2021年9月19日日曜日

ニコニコしているのか? ニタニタしているのか? 行為者は決められない

  「Xをすれば、Yになる」というふうに言ってしまえば、なんとなく、法則性が成り立っているように思える。たとえば、「人に親切にすれば、幸福になる」というようなことを考えてみた場合、人に親切にすれば、「かならず」幸福になるというようなニュアンスがある。しかし、これは、正しいのだろうか?

持続時間のところでも書いたけど、仮に人に親切にして、幸福を感じたにしろ、それは、幸福であると感じる生活がずっと続くことではない。「幸福になる」というのは、日常生活のなかでの時間のうち、かなり長い時間、幸福であると感じているような状態を意味しているのではないだろうか。

ようするに、「幸福になる」と記述された場合は、ずっと幸福な生活が続くようなイメージがある。もちろん、幸福な生活が続いた場合、一日のなかで、幸福だと感じる時間は長いはずなのである。

また、一日のなかで「不幸だ」とか「不愉快だ」と感じる時間は短くなるはずなのである。ようするに、「幸福になる」と記述された場合、その時点から、何日も、何週間も、何か月も、何年も、幸福な生活が続くような印象を与える。

しかし、親切にするということは、かなり短い時間の出来事であり、一回一回、完結するものなのである。ようするに、「親切にした」と感じた時点で、行為のやり取りが完結している。人は、それを一回親切にしたと感じるわけなのである。

それから「親切にする」ということの具体的な内容がはっきりしない。なんとなく、親切にするつもりでやった行為が親切行為なのである。そして、相手がその意図をくみとって、「たすかった」とか「役に立った」と思った場合は、親切にしてくれたと思うだろう。しかし、「親切にする」と軽く言ってしまうわりには、「親切にする」ということがいかなることなのかを、正確には定義できない。

これも、「Xという行為をする」という言い方に書き換えることができる。また、『還元問題』は、ここでは詳細には扱わないけど、主体者は親切にしたつもりだけど、親切にされた人は、親切にされたつもりがないという場合がある。こういう場合、主体者は親切にしたということになるのだろうか? ならないのだろうか?

つまり、行為の「意味」が一意には決まらないという問題がある。親切にされた人と書くしかなかったから、そう書いたけど、親切にされた人というのは、親切にされたわけではないにしろ、親切行為の主体者からはそう思われる人だ。つまり、親切行為の対象になる人のことだ。

ちょっと横道にそれるけど、「ニコニコしていれば、幸福になれる」という場合の「ニコニコする」というのも、還元しておかなければならない。

たとえば、AさんとBさんがいたとする。Aさんは、意識的にニコニコしているつもりだった。けど、Bさんから見ると、Aさんがニタニタしているようにしか見えなかった。……こういう場合について考えてみよう。ある人が、ニコニコしているかどうかということを判断するのは、それを見ている人だ。

ニコニコしているつもりの人が決められることではないのである。

「相手」の表情を、別の人がそう判断しているという内容を伴うものだ。もともと、ニコニコするというのは、ニコニコしようと思ってするような行為ではないのだ。自然に、楽しいことを考えて、ニコニコしたり、あるいは、なにか楽しいことがあってニコニコするわけだ。その場合、目的は、ない。*1

しかし、「ニコニコすると、幸福になるので、ニコニコしよう」と思って、ニコニコしている場合は、ニコニコするということが目的になってしまう。それは、作為的な行為であり、楽しいことを考えてニコニコしている場合や、すでに楽しいのでニコニコしている場合とはちがう。


けど、そういうことに鈍感な人は、「しあわせになるために、意識的にニコニコしていること」と「なにか楽しいことがあってニコニコしていること」がおなじことだと考えてしまう。しかし、これは、あきらかにちがうことだ。

++++++

*1 普通、人間がニコニコしてしまう場合は、それ自体が目的ではないのである。友達とゲームをしたら楽しかったとする。ゲームをしているときに思わず(ニコニコしたら)友達から「ニコニコしているね」と言われたとする。この場合も、ニコニコするためにゲームをしたのではなくて、ゲームをしたから、その途中でニコニコするような場面があっただけなのである。友達から、「ニコニコしているね」と言われなければ、ニコニコしているかどうかは、わからない。楽しいとか、うれしいといった言葉で表現される体験はあったと思われる。

恋に恋するという言い方があるが、それとおなじように、本来は「目的」にはならないことが「目的」になってしまうことがある。本当は、誰かを好きになってしまった状態が恋をしている状態なのだけど、恋に恋する場合は、恋をするためにだれかを意識的に好きになるように努力するのである。だれかをあてがって、恋に恋をしている場合と、本当に自然な感情で誰かが好きな場合は、ちがう。恋に恋している場合は、相手(対象となる人)に対して自然な感情がわかないのである。どうしてかというと、本当は相手(対象となる人)が好きなわけではないからだ。

わかっていただけるかたに感謝しております。ありがとう~~ございます~~

自分の身のまわりを良い言葉で満たしたい人は、是非そうしてください~
人に優しい言葉をかけたい人は、是非そうしてください。
自分の思いは現実化すると信じている人は是非信じて、現実化してください
(ぼくが)こういうことを否定しているととらえている人がいるみたいだけど、ぼくが言っていることはそういうことじゃない。●●ではない人のことをもっと考えましょうということです。思いやりがあるのとないのはちがう。全体思考だと、かならず、こぼれる人が出てくる。こぼれる人に対する配慮は、事前に考えておくべきことだということを言いたいのです。それから、ぼくにとって「言霊」というのは、議論の対象、考察の対象であって、信仰の対象ではありません。なので、「言霊について議論しましょう」と言っているわけで、「言霊を信仰するな」と言っているわけではないのです。ここらへんの違いについて注目してください。刮目。刮目。


●ヘビメタ騒音というのは

ヘビメタ騒音というのは、ヘビーメタル騒音という意味です。ヘビーメタルというのは、甲高い金属音と重低音が特徴となるロックの一種です。
兄がヘビーメタルにこって、一日中、どでかい音で鳴らすようになったというのが、僕が引きこもらざるを得なかった直接の理由です。本当は、ヘビメタ騒音のことは書かずに、一般論だけを書くつもりでしたが、そういうわけにもいかず、いろいろなところで、ヘビメタ騒音の話が出てきます。


あの生活はない。この人生はない。
時間は無限ではなかった。とくに若いときの時間は。

俺の小説には思想的な意味がある。俺の小説には心理学的な意味がある。だれも語りえなかったことについて、語る

日付のない日記型小説(散文)・手記的な小説・究極のネガティブ苦悩爆発文学 1、2、3、4、5、6、7、8、9、10ともほぼ同じことが書いてあるので、人間界の苦悩について興味がない人は読まないでください!!!!!

「騒音生活」「騒音生活が与える性格・人生への影響」「言いがたい家族」「困った人間の心理」「変な頑固さ」「平気で嘘をつく人(嘘を言っているのに嘘を言っているつもりがない人)」「自分勝手な脳内変換」「どれだけ言ってもなにも伝わらない人の心理的なしくみ・態度・おいたち」について興味がない人は読まないでください!!!

各巻は同じ主題を扱ったバリエーション(変奏曲)のようなものだと思ってください。

ぼくはまけない

「地下室の手記」ならぬ「騒音室の手記」だから、手記的な小説です。普通の主人公や脇役がいっぱい出てくる小説を期待している人は、読まないほうがいいです。そういう小説ではありません。

サイコパスが含まれるタイトルに関しては本当は納得してない。あんまり好きじゃない。けど、ある単語を使うと出版自体があやういので、しかたがなく、サイコパスという単語を使っている。サイコパスとつければ受けるとでも思ったのか?というような感想を持つ人もいるかもしれないけど、そういうことではない。

認識がズレている親にやられたこどもが住んでいる世界というのはちがう。



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死にたいというのは、より良く生きたいということです。ぼくが「死にたい」と書いた場合、「より良く生きたい」と言っているのだなと、読み替えてください。心配にはおよびません。

過去に戻って、きちがいヘビメタ騒音なしでやり直したい。設定を変えてやり直したい。

用語解説:ヘビメタというのは、ヘビーメタルという音楽の分野を表す略語です。甲高い金属音と、超重低音が特徴となるクソうるさい音楽です。僕からみると、とても「音楽」と呼べるようなものではありません。本当に、特撮に出てくる「音」攻撃系の、音波です。あれはひどい。