いやー、ほんとう、思った以上に家がボロボロなんだよ。『これは、のんびりできないなぁ』と思った。風呂に入っているときも思ったけど、ぼくの人生は、長期ヘビメタ騒音でめちゃくちゃだ。
あのときからずっと、めちゃくちゃだ。
だぶん、このまま、不愉快な気持をもったまま、死んでいくんだろうな。
「あのとき」というこだわりはある。
それは、鳴ってたからだ。
きちがい家族が、あの態度で鳴らしていたからだ。
ほんとう、あんな音で鳴っている家はない。あんなでかい音で、こどもが音楽を鳴らしているのに、ずっと注意しない親なんていない。
そして、きちがい的な高校生でなければ、でかい音で鳴らしているということが、わかる。きちがい兄貴は、あのとき高校生だったんだよ。
普通の人間なら、でかい音で鳴らしているということは、表面上否定しても、知っている。ところが、きちがい兄貴は、ほんとうに知らないのである。自分にとって、「でかい音で鳴らしている」ということが、不都合なことであれば、ほんとうに、「でかい音で鳴らしている」と思わない。
感覚器を書き換えてしまう。
そして、本人は、感覚器を書き換えて否定しているということに無頓着なのである。
ようするに、感覚器を書き換えて、強引に自分の言い分をとおしているという、認識がない。ほんとうは、感覚器を書き換えて否定して、自分の言い分をとおしているのに、その認識がないのである。
これは、親父が、魚の切り身を出しっぱなしにしたときもそうだ。おやじと兄貴で、頭の構造がおなじなのである。自分にとって不都合なことは、どれだけ明らかなことでも、絶対に認めないのである。
けど、普通の人の場合、知っていることを認めなかったという認識ができるのだけど、きちがい兄貴ときちがい親父は、そういう認識ができないのである。
だから、本人はまったく知らないまま、「当の行為」をやり続けるということになってしまう。
こういう、でたらめ。
こういうでたらめが、常に成り立っている。きちがい兄貴が、でかい音で鳴らしたいあいだは、でかい音で鳴らしてないという認識が成り立ってしまうのである。事実を絶対の意地で認めないのである。けど、「事実を絶対の意地で認めない」ということをしたという認識もないのである。
きちがい兄貴は、思いっきり、まったくほかの人のことを気にしないで、でかい音で鳴らしたいあいだは、でかくない音で鳴らしているということになってしまうのである。頭がおかしいからそうなる。
親父の場合は、魚の切り身を出しておきたいという気持が続いている限り、絶対に、魚の切り身がものすごいにおいを放って、部屋全体がくさくなっていると行こうとを認めないのである。本人が「やりたい」あいだは、絶対に、「やれなくなるようなこと」は認めない。
けど、普通の人であれば、「そういうことをしている」という認識は、否応なくしょうじる。
ところが、きちがい兄貴ときちがい親父は普通の人間ではないので、「そういうことをしている」という認識が、まったく、まったく、まったく生じないのである。きちがい兄貴は、ほかの人が、おなじ音のでかさで、自分が聞きたくない音を鳴らしたら「うっささささい」と思う人間なのである。
耳はその時点で正常。
きちがい親父も、相手をせめることができるときは、相手が出したにおいに対して敏感なのである。自分がやりたいときは、きちがい的な鈍感ぶり発揮する。
言いたいのは、ともかく、どっちも、感覚器自体は正常なのであるということだ。そのときだけ、都合よく、「無感覚」になるのである。感覚器がない状態になってしまうのである。感覚器が機能してない状態になってしまうのである。
で、普通なら、どれだけ言い張っても、自分がそういうことをしているという感覚があるはずなのに、そういう感覚がない。感覚と書いてしまったけど、いままで、認識といっていたものだ。
自分がすごい強度で、強烈にやっていることは、絶対に認めないのだけど、相手がやっていることは、弱い強度でも、敏感に気がつくのである。
こういう、きちがい。
こういうきちがいはやりにくい。けど、そういうふうになってしまっているんだよな。ようするに、きちがい親父が考えて選択しているわけではないわけ。きちがい兄貴が、考えて選択しているわけではないわけ。これが、こまるんだよ。
アドラーが、「相手がどれだけがみがみ言っても気にしなければいい」ということを言っているけど、それは、相手の立場と自分の立場、相手が言っていることが正しいのかどうかということと、関係がある。まったく無関係に「気にしなくてもいい」「気にしなければいい」とは言えない。
気にするとか、気にしないということをぬかして考えてみても……いっしょに住んでいれば、影響をうけることがある。
相手の行為……出来事……というのが、たいせつだ。
たとえば、きちがい親父が、きちがい的な意地で、くっさいかさなの切り身を、一日に二三時間、テーブルの上に出しておくということにこだわったなら、その部屋がくさくなるわけだから、影響をうける。
そして、「くさいからしまってくれ」と(こっちが)言ったとき、(あっちが)「くさくない」と感覚器を否定するようなことを言えば、その事柄は、不愉快な事柄として記憶されるのである。
事実、きちがいが、きちがい的な感覚で、通してしまうのだから、影響をうける。
* * *
正常な感覚が成り立っているはずなのに、正常な感覚が成り立っていない状態になる。正常な感覚が成り立っていないということは、本人は、否定する。気にもとめてない。まったく認識してない状態で生きている。実際にそういう状態で生きているわけだから、いっしょに住んでいる人は、不可避的に影響をうける。しかし、そういう人といっしょに住んでない人、あるいは、そういう人といっしょに住んだことがない人が『影響をうけないということは(どんな場合でも)可能だ』というくそ理論で、そういう人といっしょに住んでいる人を、ののしるのである。これは、ののしっているやつが悪い。「生まれの家族」なんて、選べないんだよ。そいつが、そいつである限り、そいつは、迷惑行為だとは考えないで、迷惑行為を(ごく自然に)する。その場合、どれだけ、『影響をうけないぞ』とがんばっても、影響をうけることになる。『影響をうけないことは可能だ』というのは、現実味がないくそ理論なのである。誤謬がある。しかし、まるで、影響をうけてしまうやつが悪いということになってしまう。こういう地獄だ。いったん、きちがい家族のもとに生まれたら、よそのやつにそういうふうに言われるのである。よそのやつは、きちがい家族のもとに生まれたわけではないので、ほんとうは、知らない。知らないから、そうだろうと思って言っているだけだ。