繰り返しになるけど、親切幸福主義者が「人に親切にすれば、しあわせになる」と100%構文で言っているとき、親切幸福主義者は、多くの人は、生きるために働かなければならないという条件を無視している。
生きるために、働かなければならないとする。
そうすると、当然、働かなければならないということの影響を受ける。
これは、自分の労働力を、労働市場に提供しなければならないということを意味している。そして、学歴や就活年度の影響を受ける。就活年度というのは、ここでは、その年に、就活をするということを意味しているとする。年によって、経済状態がちがうので、難易度がちがってくる。
これだって、条件のひとつだ。
職歴や資格によって、質の高い労働力?と質の低い労働力?がわかれる。これは、年収に直結する。これだって、条件だ。条件によって、ちがうのである。
そして、これは、「その人」の扱われ方にも影響をあたえる。
ほかの人が、その人のことを、どのように見なすかということは、「その人」にとって、重要なことだ。「人とくらべるべきではない」……。
たしかに、おっしゃる通り。「人の評価なんてどうでもいい」……。
たしかに、場合によっては、その通りだ。
しかし、学歴や職歴、今現在どういう仕事をしているのかということは、他人の他人に対する評価に影響をあたえる。他人がたくさんいる世界で生きているのだから、他人の自分に対するラベリングは、自分の在り方に影響をあたえる。
なんだかんだ言ったって、大まかにラベリングをして、人に対する態度を決めている人が大多数なのである。
相手が「無職」だと思えば、「無職だ」とラベリングして、自分の態度を決めるのである。
相手に対する認識は、その人(認識をもったほうの人)の行動に影響をあたえる。なので、認識される側の人……は、影響を受けたくなくても、ラベリングの影響を受けるのである。
ようするに、実質的に、学歴や資格や職歴は、労働市場における労働者としての価値に影響をあたえるし、労働市場における労働者の価値によってラベリングがされると、ラベリングをされたほうは、ラベリングをしてくる人たちの影響を受ける。
まず、多くの人には、生きるために働かなければならないという条件がある。そして、職歴や、いまどのような仕事をしているのかということや、いま仕事をしていないということは、相手側のラベリングに影響をあたえる。
そうすると、相手側は「それにふさわしい」行動をするので、受動的に、『相手側の行動』の影響を受けてしまうのである。
しかし、 親切幸福主義者が「人に親切にすれば、しあわせになる」と100%構文で言っているとき、親切幸福主義者は、これらの影響を無視してしまう。
まるで、「人に親切にすること」だけが、幸福感に(しあわせであるという自己意識に)影響をあたえているようなことを言ってしまう。
しかし、親切幸福主義者も含めて、社会のなかで生きているのである。
なので、ほんとうは、無視した部分が幸福感に影響をあたえているということになる。
親切幸福主義者は、人が人に親切するときの、立場というものを無視している。
そして、考えやいすことについて考えて、「これは正しい」「人に親切にすればしあわせになる」と言うのである。人に親切にすれば幸せになるというのは、人に親切にすると、一時的な幸福感がある(場合がある)ということを言っているのではなくて、人に親切にすると、しあわせになると言っているのである。
ようするに、人に親切にすると、しあわせな生活ができるということを言っているのである。人に親切にしたあと、しあわせな生活が持続するということを言っているのである。だってそうだろ。一時的な幸福感をあじわったけど、しあわせな暮らしをしていない人はどうなる? 覚せい剤を打った。
一時的に幸福を感じた。
けど、生活はあれている……。幸せな暮らしをしているとは、言いがたい。
コオロギラーメンを食べて、一時的に、幸福を感じた。けど、じゅうぶんな生活費がなくて、借金もあり、たいへんくるしい状態で暮らしているとする。
けど、コオロギラーメンを食べたときは、幸福を感じる。しかし、「コオロギラーメンを食べれば、しあわせになる」と100%構文の文はまちがっている。この場合、「わたしは、コオロギラーメンを食べれば、しあわせを感じる(ことがある)」と言うべきなのだ。「人間は、コオロギラーメンを食べれば、しあわせに暮らすことができる」という意味にはならない。
「コオロギラーメンを食べれば、しあわせになる」という命題は、『偽』だ。
「人に親切にすればしあわせになる」という文も、命題としては、『偽』なのである。
けど、「人に親切にすればしあわせになる」という人は、命題として『真』であると、思い込んでいるのである。