いちおうは、ほんとうに、善意で言っているという問題がある。
善意で言っているから、いいはずなのだけど、よくないのだ。
どうしてかというと、条件を無視しているからだ。条件を無視した言い方にしかならないのである。実際に、助言をしている人は、条件について「あまく」見ている。
ようするに、「そんなのは関係がない」と思っているのだ。
しかし、条件は、関係がある。
たとえば、非常に恵まれた家に生まれた人がいたとする。この人をAさんだとする。Aさんは、自分が恵まれた家に生まれたということを、無視しがちなのだ。どうしても、自分が基準になってしまう。自分の条件が「普通」だと思ってしまう。
よその人のことは、わからない。
また、お金持ちのうちに生まれた場合、まわりの人も、お金持ちの子どもなので、それが標準であるかのように思ってしまう。
たとえば、Aさんが医者の息子として生まれたとする。そして、医者の息子や娘が、ものすごく多い学校に入ったとする。
そうすると、まわりも経済レベルがたいから、まわりの経済レベルが、なんとなく、標準の経済レベルになってしまう。
そりゃ、医者の子どものなかにも、それぞれ、ヒエラルキーはある。だから、自分を中心にして、自分の親よりも、おカネがない親の子どもとか、自分の親よりも、おカネがある子どもとかと、くらべることになる。
自分の親よりも、金持ちの親がいるのだから、カネということについて考えると「(自分の家なんて)たいしたことがない」と感じることだってある。上には、上がいる。下もいるから、だいたい、自分は普通だと思ってしまう。
けど、人間の標準から考えると、あきらかに、よい暮らしをしているのである。
Aさんが、経済的に、だいぶ上のほうの親のもとに生まれたということには、かわりがない。
けど、なんとなく、自分の身の回りの人たちが、基準になってしまうというところがあるので、「(自分は)普通だ」と感じることもあるのだ。
「普通」の基準が上のほうにズレてしまうのである。
たとえば、非常に貧乏な家に生まれた人がいたとする。
この人をBさんだとする。
Bさんの父親も母親も、性格に問題がある人だったとする。ようするに、貧乏なだけでなくて、親の性格にも問題があったということだ。
その場合、Bさんは、いろいろなトラブルを(Bさんのせいではなく)経験することになる。
まあ、貧乏なだけでも、いろいろなトラブルを経験することになるから、貧乏な設定だけでもいいかな。おカネがないと、いろいろとみじめな思いをすることになるのである。いろいろと「自分の希望」が通らない経験をすることになるのである。
カネがないということは、自動的にそうなることを意味しているのである。
しかし、Aさんは、貧乏な家に生まれた場合の生活をしたことがないので、Bさんの実際の生活がわからないのである。
Aさんにとって、貧乏な家というのは、ドラマやニュースのなかで出てくる貧乏な家でしかないのである。
Aさんには、おカネがないということがもたらす、不愉快な経験がない。Aさんには、おカネがないということがもたらすトラブルがないので、トラブルが実際にしょうじたときの心の動きがわからない。
おカネがないということは、おカネがないということだけを単体で意味することではなくて、実際には、「文脈」がある。生活の中の出来事には、文脈がある。
この文脈にそった、一連の出来事がしょうじているときの「気分」「気持ち」「感情」が、わからないのだ。
つまり、ただ単に、おカネがないということは、ただ単に、おカネがないということを意味しているのではなくて、おカネがないことからしょうじる出来事があり、その出来事は、文脈をもっている出来事なのだ。
実際に、おカネがないということからしょうじるトラブルを経験したことがないAさんには、一連の出来事がしょうじているときの「気分」「気持ち」「感情」が、わからないのだ。
けど、わかったつもりになることがある。わかったつもりなのである。
そりゃ、かわいそうなニュースを聴けば、かわいそうだと思う。かわいそうなドラマを視れば、かわいそうだと思う。思う。思う。
けど、生活実感はない。
必然的に発生する一連のプロセスを経験したことだってない。
Aさんの親が、「これはいくらなんでも、買え与えすぎだから、これは買ってあげない」という判断をしたとする。そういうことだってあるかもしれない。
Aさんの親がおカネ持ちで、Aさんの親が性格のいい人であったとしても「これは、いまは、A君には必要がない」と判断する場合だってあるだろう。
だから、Aさんにも、「買ってもらえなかった」経験があるとする。
けど、それと、Bさんの「買ってもらえなかった経験」というのは、ちがうのである。
頻度も質もちがうのである。
Aさんが「自分だって買ってもらえなかったことぐらいある」という言葉で、同質化、同レベル化することはできない。
ほんとうは、できない。
けど、Aさんの感情としては、まさしく、そういうふうに言えることなのである。「自分だって買ってもらえなかったことぐらいある」と言えることなのである。
しかし、Aさんの生活感情と、Bさんの生活感情は、異なったものになる。
繰り返して起こることが重要なのだ。
そして、家にカネがあるかどうかで、起こることの質がちがってくるのである。
Aさんは、「自分だって買ってもらえなかったことがある」と言うけど、Bさんが頻繁に経験してきたことを経験していないのである。「買ってもらえなかった」としても、シチュエーションにちがいがある。
プロセスにちがいがある。つまり「文脈」にちがいがある。
Bさんが頻繁に経験したトラブルを経験していない。
これ、トラブルなんだよ。トラブルの頻度とトラブルの質は、重要だ。
おカネがあれば、解決できるトラブルがある。おカネがあれば解決できる不幸なことがある。貧乏な家の子どもは、おカネがあれば解決できるトラブルを、頻繁に、経験してしまう。
裕福な家の子どもは、おカネがあれば解決できるトラブルを、めったに経験しない。
「親」が「あるもの」を買ってやらなかったとしても、各親によって、感情のちがいがある。各親によって、態度のちがいがある。おなじ体験ではないのだ。
だいたい、「家にあるもの」がAさんとBさんでは、根本からちがうのである。
Aさんの親が必然的に買い与えていたものをBさんの親は全部、買い与えなかったかもしれないのである。
レベルちがう?あるものについて、Aさんが「自分だって買ってもらえなかった(ことがある)」と言ったって、それで、Bさんとおなじ状態で、おなじ事柄を経験してきたなんてことは、言えない。
しかし、たとえば、初老になったAさんが、しあわせに暮らしていたとする。
そうしたら、不幸な人たちに、しあわせになるコツを教えてあげようと思っても不思議ではない。
なので、Aさんの生活実感で、ものを言ってしまう。Aさんが自分がしあわせになったのは、人に親切にしてきたからだと思ったら、「人に親切にすれば、しあわせになる」と言ってしまう。
善意だ。
しあわせになるコツを、不幸せな人に教えてあげるのだから、いいことだ。
Aさんは100%構文で、効果がありそうなことを言ってしまうのである。Aさんは(自分とほかの人の)条件を無視している。
Aさんは、条件を無視した言い方を採用してしまうのだけど、それが、問題だとは思えない。
だから、ここでずっと述べてきたような、トラブルがしょうじる。