の組織は、ほとんどまったくと言っていいほどおなじだ。細胞を構成する物質もおなじだ。だから、そこで起こる分子的な化学変化も同様なのである。

認知療法家が『過去は関係がない』と言っていられるのは、水俣病患者とちがって、有機水銀を摂取してないからだ。言霊信仰者が「元気だ元気だ」と言えばつかれがとれて元気になると言っていられるのは、水俣病患者とちがって、有機水銀を摂取してないからだ。

だいたい、おなじ量の有機水銀を摂取すれば、だれもが、つかれた状態になる。だるい状態になる。「つかれなつかれない」「だるくないだるくない」と言っても、一度、有機水銀を摂取してしまったら、つかれてだるい状態が続くことになる。

普通の細胞でできている人間なら、だれでもそうなる。あーーあ、それなのにそれなのに、自分が有機水銀を摂取してないから、好き勝手なことを言って、人をバカにしている。


2018年9月9日日曜日

無料セール中 騒音サイコパス 10: 兄のヘビメタ騒音で人生がない

無料セール中
騒音サイコパス 10: 兄のヘビメタ騒音で人生がない
あんまりにも特殊なので、うけないのはわかる。

言いがたい家族。

常識が成り立つなら、苦労しないよ。
キレイゴトが成り立つなら、苦労しない。
言ったことがつたわるなら、苦労しない。
https://www.amazon.co.jp/%E9%A8%92%E9%9F%B3%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%91%E3%82%B9-%EF%BC%91%EF%BC%90-%E5%85%84%E3%81%AE%E3%83%98%E3%83%93%E3%83%A1%E3%82%BF%E9%A8%92%E9%9F%B3%E3%81%A7%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%84-%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%AA-ebook/dp/B01JM5ZYVS/

水俣病と鬱病 おなじ病名内のグループについて(広い意味で病名)


水俣病の人が「だるい」「しんどい」「つかれた」と言っているとき、水俣病の人が、本来こだわる必要がないことにこだわっているから、そういうふうに言っていると思う人たちもいるかもしれないけど、そうじゃない。

そりゃ、なんの理由もないのに!!「だるい」「しんどい」「つかれた」ということに、こだわっている人もいるだろう。単なる自動思考で「だるい」「しんどい」「つかれた」と感じる人もいるだろう。その人たちはこだわる必要がないことにこだわっていると言える。

しかし、脳細胞が破壊されて「だるい」「しんどい」「つかれた」と感じている人は、そう感じるだけの理由があるからそう感じているのである。原因がある。原因は、何回も言うけど「水銀の毒」で、脳細胞が壊されたからだ。「水銀の毒」がその人をして「だるい」「しんどい」「つかれた」と感じさせ、その人をして「だるい」「しんどい」「つかれた」と言わせているのだ。

ちゃんと、根拠がある。原因がある。

ただ単に、自動思考をして「だるい」「しんどい」「つかれた」と感じているわけではないのだ。そうであるならば、自動思考をやめれば、だるさがとれて、しんどくない状態になって、つかれを感じない状態になる。自動思考ではなくて「水銀の毒」でつらいと感じている場合は「水銀の毒」が体から出ていって、すでにおかされた脳細胞にとってかわる脳細胞が神経の枝を伸ばさなければならない。もう、すでにおかされてしまった脳細胞(有機水銀と結びついてしまった細胞)は元に戻らないだろうけど、新しい脳細胞が育つかもしれない。

もちろん、最初から水俣病だとわかっていれば、その時点で鬱病と診断されることはないだろう。しかし、普通に鬱病だと診断するとき、医師は、すべての他の可能性を排除しているわけではない。つかれに関しては、内臓の検査などをしてからではないと診断できないと言ってくれる医者もいるだろう。しかし、たとえば、慢性疲労症候群の可能性をはっきりと否定した後に、鬱病だと診断する医者がどのぐらいいるだろうか? 

未知の毒で脳の神経細胞がおかされていたとしても、いちいち、脳の神経細胞の状態を確認した後、診断するということはない。シナプス間隙のセロトニンの量やレセプターの数を確認した後、たしかに、シナプス間隙のセロトニンの量が少ないから、トランスポーターに働きかける薬を使いましょうと提案するわけではない。

というわけで、いちおう鬱病という診断を受けた人のなかにも、いろいろな人が含まれている。これは、たとえば「はらいた病」という名称の『広い意味で病気』だと思われている病気のなかに、「ただ単に気分で腹が痛くなった人(自己暗示で腹が痛いと思っている人)……(1)」や「腹をほんのちょっと殴られたので腹が痛い人……(2)」や「盲腸で腹が痛い人……(3)」が混じっているということになる。

言っておくけど、「はらいた病」なんてありません。ここで、説明をしやすくするために、ぼくがかりにつくった『広い意味での病気』です。
言いたいことは、たとえば、気分だけで腹が痛くなったもとはらいた病患者が、自動思考をやめたら「はらいた病」が治ったと言っている場合、そのひとにとっては、それは事実なのだけど、「はらいた病」に含まれている人すべてにそれが当てはまるわけではないということだ。


けど、「はらいた病」は「はらいた病」としてくくられているので、「はらいた病は自動思考をやめれば治る」ということを、「もとはらいた病患者」が言い出す場合がある。実際、医者ではない「はらいた病カウンセラー」や「はらいた病臨床士」が「はらいた病は自動思考をやめれば治る」「はらいた病の原因は自動思考だ」と言っているので、カウンセラーが言ったことを、そのまま、真実だと思い込んでしまう「もとはらいた病患者」も出てくる。

このばあい、単に「はらいた病患者」と言った場合、「はらいた病患者」ではない人が含まれることはないので、ただ単に「はらいた病患者」と言っても、それは、「すべてのはらいた病患者」と等価になるという問題がある。これは、言葉の問題だ。普通の人は「例外」があるような感じがしている場合ですら、「例外」については、特に言及しないので単に「はらいた病患者は、どうのこうの……」と言うことになるだろう。

しかし、盲腸である「はらいた病患者」は、自動思考をやめても「はらいた病」が治らない。「雑菌」でくさった部分(炎症を起こしている部分)を取り除かないと、盲腸は治らない。しかし、盲腸で「はらいた病」になっている場合も、「おなじはらいた病」で腹が痛いということになってしまう。

もちろん、実際には盲腸が「はらいた病」としてくくられるということはない。これは、「たとえ」の話をしているのだ。「はらいた病」とおなじことが「鬱病」で起こっている。ちがう原因で「鬱病」になっている人たちが「鬱病」というカテゴリーでくくられてしまっているために、ただたんに「気分で鬱病になっているもと患者」が、そうではない患者に、間違った前提に立った助言をおこなうことになる。

助言を否定されれば、「気分で鬱病になっていたもと患者」だって、いい気分はしないだろう。なので、溝ができるのである。また、「気分で鬱病になっているもと患者」は「鬱病はあまえ」などと言ってしまう。そうすると、一般人は「ああっ、鬱病はあまえなんだなぁ」と思ってしまうだろう。

なんてたって「もと患者」が言っているのだから、わりと信憑性がある。「気分で鬱病になっているもと患者」が「自分もそうだった」などと言った場合、「おなじ鬱病患者というカテゴリーにくくられている患者」は抵抗できなくなってしまう。

これは、「気分で、はらいた病になっているもと患者」が「自分も腹が痛かった」と言っているのとおなじなのである。「気分ではらいた病になっているもと患者」が盲腸で「はらいた病」になっている現はらいた病患者に、「自分も腹が痛かったけど、『いたくないいたくない』と声に出して言ったらいたくなくなった。

だから、あなたもおなじだ」と言っているのとおなじだ。「うそだと思うかもしれないけど、『いたくないいたくない』と言ったら治った。だから、これは真実だ。『いたくないいたくない』と言うことは、はらいた病にきく。はらいた病は「いたくないいたくない』と言うことで治る。それなのに、どうしてあなたは、『いたくないいたくない』と言わないのか? 治りたくないのか? そんなのは甘えだ」と言ってしまう場合がある。

けど、何度も言うけど、雑菌が原因で「はらいた病」にかかっている人は雑菌の問題が解決しなければ「はらいた病」は治らない。有機水銀でつかれている人は、有機水銀の問題をどうにかしないと『疲れを感じた』ままだ。

しかし、かりに、『鬱病だ』と間違って診断されている場合は、『運動をすればいい』とか『認知のゆがみをただせばいい』というようなことを言われてしまうのだけど、有機水銀の問題をどうにかしないと運動をしても認知のゆがみをなくそうとしても、全体的に感じる「つかれ」の問題が解決しない。

その場合、長期にわたって「つらいつらい」とか「つかれたつかれた」と言うことになるだろう……有機水銀で『鬱病』状態になっている人は。その場合、言霊主義者から「『つらいつらい』と言うからつらいんだ……つらくないつらくないと言えばつらくなくなる」と助言を受けることになるだろう。「『つかれたつかれた』と言うから、つかれたままなんだ。元気だ元気だと言えば元気になる」といった助言を受けることになるだろう。
その場合、有機水銀で『鬱病状態』になっている鬱病患者が「『つらくないつらくない』と言ってもつらいままだ」とか「『元気だ元気だと言っても、元気にならない」とかということを言うと軋轢が生じる可能性が高い。そりゃ、だれだって自分が正しいと思っていることを『否定』されたら、腹が立つからなぁ。多くの、助言をした言霊主義者が腹を立てて「そんなことを言うから、だるいままなんだ」「そんなことを言うからつかれたままなんだ」というようなことを言うかもしれない。

多くの助言をされた有機水銀で『鬱病状態』になっている鬱病患者は「事実だるいからだるい。事実つかれているからつかれている。事実『元気だ元気だ』と言っても元気にならなかったからそういった」と言う可能性がある。

実際、有機水銀で『鬱病状態』になっている鬱病患者は、有機水銀が原因で「つかれを感じる状態」になっているので、「元気だ元気だ」と言っても元気にならない。言霊主義者は完全に誤解している。

こころみない場合は、「嘘だと思ってやってみろ」と言われ、こころみたあと正直な報告をすれば「そんなことを言うからつかれたままなんだ」と言われてしまう状態におちいっている……有機水銀で『鬱病状態』になっている鬱病患者は。これは「そういうステータスにおちいった」ということだ。もうちょっと強い言葉で言うと、「そういう身分になった」ということだ。

さらに悪いことには、有機水銀で、だるくて動けない状態でいれば、いろいろな不安が襲ってくる。「こんなにだるいんじゃ仕事ができない」と思ったりするだろう。この「こんなにだるいんじゃ仕事ができない」というのは、間違った思考ではないのである。むしろ現実に対応している思考だ。仕事ができないほどだるいのであれば、仕事ができないと考えるのが普通だ。ゆがんでない。

むしろ、仕事ができないほどだるいのに、仕事ができると考える方が、ゆがんでいる。現実を受けとめてない。現実を否認している。記憶障害が強くなり、記憶障害によって引き起こされる「だめエピソード」増えれば、自分が仕事ができるのかということについて不安になってもしたがない。また、体のふるえが強くなっていったら、やはり、『仕事ができないんじゃないか』と思ってしまう。前は、まっすぐ歩くことができたのに、まっすぐ歩くことができないようになれば、やはり、『仕事ができないんじゃないか』と思ってしまう。

この不安は、なんとなく自動思考で不安になっているのとはちがう。なんとなく自動思考で『仕事ができなくなってしまうのではないか』と不安になっている場合は、その自動思考をやめれば『仕事ができなくなる』現実を避けることができる。

しかし、有機水銀でだるくて動けない場合、『仕事ができなくなってしまうのではないか』という不安は、自動思考やめることでは、『仕事ができなくなる』現実を避けることができない。

やはり、有機水銀が体から出ていくことが必要になる。『できないことが増えていく』ということは、不安でしょ。いままで経験したことがない疲労、どれだけ休んでも治らないだるさが積み重なれば、不安になったり憂鬱になったりする。できないことが増えていけば、不安になったり憂鬱になったりする。記憶障害でトラブルが増えれば、不安になったり憂鬱になったりする。その場合、鬱病と診断される要素が増えてしまう。

有機水銀を摂取したあとそういう状態がずっと続けば、憂鬱(鬱状態)や不安もずっと続くことになる。この鬱状態や不安は、ほんとうはそうなる理由がまったくないのに、単なる自動思考で鬱状態や不安になっている場合とはちょっとちがう。






2018年9月7日金曜日

溝があるわけ。


けど、まあ、ほんとうは、けっこう、いたんでいる。俺のこころがいたんでいる。ヘビメタ騒音のことが他の人にはわからない。どれだけ、説明してもけっきょく、経験がない人にはわからない部分があると思う。で、「そのわからない部分」がでかい。そして、「そのわからない部分」がいまの俺に影響与えている部分がでかい。けど、そういうことを言っても、他の人にとってみれば、「エイリがまた言っている」というようなことでしかない……のは、わかっている。だから、まあ、溝があるわけ。



2018年9月4日火曜日

無料セール中 騒音サイコパス19: 精神分析と認知療法に興味がある方はどうぞ

無料セール中

騒音サイコパス19: 兄のヘビメタ騒音で人生がない
精神分析と認知療法に興味がある方はどうぞ。
あと、毒親、毒兄に興味がある方もどうぞ。
https://www.amazon.co.jp/%E9%A8%92%E9%9F%B3%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%91%E3%82%B9%EF%BC%91%EF%BC%99-%E5%85%84%E3%81%AE%E3%83%98%E3%83%93%E3%83%A1%E3%82%BF%E9%A8%92%E9%9F%B3%E3%81%A7%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%84-%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%AA-ebook/dp/B0744V5YK8/
●強迫神経症
●言霊と強迫神経症
●神経症と耳なし芳一
●認知療法と踏み絵
●患者の認知がゆがんでない場合について
●ガマガエルと父親
●事柄と認知

もともと、認知療法についていける鬱病患者は、認知療法についていける鬱病患者



もともと、認知療法についていける鬱病患者は、認知療法についていける鬱病患者なのである。認知療法についていけない鬱病患者は、どこかで認知療法を投げ出すはずだ。あるいは、最初から脱落しているはずだ。

それは、認知療法家がすすめるいろいろなことを、やる気になれないというところからしょうじる。鬱になりそうな自動思考をしないようにして、からだを動かすということをアドバイスされても、水俣病でだるくて『つかれ』ていたら、体を動かすということができない。

体を動かせばすっきりすると言われても、体が動かないし、むりやり体を動かすと、『すっきりした気持ちにならず、よけいにつかれを感じる』ということになってしまう場合は、体を動かすということができない。

認知療法家は柔軟なので、「やりたくないことはやらなくていい」「やったあと気分が悪くなることはやらなくていい」と言う。しかし、全部がやりたくないことであるような人の場合は、スモールステップできざんでいっても、習慣化することがむずかしいということになる。

「やりたくないことはやらなくてもいい」というのは、ほかにはやりたいことがある場合には有効だけど、やりたいことがない場合は問題がある。治療目標、あるいはカウンセリングの目標を設定することができない。

2018年9月3日月曜日

ぼくよりもつらい思いをしている人はたしかにいるだろう

つまんない。リアルがつらい。

つまんないなぁ。



目がつかれている。もう一度眠るか。黄色眼鏡装着。



歯磨き中



戦意喪失。



ジュースでも買いに行こうかと思ったけど、雨が降ってきた。

現実って、これ、くるしいよな。ぼくの場合はヘビメタ騒音以降、くるしくなった。それまで苦しさと、ヘビメタ騒音以降のくるしさはちがう。他の人は、ヘビメタ騒音以降のくるしさを知らない。

だから、話しが食い違う。『くるしい』と言ったって、ヘビメタ騒音以前の『普通の生活が成り立っているところでの』くるしさだ。ぜんぜんちがう。ヘビメタ騒音以前だって、気違い親父にいろいろとやられていて、普通の人たちよりはくるしかった。

けど、ヘビメタ騒音以前とヘビメタ騒音以降とではちがうんだよ。基本がちがう。普通の人たちの場合、精神病質者である父親にはたたられていない。精神病質者ではない父親との間にだっていろいろある。

学校に行けば、学校に行ったで、いろいろなことがあるだろう。その中にはつらいこともあるだろう。俺も、いろいろなことがあった。当然、つらいこともあった。

けど、それは、ヘビメタ騒音以前の「つらさ」なのである。ヘビメタ騒音以降のつらさではない。ぜんぜんちがうんだよ。ヘビメタ騒音以降と書いているけど、これは、ヘビメタ騒音『さいちゅう』も含んでいる。ヘビメタ騒音以降で、ヘビメタ騒音期間中とヘビメタ騒音以降を含んでいる。ヘビメタ騒音以前と、ヘビメタ騒音以降だと、つらさのつらさがちがう。つらさの質も強度もちがう。ぜんぜんちがう。ともかく、ちがう。

ちがうのだからしかたがない。

これも、たぶん『自分だけつらいと思っている』などと思う人がいるのだろうけど、ちがう。普通の人のつらさとは、ちがうんだよ。まあ、他の人でも、抱えていることがちがうので、ぼくよりもつらい思いをしている人はたしかにいるだろう。けど、似非スピリチュアルなことを言っている人は、ヘビメタ騒音以降のつらさを知らない。普通のつらさしか知らない人たちだ。

そりゃ、生きていればいろいろある。

けど、似非スピリチュアルなことを言っているということ自体が、その人たちが経験したつらさは普通のつらさだということを明示している。そんなことは言ってられない状態になる。ぜんぜんちがう。ただ単に、経験してないから、そういうことが言えているだけだ。別に人間の質がいいからではない。

ほんとうに、『知らないだけ』。知らないだけの人たちなんだよな。それはある意味、しあわせだ。いや、すべての意味でしあわせなのかもしれない。けど、それは、知らないだけ。経験してないだけ。人間の質とは関係がない。ただ単に、経験してないだけ。


雨がやんだから、ジュースでも買いに行こうかな。


似非スピリチュアルなことを言う人たちは、『雨が降ったから、ジュースを買いに行けない』ということ考えるのが非合理的だと言うだろう。あるいは、ネガティブだと言うだろう。

『雨が降ったって、ジュースなんて買いに行ける。雨の中、ジュースを買いに行くということすら、楽しむことができる。雨を楽しむことだってできる。雨の中を歩くということすら、楽しむことができる。『雨が降っている』ということをネガティブにとらえるか、ポジティブにとらえるかで、楽しいと思うか、つらいと思うかがちがってくる。他の人たち(ネガティブな人たち)が言っている「つらさ」なんていうものは、そんなものだ。ネガティブな人は、中立的な事象(事柄)をネガティブにとらえるから、つらく感じているだけなんだ』……こんなふうに思うかもしれない。

ぜーーんぜん、そんなんじゃないから。もう、ここらへんからしてちがうんだよな。経験がないというのは、こういうふうに残酷になれるのか。経験がないのだとしたら、どれだけ言ってもわからないだろうな。それそこ、その人のとらえ方次第だからな。「つらい」あるいは「つらさ」という言葉であらわされていることが、ぜんぜんちがうのだからしかたがない。

水俣病で言えば、有機水銀を摂取したあとの世界と、有機水銀を摂取するまえの世界は違う。有機水銀を摂取するまえだって、人間として暮らしていれば、それは、「つらいこと」だっていっぱいあるわけだ。けど、有機水銀を摂取したあとのつらさと有機水銀を摂取するまえのつらさはちがうと思う。

これは、もう、質がちがう。脳みその神経細胞が不可逆的に変化してしまったのだからしかたがない。「水銀の毒」で感じているつらさと、普通の生活をしていたときに感じていたつらさはちがうはずだ。

人間というのは、たしかに、自己治癒能力がある。これは、感じ方とかそういうこととはちがう話だ。ちがう話をしているんだけど、人間には生命体としての自己治癒能力がある。だから、自己治癒能力で治るところは治る。自己治癒能力で、つかれがとれる場合だってある。というか、普通は睡眠中に、つかれがとれているはずなのである。けど、激しいヘビメタ騒音はそういう普通の機能を破壊した。十年数年も毎日、激しい物理刺激を受けると、どうも、不可逆的な変化が生じるみたいなのである。

問題なのは、たぶん、可逆的か不可逆的かということなのだと思う。

   *   *   *

「つらさの、質がちがう」と言ったけど、それは、たぶんこういうことが影響していると思う。水銀の毒でつらい場合は、二十四時間中、二十四時間、ずっと、水銀の毒でつらいと感じている状態で暮らしているのだと思う。寝ているあいだ、どの程度の「つらさ」を感じるかどうかはわからないけど、「シネン」に関係なく、脳細胞がおかされているわけだから、体がつらいつらい状態が続くと思う。

普通の生活のなかでつらいことがあるという場合のつらさは、出来事のあとにしょうじるつらさなのである。出来事というのは、たとえば、失恋したとか、友達と喧嘩したとか、事実無根の悪口を言われたとか、いじめられたとか、親が離婚したとか、飼っている犬が死んでしまったとか、そういうことだ。ひとつひとつがいちおう「出来事」として感じられるつらさなのである。一方、「水銀の毒」でつらさが生じている場合は、二十四時間中二十四時間そのつらさが持続しているのである。

だから、水銀の毒でやられているさいちゅうに……出来事が生じることになる。要するに、普通の人の場合、悪い出来事があったときにつらさを感じるわけだけど、水銀の毒にやられている人の場合は、水銀の毒によるつらさにくわえて、悪い出来事がしょうじるということになる。

出来事のつらさを、たとえば、かりに1、2、3、4、5という度数で表現するとする。そして、水銀の毒でつらいといった場合のつらさを、3のつらさだとする。そのばあい、普通の人は、一日の中で、2、1、3、4、1というような感じでつらさを感じるわけだ。

実際に、ある人が、ある日に、順番に2、1、3、4、1という強度でつらさを感じたとしよう。けど、水銀の毒でやられている人はすでに、3がプラスされている。だから、ある人とおなじように悪い出来事が生じた場合、5、3、6、7、4というようにつらさを感じるということになる。

さらに、水銀の毒で体がつらい状態だと、実際にミスが多くなったり、記憶障害が出てトラブルが生じるのである。ふるえが止まらなくなったりして、やばい状態になってしまうのである。将来についても、不安な要素が増えてしまうだろう。要するに、悪い出来事が実際に多くなる。

かりに、悪い出来事が普通の人とおなじ回数、普通の人と同じような強度(度数)で生じていたとしても、「水銀の毒」による体のつらさで、強度が「そこあげ」されてしまう。だから、主観的には、普通の人が感じているつらさよりも強いつらさを感じてしまうということになる。

ノイズで表現すると、普通の人は、普通の場合、ノイズがない状態で暮らしている。普通の人の場合は、なんらかの悪い出来事のあとに、ぷ、ぷ、ぷとノイズを感じるのである。「水銀の毒」にやられている人は、常に、ノイズが鳴っている状態なのである。

そして、常に鳴っているノイズにくわえて!なんらかの悪い出来事のノイズがのることになる。それから、先ほど例としてあげた悪い出来事のつらさは、純粋に精神的なつらさなのである。悪い出来事のなかには、純粋に精神的なつらさとは言えないつらさがある。

それは、やけどをしたり、骨折したりというつらさである。小さなやけどなら治るし、骨折も普通の場合は時間がかかるけど治る。大きなやけどの場合は、跡が残る場合があるだろう。

だから、つらさはだいたい、純粋に精神的なつらさ、可逆的な身体損傷によるつらさ、不可逆的な身体損傷によるつらさにわけられると思う。その場合「水銀の毒」によって生じるつらさは不可逆的な身体損傷によるつらさだと思う。可逆的な身体損傷によるつらさも、不可逆的な身体損傷によるつらさも、精神的なつらさをともなうものだと思う。

   *   *   *

それから体のふるえだけど、これは、べつに「体をふるわせよう」と思って、ふるわせているわけではない。だから、「体をふるわせる必要がない」ということを認知したとしても、ふるえはとまらない。精神的に緊張してふるえている人は、精神的に落ちつけばふるえが止まるだろうけど、「水銀の毒」で体がふるえている人は、気分に関係なくふるえているわけだから、認知療法的な理屈は成り立たない。認知療法的な理屈というのは、「必要なぶんだけ緊張すればいい」というような理屈だ。「体をふるわせる必要がない」と認知すれば、からだのふるえは、とまるはずなのである。体のふるえと書いたけど、痙攣でもおなじだ。


2018年9月2日日曜日

こういうしくみが成り立っている

今日は起きたあと、飯も食わないで作業をした。



作業を終えて、ご飯を食べ終わったところ。



つかれた。



作業中も、もちろん、ヘビメタ騒音のことが頭のなかをまわっている。これは、だめだ。昨日の夜眠る前もヘビメタ騒音のことを考えた。どうしても、頭にくる。で、まあ、簡単に言うと『頭にくる』というようなことを書けば、書いたぶんだけ俺がきらわれるということになる。こういうしくみが成り立っている。ほかにもいろいろなしくみが成り立っている。

   *   *   *


無料セール中
脱力さんがゆく 6: 脱力系ぐうたら生活入門 なぜ、子供のころの方がうまかったと感じてしまうのか?
↓アフィリンクではありません
https://www.amazon.co.jp/%E8%84%B1%E5%8A%9B%E3%81%95%E3%82%93%E3%81%8C%E3%82%86%E3%81%8F-%EF%BC%96-%E8%84%B1%E5%8A%9B%E7%B3%BB%E3%81%90%E3%81%86%E3%81%9F%E3%82%89%E7%94%9F%E6%B4%BB%E5%85%A5%E9%96%80-%E3%81%AA%E3%81%9C%E3%80%81%E5%AD%90%E4%BE%9B%E3%81%AE%E3%81%93%E3%82%8D%E3%81%AE%E6%96%B9%E3%81%8C%E3%81%86%E3%81%BE%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%E3%81%A8%E6%84%9F%E3%81%98%E3%81%A6%E3%81%97%E3%81%BE%E3%81%86%E3%81%AE%E3%81%8B%EF%BC%9F-%E7%AF%80%E7%B4%84%E6%96%99%E7%90%86-%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%AA-ebook/dp/B01DRKAZLS/

2018年9月1日土曜日

認知療法家の認知はゆがんでいる(1) 理由と症状 『理由なんてどうでもいいんです』という決めつけ


ちなみに、「認知療法家は原因を重視しない」と言った場合の原因というのは、たとえば、「どうしてゆがんだ認知が生じたか」ということは問題にしないということだ。けど、いちおう、鬱病は『ゆがんだ認知』によって引き起こされると考えているのである。


ところで、鬱病の症状のうち『憂鬱な気分』に関しては、いろいろと考えなければならない要素が多すぎるので、鬱病の症状のうち『つかれ』と『だるさ』について考えてみよう。

水俣病によっても『つかれ』や『だるさ』が生じる。しかし、いまは水俣病の原因がはっきりとわかっているので、水俣病によって『つかれ』や『だるさ』を感じている場合は、鬱病で『つかれ』や『だるさ』を感じているのではなくて、水俣病によって『つかれ』や『だるさ』を感じしていると診断される。

水俣病というのは、有機水銀が脳細胞を壊すことによってしょうじる病気だ。ちゃんと、原因がわかっている。

原因がわかっている場合は、原因がわかっているので、『原因はどうでもいいのです』なんてことは言われない。しかし、認知療法家は『原因はどうでもよい』とする特殊な考え方をするので、原因は考えない。

ところで、いまは、水俣病の原因がわかっているけど、原因がわかってないときがあった。そのときは、当然『水俣病』というような病名もない。理由はわからないけど、『だるさ』『つかれ』『痙攣』『記憶障害』などの症状がでる患者が出現した。

このときは原因がわかってないので、鬱病だと診断される場合がある。だって、他の病気で鬱病と診断できるような鬱状態になっているわけではない人が、鬱病のグループにいれられるわけだから、そうなる。要するに、はっきりした原因がわかっているグループとはっきりした原因がわかってないグループにわけられるのである。

そのうち、はっきりした原因がわかっているグループは、ひとまず、鬱病ではないと診断される。もっとも、かさなることはある。鬱病と他の病気は排他的ではないのでかさなることがある。(鬱病は狭い意味では病気ではない。単極性の感情障害だ。『病気』ではなくて『障害』だということをまず理解しておかなければならない。)

ちなみに、精神科医や心療内科の内科医は、鬱病を脳の機能障害と考えている。精神科医や心療内科の内科医にとっては、性格とかそういうことは、一切合切関係がないのである。レセプターやトランスポーターや神経伝達物質がこれこれこうだから、鬱病になると考えているのだ。

けど、これも、実は、よくわかってない。いろいろな仮説はあるけど、みんな仮説の状態にとどまっている。これこれが理由で、鬱病になるということは、まだわかってない。

医者は、『ちょっとしたことを、重大なことだと考えて憂鬱になる性格』が問題だとは思ってないわけだ。あるいは、医者は、『なんでもないのに、自動思考で憂鬱になるから、鬱病になる』とは考えてない。

認知療法家は『認知のゆがみ』や『自動思考』を鬱病の原因だと考えている。認知療法家が「原因は関係がありません」「原因を探すのはやめましょう」と言う場合は、「自動思考をする原因について考えるのはやめましょう」「認知のゆがみが生じた原因について考えるのはやめましょう」と言っているだけだ。

しかし、ほんとうは、認知療法家にとってみれば、鬱病の原因は『認知のゆがみ』なのである。なので、認知療法家は、認知療法家で鬱病の原因を考えている。ちゃんと、原因を考えている。そして、すべての鬱病患者の認知はゆがんでいると考えている。だから、鬱病患者の認知のゆがみを修正すれば鬱病は治るのである。


ここで問題なのは、まだ、病名がついてない水俣病で、だるくてつかれている人が『自動思考で憂鬱になるような性格だから鬱病になる』と言われて、『自動思考を修正する』ようにしても、まだ、病名がついてない水俣病で、だるくてつかれている人の『だるさ』や『つかれ』がとれるわけではないということだ。

しかし、自動思考を修正して鬱病が治ったと思っている「もと鬱病患者」は、自動思考を修正すれば鬱病が治ると思っているので、「自動思考の修正すれば鬱病は治る」と、まだ、病名がついてない水俣病になってしまったので、だるくてつかれている人にアドバイスしたりする。

「認知療法家がそう言ってた」「自分もむかしつかれやすくてからだがだるかったけど、自動思考をやめたら元気になって、やる気が出た」というようなことを言ってしまう。

けど、『自動思考』でつかれてだるくなっている人と『有機水銀』でつかれてだるくなっている人』はちがう。両者は決定的にちがう。

有機水銀でつかれてだるくなっている人』が『自動思考』を修正しても、有機水銀が体から出ていかないかぎりは、つかれてだるい状態が続く。

もともと、原因がちがうので、アドバイスにならないのである。腹をぶたれて腹がいたくなった人が、盲腸(急性虫垂炎)で腹がいたくなった人に対して、『湿布をしておけば治る』と言っているようなものだ。「自分だって腹が痛かった。けど、湿布をしたら治った。だから、あなたも湿布をすればかならず治る」と言っているようなもの
だ。けど、盲腸は湿布をしても治らない。どうしてかというと、原因がちがうからだ。原因を考えるということは、このように重要なことなのだ。


原因を考える必要がない場合は、『自動思考』や『認知のゆがみ』だけで、鬱病になっている場合だけだ。はっきりした理由はないけど、からだ全体に症状が出ている場合だけだ。

はっきりした理由がないけど、からだ全体がだるいと『感じてしまう』ときはある。そういう場合は、『原因を考える必要はない』と考える人たちが考え出した療法が効くことがある。

しかし、それは、はっきりした理由がない場合に限られる。『弱い理由』『はっきりしない理由』でただなんとなくそういう気分がするという場合に限られる。やはり、はっきりした理由がある場合は、そういうことでは、治らない。

認知療法家は『理由なんてどうでもいいんです』というところからはじまる『自動思考』をどうにかしたほうがよいのではないかと思う。『理由なんてどうでもいい』という決めつけがあるので、はっきりした理由がない人にしか効かない。はっきりとした理由がある人は対象外なのである。認知療法の対象外。認知療法は、はっきりとした理由がある人にもちいても、意味がない。ほんとうに、『気分だけでそうなっている人』にしか通用しない。

それから、くわえて言っておくと、『理由なんてどうでもいい』と考えているということは『理由なんてどうでもいい』という価値観をもっているということだ。つまり、価値観中立的ではない。しかし、認知療法家は、さも価値観中立的であるようなことを言う。価値観中立的、あるいは、価値中立的であるようなふりはやめたほうがいい。たいへん強い価値観をもっている。まるで、どの価値観にも傾いていない中立的な価値観を採用しているように説明することがあるが、ちゃんと、こういう価値観をもっている。『理由は関係がない』『理由を考えるのは無駄だ』『理由を考えるのは非効率的なことだ』という価値観をもっている。これは、中立的な価値観ではない。価値観から切り離されたところに『認知療法』が中立的に存在しているわけではないということは、頭のかたすみにおいておかなければならない。


無料セール中 無職の現象学: 無職とはどのような存在か 逆に『労働とはなにか』


無料セール中
無職の現象学: 働きたくないでごさる 絶対に、働きたくないでござる
無職の形而上学
無職とはどのような存在か
逆に『労働とはなにか』
↓アフィリンクではありません
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B01D8U1T08/

2018年8月31日金曜日

「やめろ」と言うことは気違い的な意地にあぶらをそそぐようなものなんだぞ

どーーーーしても、ヘビメタでできなかった。どーーしても、できなかった。あの空間はない。あの騒音はない。あの騒音が鳴っているときの気分はない。どーーーしても、ヘビメタ騒音なかで、勉強できなかった。どーーしても、できなかった。どーーしても、できなかった。鳴っているとできなかった。一日に六時間四五分から一三時間四五分ぐらい鳴るので、どーしても、鳴り終わったあとも勉強することができなかった。あのときの気分はない。なんて言うのかな?

これ、何千日もやられた人じゃないとわからないと思うけど、ヘビメタ騒音を浴びたあとのだるさというのが尋常じゃないのだ。それが、何百日も何千日もつもっているときの、一日のヘビメタ騒音が与える影響がでかすぎる。

ほんとうに、気違いだから、どれだけなにを言っても、一切合切、なにもかも伝わってない状態』なんだよね。親父と、とことんおなじなんだよな。本人の中でスイッチが入ったら、絶対の意地で『ゆずらずに』やっているのに、『まったくやってない』という認知が成り立っている。やっているのに、やってないという認知が(同時に)成り立っている。やっているのだけど、『一切合切関係がないこと』なのである。自分が意地になってやっているにもかかわらず、それは、自分には一切合切関係がないことなのである。

だから、『言われたら』自分に関係がないことで『怒られた』と思って、怒る。そういう反応しかない。同時に!!!!!どれだけ言われても、『やっていいことをやっている』という主観的な意識があるから、絶対にゆずらない。ゆずらないけど、一切合切関係ないことなのである。どれだけ言われたって、相手のことなんて気にしない。『言われたので怒った』という反応しかない。一回そうなったら……人生の中で一回そうなったら……もうずっと、何年でも、何十年でそうなんだよ。うちのなかにいる限り!そうなんだよ!!

で、『そうだ』ということもわかってない。『うちなかではそうし続けた』ということすら、わかってない。『わかってなければ』やってないのとおなじなのである。こういう、気違い的なしくみが成り立っている。こういう異常な認知が成り立っている。

だから、どれだけ、うちの人に言われたって『ゆずらない』し、『ゆずらなくても、まったく問題がない』と思い込んでいる状態でやりまくる。一度スイッチが入ったら、ずっとそうなんだよ。だから、一日に一二時間やったって、まったくやってないのとおなじ『気分』でいられる。

入学試験の前、一ヶ月前から「やめてくれやめてくれ」と言われているのに、一日に一三時間鳴らしたって、『一分も鳴らしてないのとおなじ気分』でいられるんだぞ。自分が一分でも、ゆずってやったら、一日中ゆずってやったのとおなじ気分でやられるんだぞ。

しかも、その自分がゆずってやった一分というのが、実は、客観的な基準で、ものすごくデカイ音で鳴らしている一分なんだよ。気違い兄貴のなかでは、気違い兄貴が鳴らしたい音というのは、絶対にデカイ音じゃないのである。主観的には、デカイ音だと思ってないのである。これ、ほんとう、現実を無視して、気違い的な自分の言い分にこだわる。現実を無視して、自分に都合のいい認知をする。

だから、「やったってやってない」が親父とおなじように成り立ってしまう。

で、ともかく、ハードウエア的にそういうところがあるので、ほんとーーに、どれだけやっても、どれだけ言われても、気にしないのである。ハードウエアというのは、脳のハードウエアという意味だ。一度、(やりたいことができて)そうなったら、主観的な認知を言い換えて?頑固にそうするけど……どれだけ言われたってそうし続けるけど……本人はまったくやっているつもりがないという状態ができあがる。

ほんとうは「ゆずってやらなかった」にもかかわらず「ゆずってくれなっかた」と言われれば「ゆずってやった!!ゆずってやった」と言うことになる。絶叫して「ゆずってやった!!ゆずってやった」と言えば、本人のなかでは「ゆずってやった」ことになってしまうのである。現実を無視して、自分が発狂して「ゆずってやった!ゆずってやった」と絶叫したら、本人のなかでは『ほんとうにゆずってやった』ことになってしまうのである。で、これが、鳴らしているときもおなじように成り立つ。だから、絶対にゆずらないという状態が成立する。

けど、そんなのは、他の人には、逆立ちしたってわからない。おそろしいことに、本人は、そういう他人以上にわかってない状態なんだよ。これが、兄貴だ。だから、『お兄さんと相談すればいい』と言われても俺は、こまるんだよ。そういうことが、小学六年生のときから続いている。

さらに、他の人にはまったくわからないことは、親父もおなじだということだ。四人家族の中にふたり、おなじように狂っている人がいるんだぞ。そんな状態なのに、『家族で相談すればいい』なんて言われたって、相談できるわけがないだろ。気違いが気違い的な理屈を言って、気違い的な理由で怒っておしまいだよ。やり続ける。

意地になってやり続ける。

だいたい親父や兄貴は「やめてくれ」と言われたら、逆にエンジンがかかってしまうところがある。これだって、他の人にはまったくわからないことなんだよな。「やめろ」と言うことは気違い的な意地にあぶらをそそぐようなものなんだぞ。火を噴くような気違い的な意地でやっているやつに、さらに、あぶらをそそぐようなことなんだぞ。「やめてくれ」というたびに、気違い的な意地でやりきる方向にシフトしてしまうんだぞ。

こんなの、『すべては自己責任』とか悠長なことを言っているやつにわかるわけがない。ああ、自分で自分に言っているのはいいよ。けど、他人に言うのはやめろ。不愉快だ。これ、ほんとうに、頭がおかしい『家族』にひどいことをやられ続けたことがない人の発言なんだよな。そんなの、自己責任であるわけがないだろ。『こどもの頃のことは関係がない』……あるんだよ!!あるんだよ!! 一一才から二五才まで、あしかけ一五年間やられたことが関係ないわけがないだろ。

2018年8月30日木曜日

ヘビメタ騒音が続きすぎた

ほーんと、つまんない。
どうにかしてくれよ。

わかってる。わかる。

「つまんない」「つまんない」と言っているやつよりも、なにかに夢中になっているやつのほうが、魅力的だ。それはわかる。けど、いろいろとあって、「つまんない」「つまんない」と言わなければ、身がもたない状態になった。俺は、俺の命をつなげるために、「つまんない」「つまんない」と言っているのだ。

おなじ経験をしたら誰もが陥る場所というのがあるんだよ。やられすぎた。死ぬまでにはなんとか書いておくつもりだけど、そうなるしくみがある。キレイゴトではすまない。

ヘビメタ騒音がデカかった。ヘビメタ騒音が続きすぎた。言いようがないことだけど、事実だ。他の人にはわからない。ほんとうに、しくみが成り立っている。どれだけがんばっても、無理なんだよ。最善でこの状態になるしかない。

2018年8月29日水曜日

気持ちの記録

つかれて横になったら寝てしまった。

眠ってしまった。



いま、なんとか起きて、麻婆豆腐をつくって食べているところだ。



しかし、眠る前から考えていたことだけど、こまったところに落ち込んでしまった。陥ってしまった。ほんとうに、まったくつもりがない人が、頑固にヘビメタ騒音を鳴らし続けてこまった。どうしたってこういうところにおちていくしかないんだよな。けど、他の人は、わからない。わかるわけがない。俺の言っていることは、経験者じゃないとわからないところがある。あの生活を一〇年以上毎日続けた人なんて、俺以外にいるはずがない。まあ、似たような状態で暮らしていた人は、いるかもしれない。けど、ともかく、こまったところに陥っている。

   *   *   *

やっぱり、ぼくはヘビメタ騒音でくるしい。
だめだ。こりゃ。
この時間も鳴ってた。ずっと鳴ってた。

2018年8月27日月曜日

言霊信仰者は、原因について間違った認識を持っている 言霊信仰者の無慈悲な言葉と水俣病

今日は全般的に、うるさい。

けど、チェーンソーをいじっているのは、悪いとなりの人じゃないからいいや。となりと言ってもいろいろとある。ななめも、となりなんだよな。



あーしかし、つまんない。これ、いっちゃなんだけど、つまんない。ヘビメタ騒音がはじまってからつらいだけだ。こっちには書くべきことじゃないんだけどな。



むなしい。これから、たとえば、業務用ストアに買い物に行ったとしても、むなしいわけよ。ヘビメタ騒音を浴びずに生活して、仕事をしてリタイアして、それで、業務用ストアに買い物に行くというわけではないわけ。全部、くっついちゃっているわけよ。



ヘビメタに汚染されたあとの世界を生きている。



その汚染は、ある種の毒を含んでいてぼくの脳神経をずたずたにしてしまった。これは、やる気とかつかれとか睡眠とかそういうことをあつかう部分だ。たぶん、海馬と扁桃体が、相当に影響を受けている。



むかし、そういえば、チェーンソーを何十年も使って、仕事をしてきた人が、仕事を辞めたあと、手の震えが止まらないという症状でこまっているという話を聞いたことがある。それは、職業病として、ある程度みんななるわけ。もっとも、チェーンソーが改善されたから最近そういう話しは聞かないけど。



あとは、パンチドランカーってあるだろ。あれだって、脳みそが物理刺激を受けた後、物理刺激を受けてないのに、まっすぐあることができないとか小便が我慢できないというような症状が出る。長年の物理刺激によって、物理刺激が終わったあとも、影響が出るというのはある。



そりゃ、十年以上毎日、がんがんがんがん一日中、物理刺激を受けていたら、そういう症状が出てもおかしくない。



けど、「過去のことは現在に影響を与えない」というような考えにとらわれている人は、そういうことを無視する。無視して、「いま現在を考えればよいのだ」ということを言う。けど、これは、ヒトゴトだから言えるわけ。



たとえば、水俣病でまっすぐあることができなくなった人は、有機水銀が脳細胞を破壊したから、そういう状態になっているわけ。水俣病になる前は歩けたわけ。けど、有機水銀を摂取してしまって、時間が経っても治らない。不可逆的な変化が生じているから治らない。



だから、「歩けない」という期間が長く続くことになる。そうした場合「歩けない」ということがあるだろう。そうすると、言霊信仰者は「『歩けない歩けない』と言うから歩けないんだ」とせめるわけだよ。もちろん、言霊信仰者はせめるつもりはない。



せめるつもりはないのだけど、歩ける立場から、そういうことを言われたらせめられたような気分になるのが人間だ。そして、言霊信仰者は善意で!「『歩ける歩ける』と言えば歩けるようになるというような助言をする。これも、善意なんだよ。



けど、有機水銀が体の外に排出されないかぎり、「『歩ける歩ける』と言っても歩けない状態が続く。有機水銀が脳細胞に結びついて脳細胞を破壊するということが原因で、歩けなくなっているのだから、『歩ける歩ける』と言っても歩けない。

歩けないということは、言霊信仰者をいらだたせるのである。水俣病の患者が『歩ける歩ける』と実際に言って、歩けなかった場合は『言う回数がたりないからだめなんだ』『心をこめて言わないからだめなんだ』というようなだめ出しをする。



言霊信仰者は、原因について間違った認識を持っている。歩けなくなった理由は、有機水銀だ。有機水銀を摂取していなければ歩けたのである。それこそ、『歩ける歩ける』なんて言わなくても、歩けた。



『歩ける歩ける』と言わなかったから、歩けなかったなんてことはないのだ。問題は、脳の神経細胞に影響を与える有機水銀だ。それがわかってない。言霊信仰者にとっては『歩けないと言うこと』が歩けない原因なのだ。けど、実際に歩けなくなったから、歩けないと言っているわけで、歩けなくなる前に『歩けなくなる』といっているわけではないという問題がある。



これは、問題なんだけど、言霊主義者は行動主義心理学者のように思考が倒錯しているので、順番を間違える。この間違いはデカイ。



有機水銀で脳みその細胞が破壊されるということがわかったあとなら、そういうことは、比較的に言って少ないだろう。けど、もし、有機水銀が原因だということがわからなかったらどうか?



言霊主義者の言っていることが正しいことであるかのように誤解する人たちが増える。「そんなのは、ただなんとなく、歩けないような気分になっているから歩けないんだ」「歩けないと思っているから歩けないんだ。歩けると思えば歩ける」「そんなのは甘えている」「赤ちゃんだって、ちょっとずつ歩けるようになるのだから、ちょっとずつ練習していければ歩けるようになる」とでたらめな助言をすることになる。



「すべては自己責任」という言葉も有機水銀を気がつかずに摂取してしまった人をせめる。これに関しては、あとで書く。



けど、ポジティブにゆがんでいる心理療法家の「ことば」をまともに受けてしまった人が、いろいろとこころない発言をすることになる。はっきり言えば、無実の人の責任を追及する。傷つける。これは、言ってるほうは、いっているあいだだけ、気持ちがいいんだよ。「すべてはこうだ」「どんな場合だってこうだ」と言い切って、「いいこと」を言った気持ちになっている。けど、そういう言葉は自分にだけ言ったほうがいい。「自分は、どんな場合でも自己責任と考えて現実を受けとめる」というような場合はいい。



けど、他人もそうするべきだということになると、話がちがう。けど、そういう「話のちがい」に関して、そういう人たちは、とてつもなく無頓着だ。「これは、絶対に正しい」「これは、宇宙を貫く普遍的な法則だ」「どんな場合でも、他の人のせいにしていたら、だめだ」というようなことを言う。



けど、たとえば、ある企業が海に放出した有機水銀の「せいで」自分が動けなくなったという場合は、やはり、その企業の責任を追及していいと思う。つねに、やられた方の「責任」を追及するわけだよ……そういう人たちは。それで、いいことをいった気持ちになっている。これに関しては、そのうち書く。

2018年8月25日土曜日

兄貴が認知のブラックホールになっている

今日は、やばい気分になっている。むなしーーー。

俺がどれだけむなしいか、みんなわかってないなぁ。

俺がどれだけヘビメタ騒音でむなしい思いをしてきたかわかってない。俺がどれだけ友達から誤解されて、くるしい思いをしてきたか、みんなわかってない。

ヘビメタがすべてをうばった。俺から、すべてをうばった。親友も友達もうばった。そうなる、経路がある。そうならざるを得ないのである。それが、気違いによるヘビメタ騒音だ。あんなにデカイ音で鳴らしているのに、デカイ音で鳴らしてないつもりでいる。あんなに、何回も何回も「やめてくれ」と言ったのに、一回も言われなかったつもりでいる。全部そうなんだよな。そうやって、俺からうばっていく。ぼけで、うばっていく。どんだけのことが続いたか?

ほんとうに、しくみがある。さっきは経路と言ったけど、しくみがある。時間的な経路がある。そのしくみは説明することが困難なんだけど、たしかにある。しくみがある。兄貴や親父がブラックホールになって、他の人から理由が見えなくなってしまうのだ。ほんとう、ブラックホール。あいつらがブラックホールだから、普通の人の対人認知がゆがむのである。ようするに、俺に対する認知がゆがむ。普通の人が整合性を維持したまま俺のことを認知しようとすると、実は、その整合性の維持が、ゆがんだ認知を引き起こす。時系列的にそうなる。どうしてかというと、兄貴がぼけているからだ。兄貴が普通の人が考えられないような認知のしくみをもっていて、その通りに行動するからだ。兄貴の認知がズレているから、他の人が誤解をする。気違い兄貴が認知のブラックホールになっている。あんなのはない。だいたい、本人が一番わかってないからな。他の人がわかっている部分もわかってないからな。やっている張本人が一番わかってないというのが、うちでの、自然なあり方だ。うちでそうだけど、よそはちがう。だから、埋め合わせるために、よその人の認知がゆがむ。

2018年8月23日木曜日

認知療法家と鬱病ともと鬱病患者


これはちょっと、考えがはっきりしてないから説明するのがむずかしいのだけど、ちょっと説明をこころみようと思う。それは、鬱病に関することだ。やっぱり、説明がむずかしい。鬱病と診断するには、他の理由を排除しておかなければならないのである。

けど、ほんとうに他の理由を排除するというプロセスが診断で行われているかというと、行われていないというのが現実だろうと思う。要するに、他の理由で、鬱病のような状態になっている人が、鬱病と診断されることがある。

それから、鬱病というと、狭い意味で『病気』であるように思われるけど、鬱病は『気分障害』の一種であって、狭い意味での病気とは言いがたい。ようするに、はっきりとした原因があるものではないのである。

狭い意味での病気というのは「はっきりとした原因」がわかっているものだ。鬱病の場合は、はっきりとした原因はわかっていない。鬱病は、狭い意味での病気ではなくて、一種の症候群のようなものだ。

しかし、認知療法家は鬱病の原因を『ゆがんだ認知』だと考える。だから、ゆがんだ認知がゆがんでない認知になれば、鬱病は治るのである。

問題なのは、もと鬱病患者や認知療法家の本を読んだ一般人が、現鬱病患者にいろいろなことを言うことだ。だれもが、認知療法家もどきになって、『自動思考をやめれば、鬱病は治る』とかなんとか、言い出すことだ。もと鬱病患者を名乗る人たちは、相当に問題がある人たちだ。

自分の狭い体験をもとに、ああだこうだと言いまくる。『事実、自分はそうだった』『事実、認知療法のカウンセラーがそう言った』「これは、心理学の実験で確かめられたことだから正しい』というようなことを言う。こういう決めつけが現鬱病患者に悪影響を与えるのではないかと思っている。

まあ、言うと言っても、ネットでそういうふうに思うということを書くだけだから問題は少ない。しかし、『鬱病はこうだ』『鬱病患者はこうだ』『鬱病は甘えだ』というような決めつけがあるんだよな。

で、『鬱病はあまえだ』以外は、たしかに、認知療法家もそう言っているという部分がある。劣化コピーだけど、完全な勘違いと言えるものではない。だから、やはり、ここらへんは、ただしておく必要があるのかもしれない。


2018年8月22日水曜日

フロイトとアドラー フロイトのほうが正しい


これ、朝だけど、やっぱり、ヘビメタ騒音の感じがある。あんまりにも長く繰り返しすぎて、頭に焼き付いているよ。トラウマはあるよ。これ、トラウマはないとか言い出す人がいるんだよ。たしかに、そのひとにとっては、トラウマはないのだろうけど、ある人にはある。そのひとは、どんな人にも、人間ならばかならず、トラウマはないという意味で『トラウマはない』と言っているわけ。(中略)。アドラーだけど。アドラーはフロイトの弟子なのに、フロイトが言っていることがまったく理解できなかったかわった人だ。フロイトのもとを、ユングとアドラーが去ったとき、フロイトは「アドラーはおしくないけど、ユングはおしい」と言った。それがすべてを物語っている。そういうことだ。

2018年8月21日火曜日

『やりがちの世界』『血で血を洗う世界』になってしまう

スピ系の人が『どんな場合も、不平不満を言うべきではない。不平不満を言われた人が傷つくから』と言った場合、どういう世界を想像しているのかわかる。

けど、それは、ユートピアじゃなくてディストピアだ。

かりに人びとがどんな場合でも不平不満を言わない世界というのを考えてみよう。いまの、精神レベルなら『やりがちの世界』『血で血を洗う世界』になってしまう。

いまの社会には、どぎつい迷惑行為をやる人間がいる。不平不満を言われなかったらずっと、迷惑行為をやり続けてしまう。いまの社会には、自分勝手な欲望にかられて、人を傷つける人間がいる。『不平不満を言う』人がいなくなったら、そいつは、ずっと、自分勝手な欲望にかられて人を傷つけまくる。

不平不満を言う人がいないのだから、そいつは、『それでいい』と思ってずっとそういう行動をとってしまう。やられた方だって、不平不満を言わずに、爆発してやり返すかもしれない。不平不満を言って注意をうながすということができないのだから、ある程度、怒りがたまったところでやり返すしかない。

だれもが不平不満を言わないのだから、裁判所も必要ないだろう。

闘って生き残った方が勝ちだ。
そういう世界になってしまう。

『どんな場合も、不平不満を言うべきではない。不平不満を言われた人が傷つくから』と言っている人が思い描いている『だれもが不平不満を言わない世界』というのは、こういう世界ではないと思う。

しかし、そうなる。

『どんな場合も、不平不満を言うべきではない。不平不満を言われた人が傷つくから』などと言う人は、個々人の精神レベルがものすごく高くなった世界を想定して、そういう発言をしているだけなのである。

だから、本人は『いいこと』を言っているような気がしているはずだ。『どんな場合も、不平不満を言うべきではない。不平不満を言われた人が傷つくから』と言っている人は『不平不満』を大気汚染のようなものだととらえているのである。だから、不平不満を言う人がいなくなれば、そのぶん空気がきれいになり、(自分は)生きやすくなると思っているのだ。

しかし、いまの精神レベルで、だれもが、どんな場合でも不平不満を言わない世界というのは、『やりがちの世界』になってしまう。

2018年8月20日月曜日

無料セール中 騒音サイコパス 20: 兄のヘビメタ騒音で人生がない

無料セール中
騒音サイコパス 20: 兄のヘビメタ騒音で人生がない

人生がない
人生がない
人生がない

ほんとうにどうしてやめてくれなかった?
兄貴がやめようと思えば、いくらでもやめられた。
兄貴がヘッドホンをしようと思えば、いくらでもヘッドホンをすることができた。
一日中、ヘッドホンをして鳴らすことだってできた。
けど、兄貴は一日中、スピーカで、軟調になるほどデカイ音で鳴らすことにこだわりつくってし、一日中デカイ音で鳴らした。鳴らし続けた?

俺はさんざん言ったぞ。
どうして、やめてくれなかった?????
どうしてだ!!!

ぼくはやっぱり、頭がおかしい家族にやられ続けてくるしい。
頭がおかしいことをやる人が、家族だった場合、ものすごくこまることになる。こまるんだよ!!!!



↓アフィリンクではありません
https://www.amazon.co.jp/%E9%A8%92%E9%9F%B3%E3%82%B5%E3%82%A4%E3%82%B3%E3%83%91%E3%82%B9-%EF%BC%92%EF%BC%90-%E5%85%84%E3%81%AE%E3%83%98%E3%83%93%E3%83%A1%E3%82%BF%E9%A8%92%E9%9F%B3%E3%81%A7%E4%BA%BA%E7%94%9F%E3%81%8C%E3%81%AA%E3%81%84-%E3%82%A8%E3%82%A4%E3%83%AA-ebook/dp/B074S8FDHD/

人は言う『自分で楽しくしなかったら楽しくならないよ』と。

人は言う『自分で楽しくしなかったら楽しくならないよ』と。



……そういうレベルじゃないんだよね。ヘビメタ騒音一四年生活は、そういうレベルの生活じゃない。一四年目以降も、そうなんだよ。これ、どれだけのことか、他の人にはわからない。

そういうレベルの話しでもない。これ、「われとひと」の差を感じるよ。どれだけ離れているかわかる。

   *   *   *


いやー、まじ、つまんねぇ~~~
つまんない。つまんない。

   *   *   *

なんか、あまい菓子パンをやけ食いしたい気分だなぁ。そんなことをしたって、なんもいいことがないが。それはわかっているけど……。

いや、ほんとう、つまんないんだよ。つまんないのぉ。つまんない。どうしょうもなく、つまらない。これ、ほんとうに、ヘビメタ騒音で疲れ果てて、なんの展開もなかったよ。それでも、チャンスは何回もあったんだよな。いい友達にも囲まれていた。

俺がいい人なので、俺の友達もいいひとばっかりだった。ただ、ヘビメタがブラックホールになってしまうんだよね。ヘビメタがあるとすべてがだめになる。

   *   *   *
無料セール中
引きこもりの現象学 引きこもりのタイプと対策:

↓アフィリンクではありません
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B01D3ZOI6K/


2018年8月19日日曜日

『つかれ』あるいは『つかれた状態』をいっしょくたにしてはいけない

なんとか、起きた。なんとか……。



つかれた。もう、なんかつかれはてたなぁ。この、つかれはなんだろうか? つかれた。



まあ、矛盾しているようだがドクターペッパーを買いに行こうかと思う。なんとか、歩いているうちに、元気が出るようにしむける。けど、なんて言うのかな? これまた、矛盾しているようだけど、ドクターペッパーを買いに行けるということは、かなり元気なんだよ。この時点で、そういうエネルギーは残っている。

けど、これが、ドクターペッパーを買いに行くことさえできないような状態になることもある。その時のつかれは、いまのつかれよりも、上だ。つかれにも種類があるんだよな。

だから、そういう、『つかれ』あるいは『つかれた状態』をいっしょくたにして『できると言えばできる』とか『できると言えばできるというのはおかしい』ということを言っても、しかたがない。



けっこう重要なんだよ。これ、けっこう重要だから。赤線引いておいて~~

   *   *   *



無料セール中
引きこもりの現象学 引きこもりのタイプと対策:

↓アフィリンクではありません

https://www.amazon.co.jp/gp/product/B01D3ZOI6K/

2018年8月18日土曜日

けど、実際には、警察も裁判所もある 不平不満を言うべきではない(4)

たとえば、すべての人が「不平不満を言うと、人が傷つくので、どんな場合でも、不平不満を言わないようにしよう」というように考えてくれるような理想社会を考えたとする。

その場合は、ほんとうにそういうレベルで「ひとのこと」を考えてくれる人ばかりなので、いじめもパワハラも、普通の犯罪もない社会だと思う。

まあ、もちろん、過失はある。過失による事故はあるだろう。そういう社会でも。けど、みんなそこまで、気を遣ってくれるのだから、相手の立場を考えて、裁判になるようなことはないだろう。

ここでは、過失による事故もない社会を考えてみよう。そういう社会は、いい人ばかりによって構成される社会だから、不平不満に思うことも少ない社会になるのではないだろうか。なぜなら、『不平不満と思えることを言うと、人が傷つくので、絶対に言わないようにしよう』と思うレベルで、人のことを考えてくれる人たちによって構成される社会だからだ。

こんなことを気にする人たちが、パワハラやいじめをするはずがない。こんなことを気にする人たちが、迷惑行為を『注意された後も』頑固に繰り返すはずがない。こんなことを気にする人たちが、万引きや暴行といった犯罪をするはずがない。

「不平不満を言うと人が傷つくので、不平不満を言うのはやめましょう」というようなことを言う人たちの頭のなかでは、社会はすでにそういう人たちだけで構成される社会に昇格?されているのである。

犯罪をおかす人間、他人を自殺に追い込むような迷惑行為をする人間、パワハラやいじめをする人間が、実際の社会にはいーーっぱい!!いーーっぱい!!いる!! 

実際には、いっぱいいるのに、いっぱい!!いるということを(理想世界の住人は)過小評価してしまう。あるいは無視してしまう。

そうすると、実際には他人を自殺に追い込むような迷惑行為をする人間に、自殺に追い込まれる人間もいるわけだから、問題がしょうじる。

はっきり言えば、現実を無視して、表面的なキレイゴトを押しつけるということは、そういう被害者側の人間を追い込むことになってしまうのである。どうしてこれがわからないのか?

現実社会には、犯罪者、死にいたる迷惑をかける人たち、いじめやパワハラをする人たちがいる。そういう人たちがいるのだから、そういうことをされて、不満不平を抱える人たちだっているということになる。

そういう人たちに『どんな場合でも不平不満を言うべきではない』とせまるのは、よくない。こういうキレイゴトを言う人は、警察も裁判所もいらない社会を想定してものを言っているのである。

どんな場合でも不平不満を言うべきではないと言う人たちは、警察も裁判所もいらない社会の住んでいる。頭のなかでは、そういう理想社会の中に住んでいる。

けど、実際には、警察も裁判所もある。

どうしてかというと、他者の行為によって『傷つく』人たちがいるからである。自分の勝手な都合で他者を激しく傷つける人たちがいるから、警察や裁判所が必要になる。

被害者が『不平不満』を感じるから、裁判であらそわなければならなくなるのだ。それは、『不平不満を言われたから』自分が不快に思うといった程度の不平不満をはるかにこえた不平不満だ。だからこそ、裁判にうったえなければならなくなるのだ。

精神レベルが高い人たちのみで構成された社会なら「どんな場合でも不平不満を言うべきではない」というルールが成り立ってもよいけど、実際はそうじゃないから、そういうルールがもし実際に成り立ってしまった場合には、ものすごく悪い社会になるだろう。そういうことが、キレイゴトを言う人たちには、まったくわかってない。

   *   *   *

無料セール中
引きこもりの現象学 引きこもりのタイプと対策:

↓アフィリンクではありません
https://www.amazon.co.jp/gp/product/B01D3ZOI6K/

2018年8月17日金曜日

『これが不平不満である』というような文それ自体がない 不平不満(3)重複あり


もうひとつは、不平不満というのは、かならずしも実体があるわけではないということだ。かならず、だれもが不平不満だと認識する「話し(言葉の実体)」というのは、存在しない。



ようするに、話しを聞いた人が『不平不満』だと判断すると、不平不満になるということだ。話しを聞いた人が誰かの話を『不平不満だ』と判断すると「不平不満を言われた」ということになる。たとえば、EさんがFさんに、悩みを言ったとしよう。この場合、Fさんが「不平不満を聞かされた」と思えば、「Eさんは不平不満を言った」ということになるのである。Fさんのなかでは!


EさんがGさんに悩みを言ったとしよう。この場合、Gさんが「Eさんは自分に悩みを打ち明けた」と思えば「Eさんは悩みを打ち明けた」ということになるのである。Gさんのなかでは「Eさんは不平不満を言ったわけではない」ということになる。


不平不満だけではなくて、たとえば、のろけ話とか自慢話ということにも、おなじことが成り立つ。たとえば、Eさんが『自分の夫の行動について』FさんとGさんに言ったとする。



その場合、聞かされたFさんが「Eさんはのろけ話をした」と思えば、Fさんのなかでは「Eさんはのろけ話をした」ということになる。おなじことを聞かされたGさんが「Eさんは夫の行動について話した」と思えば「Eさんは特にのろけ話をしたわけではない」ということになる。


『受けとめ方』が問題なのだ。これに関しては、受けとめ方はいろいろだということにしておく。ほんとうは、事柄それ自体を事柄それ自体と考えよいのかどうかという問題がある。それに関しては、ここでは突っ込まない。その話はあまりにも哲学的だから、ここでは、『同じ内容を聞かされても、受けとめ方がちがう』というところで、打ち止めにしておく。


+++++


たとえば、「おまえら、たたき斬ったる」というような物騒な発言を誰かがしたとしよう。これは、『不平不満』である可能性が高い発言だ。



しかし、「おまえら、たたき斬ったる」という文だけを考えて、それが不平不満であるか不平不満でないのかということを決定することができない。



また、一〇〇人にアンケートをとって、一〇〇人中一〇〇人が「おまえら、たたき斬ったる」という文が不平不満の表明だと判断したとしよう。



しかし、一〇一人目が否定する可能性は、否定できない。一〇一人目が「たしかに、不満不平だ」と答えたとしても、一〇二人目はどうだかわからない。



一万人中一万人が「これは、不平不満である」と考えたとしても、一万一人目は、わからない。だから、たしかに、これが不平不満であると決定できるわけではない。



それから、不平不満だと『思われる可能性』が高い文を、何個集めても、それで、不平不満それ自体になるわけではないという問題がある。



『まるまるはひどい』『まるまるが嫌いだ』『まるまるは人間じゃない』というような『文』それ自体を何個集めても、『不平不満』それ自体とはイコールにならない。



何度も言うことになるが、『不平不満』というのは、それを聞いた人が『不平不満だ』と判断したときに、『不平不満になる』というものだ。



誰のなかで不平不満になるかというと、その人のなかで不平不満になる。逆に言えば、その人のなかだけで不平不満になるものだと言える。



個別の『誰にとっても不平不満である』文、あるいは、個別の『誰にとっても不平不満である』発言が決まっているわけではない。



しかし、人々が不平不満であると考える可能性が高い文はある。だから、この場合、不平不満それ自体が決まっているわけではなくて、不平不満であると多くの人が判断する可能性が高い文と、多くの人が不平不満であると判断する可能性が低い文があるということになる。そのようなものでしかないと言える。

たとえば、『私はあなたが好きだ』は不平不満である可能性が低い文だが、『私はあなたが憎い』は不平不満である可能性が高い文だ。『ゆるせない』『おまえらは、人間じゃない』『たたき斬ってやる』と真剣を持ちながら言った場合は、不平不満である可能性が高い文(複数)だ。しかし、ゆるせない』『おまえらは、人間じゃない』『たたき斬ってやる』の場合は、不平不満の表現と言うよりも、むしろ『怒りの表現』と普通の人は考えてしまうのではないだろうか。だから、不平不満の場合、むしろ、直接的な行動には出ないというような意思が表明されている場合が多いのではないかと思う。
『ぶっ殺してやる』『ぶん殴ってやる』などは、不平不満の表現と言えば不平不満の表現ととれるけど、『怒りの表現』と言えば、怒りの表現ともとれる表現だ。

好意の表現……愛している。好きだ。気に入っている。大事にしたいと思っている。かわいい。(不平不満である可能性が低い表現)
嫌悪の表現……嫌いだ。にくい。気にくわない。まるまるはひどい。ゆるせない。かわいくない。(不平不満である可能性が高い表現)
怒りの表現……ぶっ殺してやる。ぶった斬ってやる。なぐってやる。倒してやる。(不平不満である可能性が高いが、不平不満の域をこえて、怒りの領域にすすみつつある表現)

こんな感じかな。

「愛している」が不平不満の表現であると思う人はいないと思う。しかし、『私はCさんを愛している』『けど、Cさんは振り向いてくれないんだ』と言った場合、ふたつの文を続けて解釈すると、全体では不平不満だと思う人も出てくる。うしろの文が前の文に影響を与えるわけだ。話しには、全体の流れがあり、全体の流れを聞いたあとに『不平不満である』とか『不平不満でない』ということを(聞いた人が)判断するわけだから、文同士の前後関係は重要である。

人間は皮肉を言う場合もあるし、おなじ表現なのにまったく逆の意味を持つ場合もある。
「あいつはにくいやつだ」の「にくい」があいつに対する嫌悪の表現ではなくて、好意の表現である場合がある。また、「かわいい」が皮肉である場合もある。

2018年8月14日火曜日

不平不満を言われたら『傷つく』とは限らない (2)「吉良上野介吉央はひどい」「吉良上野介吉央はゆるせない」

(つづき)

そのむかし、赤穂浪士は吉良邸に討ち入りしたのだけど、当然、赤穂浪士には「吉良上野介吉央(きらこうずけのすけよしひさ)はひどい」「吉良上野介吉央はゆるせない」という気持ちがあった。

だから、赤穂浪士のなかで、「吉良上野介吉央はひどい」「吉良上野介吉央はゆるせない」といった不平不満を口にしても、『不快に思う』人がいなかったのではないかと思う。

だれかが「まるまるはひどい」「まるまるはゆるせない」といった多くの人が『不平不満』と考えそうなことを口にしても、それを『自分に関係がない不平不満』としてとらえるか、『自分に関係がある不平不満』としてとらえるかで、不快に思うかどうかはちがってくる。

だれもが、不平不満を言われたら『傷つくとは限らない。自分に関係がある不平不満であり、なおかつ自分もそう思っている不平不満なら、別に、どれだけ言われても、傷つかない。

だれかが言っている不平不満(と思えること)が、自分にとって関係がない不平不満だから、『不愉快に思う』のだ。『傷つく』と言っているけど、だれかが自分に不平不満を言うことや、だれかがだれかに不平不満を言うところを自分が聞いてしまったということが、そのひとにとって『不愉快な体験』だから、傷つくと考えているのだ。

自分が傷つくのだから、他人もみんな傷つくだろうという類推が働いている。

しかし、いままで述べてきたように、だれかがだれかに不平不満を言った場合、言われたほうが傷つくとは限らない。

『忠臣蔵』はどうして受けなくなったか?

昨日、赤穂浪士について調べた。これが、史実と『忠臣蔵』などのドラマとでは、だいぶちがうみたいなのである。史実のほうは、あんまりはっきりしない部分がある。

あと、関心事は、『忠臣蔵』を年末にやらなくなった理由である。まあ、『飽きられた』ということはあるのだろうけど、他にもいろいろと理由がある感じがする。

ひとつは、『忠臣蔵』が四七人で、ひとりの人間を殺しに行くものがたりだということが、ネックになっている感じがする。実際には、討ち入りをしたのは四六人だったらしいけど……。

『討ち入り』と言うと、なんとなく格好いいけど、ようは殺しに行くということだ。そういう部分が受けなくなった理由のひとつだと思う。いちおう、悪役だけど「ひと」だからなぁ。

もうひとつは、『忠義』というような考えが、支持されなくなってきたのではないかと思う。『忠義』のエートスがなくなったから、人々はそういう話しに感情移入できなくなったのではないだろうか。

忠義ではないが義理ということに関しもおなじことが言えると思う。むかし、義理と人情のあいだにはさまれて葛藤するヤクザ映画がはやったことがある。この場合の義理とは『恩義』ということである。『一宿一飯の恩義』とおなじことである。『義理』がなくなってしまったのだから、あるいは『義理』を感じるもとのこころがなくなってしまったのだから、『義理』と『人情』のあいだで葛藤する人の気持ちがわからなくなってしまったのではないか。

あるいは、関心がないものになってしまったのではないか。なくなってしまったと言っても、完全になくなってしまったわけではなくて、影をひそめた、あるいは、威力をなくしたということだ。『忠義』は武士だけの話じゃないし、『義理』はヤクザの話しだけじゃない。

会社に対する『忠義』、社長に対する『義理』というものが、たいへんな威力を持っていた時代があったのではないかと思う。しかし、それらが力をなくしたのではないだろうか。『忠義』や『義理』が威力をなくしたので、忠臣蔵が受けなくなったのではないかと思う。



2018年8月13日月曜日

「不平不満を言われたら」人がかならず傷つくか どんな場合でも不平不満を言うべきではないということに考えてみた(2)


ここでもう一度「どんな理由があっても、不平不満を言うことで人を傷つけてはいけないということを誰かが言った場合」について考えてみよう。

この発言にはいくつかの前提が必要だ。ひとつは、不平不満を言えば、かならず人が傷つくということだ。不平不満を言った場合、言われた者が傷つく場合と傷つかない場合がある。

たとえば、ある企業は、商品に関する不平不満を訊いて、商品を改良しようしている。この場合、その商品のユーザーが不平不満を言うことは、よいことなのである。

また、ある企業は、職場の不平不満に耳を傾けるかもしれない。よりよい職場を作るためには、現在の不平不満に対処しなければならないのだから当然だ。不平不満を言うこと「自体」は、かならず、人を傷つけるというわけではないのだ。

そのほかにも、政治に関する不満は、政治家に伝えたほうがいい場合のほうが多い。むしろ政治に関する不満は、ちゃんと伝えたほうがよいと思う。

また、不平不満の対象になっている人に対して、おなじような感情を持つものは、不平不満について聞かされても、傷ついたりしない。

たとえば、AさんとBさんとCさんがいたとする。Aさんは、BさんとCさんの共通の上司だとする。で、AさんとBさんが、酒場で、Cさんに関する不平不満を話したとする。それがいいことだとは言わない。AさんとBさんは、かげで、Cさんの悪口を言っている……と考えることもできるから。けど、ここではそういうことは、考えないで、ただ単に「不平不満を言われたら」人がかならず傷つくかということだけを考えるようにしよう。Aさんが、Bさんにむかって、Cさんの言動に関する不平不満を言ったとき、BさんがAさんとおなじことを考えている場合は、別にBさんは傷ついたりしない。だから、この場合も、「誰かが誰かに、不平不満を言ったら、言われた人はかならず傷つく」という前提が間違っているということがわかる。

「誰かが誰かに、不平不満を言ったら、言われた人はかならず傷つく」という前提が成り立たないのだから、「どんな場合でも、不平不満を言うべきではない」ということも成り立たない。




2018年8月11日土曜日

「あれだけ、言ったのに」

セブンイレブンの冷凍スパゲッティーを食いたい気もする。しかし、セブンイレブンは食べて応援プログラム参加企業。



ちょっとずつ片付けていけば、いつかは片付く。

散らかる速度よりも、片付ける速度のほうがはやければ、いつかは片付く。いつかは……。



ところで、なんか、お菓子に期待をかけたくなったけど、やめた。無理だよね。お菓子で、リフレッシュ! あり得るけど、あり得ない。いまは、だめだ。



ともかく、シャワーはありがたい。



繰り返しになるけど、エアコンとシャワーがあるのに、この気分。どっちもなかったときよりも、生活の質は向上しているはずだ。それなのに、ヘビメタ騒音のことで、暗くなるばかりだ。「あれを、気がつかずにやったのか」というような気持ちが、浮かび上がる。「あれだけ、言ったのに」というような気持ちが、ふつふつと浮かび上がる。

ほんとう、ムキになって夢中になってやっているのに、やっているつもりがないのかよ。いつもひどいことをしていたのに、ひどいことをしているつもりがないのかよ。どれだけ言ったと思っているんだよ? 何万回言っても、親父のようにまったく、伝わらないんだよな。この『ツタワラナサ」がひどすぎる。ひどすぎる。あんなのはない。で、他の人にも、このツタワラナサは、わからないのだけど、当の本人がまったくわかってないというのがおかしいんだよな。それも、親父とおなじなんだよな。まったくおなじ。張本人が一番、気がついてない。関心がない。どれだけ言われても、やっているということに気がつかない状態なんだよな。けど、本人は真っ赤な顔をして、やる。やり続ける。殺さなければとめることができない。俺は、兄貴は知っているのかと思った。兄貴は親父じゃないから、完全におかしい人ではなく、知っててやっている悪い人なのかと思っていた。これ、兄貴も親父もまったくおなじだった。

これで、外に出るとなると、やはり、ヘビメタ騒音に『焼き出された』ころの感情がよみがえる。よみがえると言うよりも、現在進行形なんだよな。くるしい。で、あれだけ長く、あれだけ無頓着な人?にやられたし、だれだって、こういう状態になるのに、こういうことを言えば、俺が異常だと思われる。実際に、気分はよくない。けど、一〇〇人中一〇〇人が、気違いヘビメタ騒音を一四年間にわたって毎日、ヘビメタ騒音を経験したら、こういうことになると思う。で、学生時代、家でまったく勉強ができないということが与える影響がでかすぎる。これも、そうではなかった人にとっては「なんだそんなこと」と言えるようなものなのだ。

   *   *   *

よい気分を保つこと……に関してはまるで、能力のようにあつかわれるわけだけど、能力というよりも、経験なのではないだろうか。『よい気分』を保つ能力が高い人と低い人がいる。よい気分を保つ能力が高い人はよい人で、よい気分を保つ能力が低い人はだめな人だというようなメタな考え方があると思うんだよな。けど、経験だろ。経験が悪すぎると、どれだけ『よい気分を保つ能力がある人』でもだめになると思う。

2018年8月10日金曜日

普段、普通に不平不満を言っているのに、本人は気がつかない

「どんなことがあっても不平不満を言うべきではない」と言っている人も、実は、普通に不平不満を言っていると思う。


ただ、本人が不平不満だと思ってないので不平不満を言わなかったことになっているだけだと思う。いままで述べたように、不平不満というのは、聞かされたほうが判断することだ。言ったほうが、不平不満だと思ってなければ、不平不満を言ったということにならない。


「どんなことがあっても絶対に不平不満を言うべきではない」なんて格好いいことを言っている人だって、通販で不良品が届けば不平不満を言うし、ストアでなにかものを買ったとき、店員が釣銭を間違えば、不平不満を言うはずだ。

自分が普通に道を歩いていただけなのに、ヘンな人にナイフで刺されたら、不平不満を言うはずだ。交通事故に巻き込まれたら不平不満を言うはずだ。隣の部屋の人が何時間も、ものすごくデカイ音でステレオを聴いていたら、不平不満を言うはずだ。入院をしていて、看護婦が点滴の種類を間違ったら不平不満を言うはずだ。『点滴の種類を間違ったって、いいんですよ』なんて、ニコニコして言うはずがない。命にかかわることで、間違われたら、不平不満を言うはずだ。不平不満を言ったあと、注意をうながすことを言うはずだ。

鳩ふん公害に悩まされたら不平不満を言うはずだ。エアコンの工事を担当した人が、ちゃんと設置してくれなかったら、不平不満を言うはずだ。他人が『自分』をバカにしたら、その他人について不平不満を言うはずだ。


「どんなことがあっても不平不満を言うべきではない」と言っている人は、普段、自分が『自然に』不平不満(と他人から思われること)を口にしているのだけど、自分は不平不満を一回も口にしたことがないと思っているしあわせな人なのだと思う。

けど、自分が「どんなことがあっても不平不満を言わないようにしよう」と思っている人はいい。他人も「どんなことがあっても不平不満を言うべきではない」と言うとすると問題がしょうじる。











   *   *   *



ちなみに、これはまったく関係がないことだけど、『不平や不満』と『不平不満』は完全にイコールではない。コロケーションがちがうということがわかってしまった。最初、不平や不満という表現を使って書いたところがあった。実は不平不満ではなくて、不平や不満という言葉で統一しようとしたんだけど、統一できなかった。不平や不満で書き直すと、不自然な文になってしまう箇所が何カ所かあった。めんどうだな。

2018年8月9日木曜日

どんな場合でも不平不満を言うべきではないということに考えてみた(1)

そりゃ、ひとにはなるべく不平不満を言わないほうがいい。それは、わかる。しかし、『どんな場合でも』というような条件はつかない。『言わないほうがいい』というような努力目標と、『どんな場合でも言わないほうがいい』というような努力目標は、根本がちがう。

また、人に対して『普遍的真理として』……『どんなときでも不平不満を言うべきではない』ということを押しつけている人は、自分がなにをしているかわかってない。その人が押しつけていることは、不平不満を言うことよりも、ひどいことだ。

これ、ほんとうにつらい思いをしたことがないからわかってないだけだ。

ずっと、何十年も続くつらい思いを経験したことがないからわからない。

しかも、そのつらいことというのが他者によってもたらされるものであるというケースを経験したことがないから、そういうことが言える。はっきり言えば、『どんな場合でも』不平不満を言うなというのは、ひどい命令(あるいは押しつけ)なのである。

ほんとうに、特殊な人の特殊な状態がわかってないんだよな。誰か不平不満を言えば、不平不満を聞かされた人が傷つくので言ってはいけないということなのだろう。『どんな場合でも』というような条件がつかず、一般論として言っているのであれば、肯定できる。

しかし、例外があるということは先に認めていなければならない。例外がある話しであるのならば、納得できる。しかし、例外なく、どんな場合でも、どんなにひどいことをされても、言うべきではないということには、納得できない。

「その人」という言葉で書くといろいろと混乱が生じるので、とりあえず、Aさん、Bさん、Cさんがいるとしよう。AさんがBさんの家族で、Bさんに対して何十年も毎日ひどいことをしたとする。Bさんは毎日死にたい気持ちで生きていたとしよう。

その場合、BさんはAさんに対して不平不満を言うことは、ゆるされる。Bさんは、Aさんの行為で死にそうになっているので、Bさんに不平不満を言い、その行為をやめるようにせまることができる。できるというのは、やってもいいことだという意味だ。けど、そういう行為でさえも、『どんな場合でも、不平不満を言うべきではない』という普遍的なルールには抵触することになってしまうのである。次に、BさんがCさんに対して、「自分はAさんの行為で死にたい」と言ったとしよう。

その場合、たしかに、Cさんにとってはよくないことだけど、それが絶対にゆるされないことかというと、そうではない。Bさんが、Aさんの行為というCさんにはまったく関係がないことについて不満を漏らすことは、よいことではないかもしれないが、Aさんの行為とはちがって、許容範囲内の行為だと思う。

また、Cさんは「自分に対して不平不満を言わないでくれ」とBさんに言う権利もある。だから、BさんもCさんも『不平不満』を言ってもいいということになる。不平不満を言うということは、たいして悪いことではない。もし、それが、殺人級の悪いことなら、人は毎日、殺人級の悪いことをしあっているということになってしまう。

日常生活のなかで、多少の不平不満を「きかされること」は、許容範囲なのである。もちろん、不平不満はなるべく人に言わないほうがいい。しかし、日常生活のなかでは許容範囲内の行為だ。

もし、Cさんにとって、Bさんの言っていることが、タダの不平不満なら、Cさんは「俺に、そんなことを言ってくるな!」とどなりちらすことだってできる。Cさんには「俺に不平不満を言うな!」と不平不満(と思われる可能性がある言葉)を言う権利がある。

どうしてなら、日常生活のなかで、不平不満を言うことは、ある程度許容されているからである。それは、Cさんにも保証されていることだからだ。

『悪さの度合い』ということを考えてみよう。たとえば、AさんがBさんに毎日やっている悪いことを一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇だとする。そうすると、BさんがAさんに『不平不満』を言うことは一ぐらいの悪さなのである。また、Bさんが(その問題に関係がない)Cさんに、Aさんとのことで不平不満を言うことは、一〇ぐらいの悪さだ。一〇と一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇をくらべてみれば、一〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇〇のほうがでかいと言える。

しかし、その場合でもCさんには『俺に不平不満を言うな!』という不平不満を絶叫する権利があるので、それを行使すればよいということになる。誰か他の人(Dさん)が、このCさんの行為を『不平不満を言う』行為だとみなす場合がある。DさんにとってはCさんは『不平不満を言った』ということになるだろう。だからこの場合、Dさんの視点からすればCさんは『どんな場合でも』不平不満を言ってはならないというルール(普遍的な原理原則)をやぶっていることになる。

ところで、AさんBさんCさんのなかで一番悪いのはAさんなのである。

しかし、DさんはAさんの悪さに関してはまるでなにも言わない。ただ単に、『どんな場合でも不平不満を言うことは悪いことだ』ということを言っているだけなのである。実は、Dさんは自分が『どんな場合でも』不平不満を聞かされたくないという願望を持っていたとする。その場合、不平不満を聞かされるということは、Dさんにとっては相当に悪の度合いが高いことなのである。

けど、人殺しと不平不満を言うこととどっちが悪の度合いが高いことかと言えば、普通は、人殺しのほうが悪いことだろうということになる。あるいは、毎日、人をいじめて、その人を自殺に追い込むことは、不平不満を言うことよりも、普通に言って、悪の度合いが高いことなのであるとぼくは思う。

Dさんのなかでは、不平不満を言うことは、人を殺すことや、人を自殺に追い込むことよりも、悪いことなのかもしれない。どうしてなら、『どんな場合でも』不平不満を言うことは悪いことだと言っているからである。

Aさんにいじめられて、Bさんが自殺を考えているような状態でも『不平不満を言うべきではない』のである……Dさんにとっては。どうしてなら、例外なくどんな場合でも不平不満は言うべきではないとDさんは考えているからだ。

Dさんは、例外なく、普遍的に絶対に正しいこととして『不平不満を言うべきではない』と言っているのである。

『どんな場合でも、不平不満を言うべきではない』という視点から見れば、Bさんが悪いということになってしまうのである。Aさんはこの場合、悪い度合いは〇(ゼロ)であり、Bさんは言ったぶんだけ悪いということになってしまう……Dさんのなかでは。『どんな場合でも、不平不満を言うべきではない』のだから不平不満を言ったBさんは、するべきではないことをした悪い人だということになる……Dさんのなかでは。

普遍的真理はいつでも、全体に求められるものであって、全体に対し適応されるものであるから、例外がない。例外があるということを認めているわけではないのだ。そうなると、傷つく人がでてくる。

実際には、他者がやることが原因で自殺を考えているような人にとっては、「どんな場合でも、不平不満を言うべきではない」というルール(普遍的な原理原則)それ自体がその人自身を傷つけるものなのである。そりゃ、「じゃあ、自分を自殺に追い込むようなことをしている人間はどうなんだ?」という疑問がわくからだ。

「不平不満を言うことがそんなに悪いことであるなら、人を自殺に追い込むようなことを毎日頑固にやり切るということは、悪いことではないのか」と考えるからである。

Dさんは不平不満を言うということ全体が、人を自殺に追い込むことよりも悪いことだと思っているのだろうか? そんなことは思ってないだろう。

けど、『どんな場合でも』という言葉を使った場合、不用意にそういうことを主張しているということになってしまうのである。『どんな場合でも』というのは、そのくらいの威力がある言葉なのだ。不用意に使うべきではない。例外があるということを先に認めておくべきだ。


不平不満を言うこと……を抽象的に考えると、まわりが見えなくなってしまうのである。たとえば、実際に、AさんがBさんにやっていることが見えなくなってしまう。Bさんはどんなことをされていても、不平不満を言うべきではないのである。

どうしてなら、『不平不満を言うこと』というのは、すべての条件から切り離された、『不平不満を言うこと』だからである。背後の文脈は関係がないのである。まったく関係がない。ただ単に、Bさんが不平不満を言ったということだけが問題になる。

Bさんの不平不満の内容……つまり、実際に、AさんがBさんに対してしてきたことは、『不平不満を言うこと』自体!とは関係がないことなのである。

不平不満を言うか言わないかは、言うか、言わないかの二値であらわすことができる。たとえば、不平不満を言うのが、一(イチ)だとする。不平不満を言わないが〇(ゼロ)だとする。そうすると、かならず、〇(ゼロ)か一(イチ)で表現できるものなのである。

Bさんが不平不満を言った場合は、不平不満を言ったというフラグが立つ。一になる。その場合、不平不満を言うことが悪いことだと考えている人にとっては、Bさんは悪いことをした悪い人だということになってしまう。二値だから。背後のBさんの事情は関係がないから。

実際にAさんがBさんにしたことは斟酌されずに、Bさんが不平不満を言ったというとだけが、問題になってしまうのである。どんな理由があっても、Bさんが不平不満を言った途端に、「Bさんは悪いことをした」というレッテルが貼られるのである。悪いことをしたというフラグが立つ。

繰り返して言うが、Aさんがやったことは、斟酌されない。たとえ、それが、不平不満を言うということよりも、悪いことであった場合も、それは、〇(ゼロ)なのである。フラグが立たない。

それだと、ほんとうにひどいことは、見すごして、ただ単に、「不平不満を言うか」「不平不満を言わないか」ということだけを価値判断基準にして人を批判しているということになってしまうのである。

この批判は、受けとめる人によっては、逆に「不平不満だ」と認知されるだろう。どうしてなら、『Bさんは不平不満を言うべきではない』ということ自体が、それを言った人の不平不満の表明になってしまうからだ。

たしかに、DさんはBさんの行為について不平不満を言っている。「Bさんはやるべきでないことをやったので、自分は不快に思っている」という不平不満を言っているのとおなじだということになる。そういうふうにDさんの判断を受け取る人も出てくるだろう。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



人気の投稿

「公開バージョン」はもとのバージョンの一部を文脈に関係なく削除したものなので、段落と段落のつながりがおかしい場合があります。(少し不自然な場合があります)。ご了承ください。

死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。