2021年9月27日月曜日

この「〇〇をすれば、しあわせになる」というのは、おぼれている人にばらまかれた「わら」なのである。

 


度数というものがあると思う。むかし、と言ってもつい最近だけど、持続時間が問題なのではないかということを書いた。で、今度は、しあわせだと感じる度合いについて書いてみたいと思う。

基本的に、法則性があることとして「親切にすれば、しあわせになる」ということを言ったとしよう。けど、きちがい的な父親に虐待されている子供が、友達に親切にしても、そんなにはしあわせにならないと思う。

繰り返しになるけど、「しあわせになる」というのは、ある程度長い期間にわたってしあわせな生活をするというイメージがある。瞬間的な「幸福感」のことを言っているのではないのである。

たとえば、友達に親切にしたとき、きちがい父親に虐待されていることをわすれて……三分間ぐらい、いいことをしたつもりになって幸福感を感じたとしよう。この場合、家に帰って、きちがい的な父親とあってしまえば、それで、しあわせな感じというのはなくなる。破壊される。

きちがい的な父親がいちゃもんをつけてきて、激しく怒り狂うので、いやな気持になる。この場合、さっきまでの幸福感はなくなり、不愉快で不幸な気持になるのである。きちがい父親がきちがい父親である限り、そして、子供として一緒の家に住んでいる限り、その子供は「しあわせにはならない」のである。……たとえ、「人に親切にした」としても……。

だから、こういうことを無視して、あたかも物理法則のように「人に親切にすれば、しあわせになる」というようなことを言うのはよくないということを言ってきたのである。

これが、前回までの内容で、今回は、度合いについて考える。ようするに、さきの例で言えば、友達に親切にしたときに、感じるしあわせの度合いを一(いち)だとする。そして、きちがい的な父親にわけのわからない理由で怒り狂われたときに感じる不幸の度合いを三一(さんじゅういち)だとする。その場合、一日のなかで、このふたつが大きな出来事だとすると、三〇(さんじゅう)ぶんだけ、不幸になってしまうのである。

度合いや、頻度ということを無視して、あたかも、一回でも人に親切にすれば、「しあわせになれる」と言ってしまうのは、問題がある。

どうしてかというと、これがまた、恵まれた人にはわからないのだろうけど、この「〇〇をすれば、しあわせになる」というのは、おぼれている人にばらまかれた「わら」なのである。

おぼれているひとというのは、すでに強烈に不幸な人のことだ。

強烈に不幸な人だからこそ、しあわせになりたいのである。

しあわせになる方法を求めてしまうだろう。

しかし、そのしあわせになる方法というのが、がせねたなのである。嘘情報なのである。どれだけやっても、しあわせにはならないことなのである。マリーアントワネットが言霊主義者だったらということを書いたけど、「わたしは、しあわせになる」と言っても、しあわせにはならない場合がある。それは、パンが出てこないのとおなじなのである。

パンもケーキももってない人が、「パンがあるパンがある」といくら言っても、パンが出てこないように、すでに不幸せな人が「わたしは、しあわせになる」と言ってもしあわせにならない。

すでに不幸な人は、すでに不幸である「理由」がある。

その理由がなくならなければ、しあわせになる「前段階」にも到達しないのである。……どーーして、これがわからないのか?

たとえば、さきの子供の例で言えば、きちがい的な父親が、きちがい的な父親ではなく、正常な父親にならないと、その子供が「わたしは、しあわせになる」と何回も何回も言ってもしあわせには、なれないのである。あるいは、そのきちがい的な父親と引き離されて、普通の生活をしなければ、しあわせにはなれないのである。

きちがい的な父親に常に、毎日、たたられているのに、「しあわせだ」と感じることはないだろう。かりに、しあわせを感じる瞬間があったとしても、その瞬間は、短く、たたられて、くるしく、不愉快で、不幸な感じがする生活が続く。

不幸な感じがする生活が長く続いているのに、「しあわせになる」ということはない。

人に親切にするということも、おなじだ。「しあわせだと言えば、しあわせになる」ということと、同じレベルのがせねた、嘘情報なのである。どーーして、これがわからないのか?

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。