善人によって構成されている村のようなものを想像しているんだよな。幸福論について語っている人は……。けど、実際には、悪人がいる。悪人が、悪いことをしているつもりがないまま、悪いことをする。そういう場合、やられたほうは、幸福にならない。悪人と言ったけど、たとえば、子供を虐待する親は悪人だろうか? 本人は、自分のことを悪人だと思っているだろうか? 本人は、悪いことをしていると思っているだろうか? これに関しては、悪いことをしていると思っているという場合もあると思うけど、悪いことをしていないと思っている場合もあると思う。息をするように、ごく自然に、きちがい行為をする。きちがい行為を押し付ける。
相手が、家族として存在しているだけで、きちがい的な理由をつけて怒り狂う。
けど、本人は別に悪いことをしているつもりがない。どれだけ言われたって、悪いことをしているということを認めない。……どれだけ言われたって、そのときはそのときで、怒り狂って反対語を叫んで認めない。怒り狂ったあとは、関係がない人になってしまう。本人の意識のなかで関係がない人になってしまう。これは、どういうことかというと、怒り狂ったあと、反省しないで、やり続けるのである。しかも、やったつもりがないということになっている。やった認識というのは発生しないのである。けど、きちがい的な意地で繰り返し、やる。こういう人のことを、頭に癖がある人と言うことにしよう。頭に癖がある人がやったことは、頭に癖があるのだから仕方がないということが言えるだろうか? ぼくは、言えないと思う。なんで、頭に癖がある人の人権は気にするのに、頭に癖がある人にやられた人の人権は、気にしないのか? こういう不公平な態度をとる第三者というのが、いる。
けど、この不公平な第三者は、頭の癖がある人にやられたことがない人には、公平な第三者にうつってしまう。頭に癖がある人が、たまたま、一回だけあったことがある人なら、それでもいいだろう。けど、頭に癖がある人が、自分の親で、毎日、頭がおかしいことをやったらどうなるか? 頭に癖がある人が自分の兄で、毎日、迷惑行為をしたらどうなるか? 自分の人生を破壊するような迷惑行為をしたらどうなかる? 到底たえることができない騒音を毎日毎日、毎時間、毎時間鳴らすことにこだわってこだわって、実際に毎日毎日、毎時間、毎時間、鳴らしたらどうなかる? 「頭に癖があるからしょうがない」と思うことができるのか? 自分の人生がその行為で破壊されているのに「頭に癖があるからしょうがない」と思えるのか?
いろいろ書いているうちに、すっかり話がずれちゃったなぁ。ともかく、善人で構成されているわけではないのに、あたかも、善人で構成されてるような社会を想像してものを言うのはよくないのではないかと思うのである。
そりゃ、善人ばかりの村で、善人が善人に親切にしてやれば、しあわせを感じることができるかもしれないけど、実際には、善人ばかりの村ではないのだから、しあわせを感じることができないことだってある。どうして、そういうことを無視してしまうのか?
それは、マリーアントワネットが、「パンがないという現実」や「ケーキがないという現実」を無視したこととおなじことだ。だれにとってパンがないかというと民衆にとってパンがなかった。マリーアントワネットにとっては、パンはあった。だれにとってケーキがないかというと民衆にとってケーキがなかった。マリーアントワネットにとっては、ケーキはあった。
幸福論を語る人は、「悪人がいる」という現実を無視してしまっている。自分にとっては「悪人はいない」のだろう。しかし、ほかの人間にとっては、「悪人がいる」場合もある。さらに、悪人が家族である場合もあるのだ。こういう、世界なのに……。こういう村なのに……悪人があたかもいないような村で成り立つような幸福論を語っている。
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まあ、村と書いたけど、社会でもいいよ。
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本当に、ものすごい音でヘビメタが鳴ってたな。いまの時間、ヘビメタが鳴ってた。どれだけ言ってもやめてくれなかった。ずっと、午後一一時までやられてしまう。そりゃ、まるまるしたくなる。連続がくるしい。音が鳴っている状態がずっと続くからつらい。勉強なんてとてもじゃないけど、できない。勉強だけではなくて、本を読むことだってできなくなる。眠ることだってできない。ヘビメタが鳴っているあいだじゅう、眠って、ヘビメタが鳴り終わったら起きて、勉強をするということを考えたことがあったけど、無理だった。けど、これは、実際にやってみたら無理だったということがわかったわけで、ほかの人は、無理だとは思ってない。やられてないから、わからない。実際にどういう状態になるか?なんて、実際にやられないとわからない。本人が、本当に、きちがい兄貴の横の部屋で経験しないとわからない。一時間だけ、きちがい兄貴の横の部屋にいるだけでは、わからない。一三(じゅうさん)時間、鳴らされた場合の、からだの状態なんてわからない。どれだけ、眠れくなるかわからない。グロッキーで疲れはてているのに、眠れなくなる。九割がた眠たいのに、残りの一割が激しく抵抗して、どーしてもねむれなくなる。どーーしても眠れない時間、どういう気持ちになるか、やられてない人にはわからない。どういうからだの状態で眠れなくなるのか、やられてない人にはまったく、わからない。そうなると、まるまるしたくなる理由もわからないということになる。
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