神様視点で、適切範囲要求……Aさんの視点で適切範囲要求……Bさんの視点で超過範囲要求である案件のことなのだが、ちょっと、重複して言っておきたいことがある。
Bさんは、まちがっている。Aさんは正しい。
Aさんは、たいていの場合、Bさんが、やってこないことに関して、腹をたてるだろう。この立腹は、それなりに理解ができることなのである。
いっぽう、Bさんから見ると、Aさんの立腹自体が、不愉快なものであり、無視しなければならないものなのである。
だから、アドラーが言うことにしたがって、Aさんの立腹は、Aさんの問題だと問題を切り分けることに成功する。
しかし、もともと言えば、Bさんがやってこなかったことが原因なのだ。Bさんの認識がまちがっているのである。
しかし、Bさんのなかでは、Aさんが不適切な過剰要求をしてきたということになっているので、Bさんは、絶対に、自分のあやまりには気がつかない。
ほんとうは、Bさんの側の……作業内容の「評価あやまり」と、Aさんの態度に対する「評価あやまり」がある。
しかし、Aさんの態度に問題があるとか、Aさんの性格に問題があると思っているBさんは、自分の意見をかえない。
「Aさんが、自分に理不尽なことを要求してきたのだから、Aさんが悪い」とBさんは思ったままだ。「Aさんが、おこるのは、Aさんの性格の問題だから、自分は関係がない」とBさんは思ったままだ。
相手の問題と自分の問題を切り分けるということが奨励されているけど、どっち側がどう思っているのかということが、問題になる。
ところが、相手の問題と自分の問題を切り分ければよいのだという問題解決法が提示されるときは、現実の認知は、問題にならないのである。現実の認知は、自分の側の『現実の認知』が絶対に正しいということになって、固定されて考えられている。しかし、実際には、だれも、固定することはできないのだ。だから、実際には、上下関係やそれまでの出来事が、「条件」になっている場合が多い。自分がよく考えて、これは、相手の問題だと考えれば、自分に問題がある場合も、相手の問題だと思ったままなのである。そういう状態の個人が量産されることになる。
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「相手はかわからないから、自分がかわればいい」と、だれかがAさんにアドバイスをしたとする。そのアドバイスは、Aさんの負担を増やすだけなのである。
「すべては、受け止め方の問題だ」と、だれかがAさんにアドバイスをしたとする。どういう意味かというと、すべては受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいいというよな意味なのだ。たとえば、価値中立的な出来事が発生しただけで、それに、「Bさんがやってこなかったから腹立たしい」という「解釈」を、Aさんが価値中立的な出来事に当てはめただけなのだという言い方がある。これは、認知療法の一部に出てくる考え方であり、精神世界の「よくある話」の一部に出てくる考え方だ。出来事に意味合いをあたえるのは、「その人・個人」だから、その人が、その現実をつくりあげているということになる。出来事は中立的に生起しているのに、その中理的な出来事に対して、「Bさんがやってこなかったから、こまる」というような意味合いを付与しているだけなのだということになる。Aさんが、中立的な出来事に、意味合いを付与しているだけなのだということになる。ここから発展して「だから、自分の受け止め方をかえればいい」というところに、つながる。
しかし、実際の場面では、だれも、中立的に受け止めていないのである。神様的な視点で受け止めることができる神様は、どこかほかの、ところにいる。実際のプレーヤーである個人は、個人の目を通して、出来事を把握しているのである。どこかに「価値中立的な、正しい認知がある」という考え方自体がまちがっているのかもしれないのだ。実際、だれの頭にも、「価値中立的な、正しい認知」なんてない。ないのだ。まったくない。
つまり、「価値中立的な、正しい認知」があると、だれか個人が、空想しているだけなのだ。その個人だって、実際に、生活をしているなかでは、一度も、価値中立的に出来事を認知・認識したことがないと言える。もしかりに、価値中立的に出来事を認知・認識したことがあると、だれか個人が思っていたとしても、それがほんとうに、価値中立的な認知・認識であると言いきることはできない。どうやって、言いきれるのか疑問に思わないのか?
その人が、ある価値観に基づいて、価値中立的な認知したと思っているだけなのだ。「自分は価値中立的に現実を受け止めた」と思うかもしれないけど、思っているだけなのかもしれない。どうやって、思っているだけだということを否定するのだ? 否定するとなると、価値観が問題になるのではないのか? どうしたって、価値観が問題になるだろう。この場合は、本来は、出来事は中立的に生起している(はずだ)という価値観が問題になる。そして、自分がそれを実行したという(価値中立的ではない)認知・認識が問題になる。