「すべては、受け止め方の問題だから、受け止め方をかえればいい」と俺に言ったひどいやつら。自分がおこっているときは、受け止め方をかえずに、おこるやつら。こんなことをして、「いいことをした」と思っているひどいやつら……。きちがいヘビメタにやられると、こういうやつらにひどいことを言われるようになる。こんなのない。
レベルが低すぎる。自分がなまの感情で反応しているときは、なまの感情で反応しているという自覚がない。なまの感情で反応しているときは、「自分が正しい」「こう感じてあたりまえだ」と思っているのである。「相手に合わせて、自分の感じ方をかえよう」なんて思っていない。ところが、ひとごとになれば、「受け止め方をかえればいいんだ」とどや顔で言ってしまう。しかも、ほんとうに、悪いと思っていないのだ。相手に失礼だと思っていないのだ。自分が実践できないことだと思っていないのだ。「自分は、実践できている」と思って、相手には「受け止め方をかえればいいんだ」と言ってしまう。しかも、相手が、正しいことを言っても、「そんなのは、受け止め方の問題だ」と決めつけて、自分の受け止め方をかえようとしないのである。
こいつら、兄貴が「悪いことをしている」ということは、ガン無視なんだよ。それで、俺に「受け止め方をかえればいい」と言ってくる。こういう発言の暴力性がわかっていない。自分は、「自由に、受け止め方をかえられる」と思っているのだ。ところが、頑固に受け止め方をかえないのである。
これも、「明日、雨がふると言ったら、雨がふった。だから、言霊理論は正しい」という考え方とおなじで、そう思えるような「例」がひとつあれば、それで、納得してしまうのである。じつは、抽象的な思考が苦手なのである。ひとつ、例があれば、それで、全体にそういう法則性が成り立っていると誤解をしてしまう。こういう脳みそなのだ。
たとえば、足をぶつけて、「運がない」と思ったとする。そのあと、「頭をぶつけなくてよかった。頭をぶつけなかったから、運がある」と思ったする。こういう例について考えると、「すべては、受け止め方の問題だ」ということになってしまうのである。
きちがい兄貴がやっていることは、悪いことなんだよ。きちがい兄貴がやっていることは、普通の人がやらない、迷惑行為なんだよ。それをガン無視して、「エイリが受け止め方をかえればいい」と言ってしまう。こういうレベルの人たちなんだよな。
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じつは、これ、抑圧装置になってしまうのである。相手に我慢をさせることができる言い方なのである。相手の状態、相手の立場、相手が経験したこと、相手が経験したことの意味を、粉砕する考え方なのである。自分がなまの感情で、ある出来事を受け止めているときは、ある出来事に対する受け止め方をかえない……。これが、デフォルトだ。相当の確率で、自分の受け止め方をかえない。そうやっていきている。そうやって、日常生活をおくっている。そうやって、日々、暮らしている。
自分のことであれば、ごく限られた範囲以外のことは、受け止め方をかえない。何度も言うけど、これがデフォルトだ。けど、本人(たち)は、自分は、どんな場合でも、受け止め方を自由にかえることができると思っているのだ。これは、「例」について、考えているとき、そうだと思っているので、引き続き(陸続きで)そう思えるのだ。まあ、言ってみれば、ぬけぬけなのだ。
ごく限られた範囲ないことについて、ちょっと語っておこう。足をぶつけただけで、頭をぶつけなくてよかった」と受け止め方をかえられる場合について、ちょっと、語っておこう。これらの例は、受け止め方をかえることで、利益が得られると考えられることに限られているのである。Xと考えたけど、Yと考えたほうが得だと(意識的に)思えることであれば、受け止め方をかえることができる……場合がある。場合があるだけだ。いつも、かならず、そうしているわけではないのだ。
そして、この考え方が、自分に適応されているのか、他人に適応されているのかの、ちがいがある。ちがいがあるんだよ。けど、「すべては受け止め方の問題だ」と考えている人は、他人にも「すべては受け止め方の問題だ」ということを押しつけてしまう。正しい考え方だと思っているので、押し付けられる。相手の出来事について、「すべては受け止め方の問題だ」と決めつけてしまうことに躊躇がない。決めつけられる。もちろん、決めつけているときは、自分が正しいと思っているわけで、ほとんどの場合、その考え方をかえることがない。ようするに、その考え方自体の受け止め方は、かえないというスタンスを守っている。
前置きが長くなってしまったけど、抑圧装置になるということは、相手に(相手がいやだと思っていることを)押し付けるときの思考的な材料になるのだ。ある職場にAさんとBさんがいたとする。Aさんは、Bさんの上司だとする。Bさんは、あることについて、これは、半分犯罪行為なのではないかと思っているとする。Aさんが、あることをBさんにやるように言ったとする。その場合、Bさんは、あることをやることに抵抗があるわけ。どうしてかというと、Bさんは、これは、半分犯罪行為だと思っているからだ。このとき、たとえば、Aさんのなかに「受け止め方をかえればいい」という考え方が成り立っていたとする。そのとき、Aさんは、Bさんに「受け止め方をかえればいいんだ」と言うことができる。Aさんにとっては、そういうことでしかないのである。Aさんは、それは、犯罪ではなくて、まともなことだと思っているとする。Aさんのなかでは、Bさんが間違っているのである。犯罪行為ではないことを、半分犯罪行為だと思てっいるBさんが間違っているということになる。Bさんが、受け止め方をかえればいいのである。そうすると、Bさんが「それ」をやることができる。
まあ、犯罪行為ではなくても、「いやなこと」を相手に「受け止め方理論を利用して」やらせることができるのだ。「受け止め方をかえればいい」と言えば、いやだと思っている相手に、「そのこと」をやらせることができる。そういう場面だってある。
「受け止め方をかえればいい」という考え方は、相手にいやなことを押しつけるときの思考的な材料になるんだよ。