理解しない他人といっしょにいて、楽しいかというと、まったく楽しくない。ぜーーんぜん、たのしくない。まーーったく楽しくない。こんなの、ない。きちがい兄貴が押し付けてきたことというのは、こういうことなんだよな。たえれば、どのみち、こういうことになる。他人というのは、きちがい兄貴のやり方を理解しない。実際に、やられたことがない。きちがい的な家族といっしょに住んでいるわけではないので、実際にやられたことがない。実際に、きちがい家族にやられたことがない人には、わからないことがある。実際に、きちがい家族といっしょに住んだことがない人には、わからない。だから、他人というのは、基本的に、きちがい家族にやられたことを過小評価したり、無視したりする。『理解した』というのは、やられたことがないやつが『理解した』ということだ。だから、『理解した』としても、理解してない。まーーったく理解してない。
過小評価したり」と書いたけど、過小評価するやつは、まだましだ。普通のやつは、完全に無視する。影響を無視する。きちがい家族というのが、背後にある問題は、きちがい家族といっしょに住んだことがない人間にはわからないことなんだよ。いっしょに住んでいるということは、一日二四時間中、二四時間、影響をうける可能性があるということなんだよ。たとえ、いっしょにいない時間も、四六時中騒音を鳴らすということだと、騒音が鳴ってない時間も影響をうける。けど、騒音が鳴ってない時間も影響をうけるということが、からだでわかってないのだ。きちがいにはきちがいのやり方がある。きちがいにはきちがいの感覚がある。普通のうちに気ちがいがいないのであれば、普通の人は、きちがいがやることがわからない。きちがいに実際にやられてなければ、きちがいがやったことが、どれだけ影響をあたえるか、わからない。実際に、経験しないと、そのつらさがわからない。
むしろ………。たとえば、「鳴り終わったら関係がない」「過去は関係がない」「受け止め方の問題だ」と言われることは、「負の体験」なんだよ。これ、言っているほうは、いいことをしたと思っているんだろ。正しいことをしたと思っているんだろ。いい助言をしたと思っているんだろ。そんなの……。こんなの……。こんなの、きちがいヘビメタから「押し出される」もうひとつの「悪い体験」なんだよ。悪い体験を付与している。こいつらがやっていることというのは、きちがい家族にやられた人間に対して、無理解という攻撃をくわえるということだ。これ、攻撃なんだよ。攻撃のつもりはないかもしれないけど、攻撃なんだよ。そして、きちがい家族にに、きちがい的なやり方で、やられたことがない人と、きちがい家族にゆちがい的なやり方でやられたことがある人のあいだには、ものすごい、溝がある。家族!なんだよ。家族。家族と言うことが問題なんだよ。家族と言うことが問題なんだということも、こいつらは、まったくわからない。わかるわけがない。そうすると、普通の家族といっしょに暮らしてきた常識で、ものを言うということになる。これが、どれだけ、ずれた発言か、きちがい家族といっしょに暮らしたことがない人は、わからない。わからない。
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きちがい家族にやられてない人はわからないと思うけど、「鳴り終わったら関係がない」「過去は関係がない」「受け止め方の問題だ」と言われることは、ものすごくいやな体験がみっつ、くわわったということだ。これ、いい体験じゃないのである。これ、言っているほうは、元気づけるつもりなんだろ。あるいは、常識的な考えを、自分のなかで納得するように言っているわけだろ。これ、「ジタイ」のほうが、異常なのだから、常識的な発言は、非常識な発言になる。これ、ほんとうは人間の真理を無視した発言なのである。「ジタイ」というのは、経験したこと自体ということだ。こっちが経験したこと自体だ。かけことばで「事態」という意味もある。
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「いい体験じゃない」と言ったところでわからないかと思う。そりゃ、こんなことを言うやつらにわかることじゃない。わかることじゃないということはわかるけど、言っておく。これ、負のストロークなのである。これ、この世の『いやな経験』のひとつだ。きちがいヘビメタ騒音から、ほぼ不可避的に発生してしまう、いやな出来事のひとつだ。人生が楽しくないとか、この世の暮らしが楽しくないということについて、言っておこう。こういう負のストロークが増えるから、楽しくないというところがある。もちろん、基本は、きちがいヘビメタ騒音で生じたのである。けど、きちがいヘビメタ騒音をあびると、必然的に生じてしまうとことが、ほかの人にはわからない。わからないのがスタンダードなのだ。ときどき、ヘビメタ騒音をあびていないにもかかわらず、ある程度理解してくれる人がいるのだけど、その人たちは、「鳴り終わったら関係がない」「過去は関係がない」「受け止め方の問題だ」なんてことは言わない。これ、「鳴り終わったら関係がない」「過去は関係がない」「受け止め方の問題だ」と言うことで、どれだけ、人を傷つけているのかわからないのかね? 無理なことを言っているんだよ!! まあ、わからないか。
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きちがい兄貴が、きちがい行為を夢中になってやる。毎日、すべての時間を使って、きちがい行為をやる。きちがい行為の影響をうける。どうしたって、うける。ところが、やられてない人は、影響をうけてない。やられてない人は、自分のからだで、どういう影響があるのか、確かめてみたわけではない。けど、きちがい家族におなじことをやられてない人だって、そりゃ、この世に生きていれば、いやなことは、いっぱい経験する。苦労もしたのだろう。けど、その苦労は、きちがい家族によって生み出される「毎日の」苦労ではないのだ。だから、ともかく、きちがいヘビメタ騒音のことは、わからない。普通の人は、経験がないので、どういう影響が出るのか、わからない。わからないまま、「そんなのは関係がない」と言う。もちろん、「自分なら、影響をうけないで暮らすことが可能だ」という前提がある。その前提がまちがっているのだけど、経験がないから、前提がまちがっているということが、根本的に、わからない。だから、きちがい兄貴が、きちがい的な感覚で、きちがい行為をすると、ぼくが、ほかの人から、必然的に誤解されるようになる。
それから、この世の出来事というのは、基本的な感情に影響をあたえる。この世の出来事が、不愉快なことばかりだったら、やはり、不愉快になる。きちがい的な騒音というのは、身体にひびく。ずっと、浴びせられたら、浴びせられてない時間も、ずっと影響をうける。毎日、続けば、リターン不可能な影響をうける。この「リターン不可能だ」ということも、ほかの人にはわからないけど、「リターン不可能なのだ」。リターン不可能性というなら、リターン不可能性がある。きちがい的な騒音の繰り返しは、こころの根本に、リターン不可能な影響をあたえる。けど、ほかの人は、これを、無視する。無視したということすら、意識にのぼらないレベルで、無視する。こいつらに、どれだけ「リターン不可能なのだ」と言うことを言っても、むだだ。こいつらは、こいつらで、理解しない。経験の範囲で言えば、絶対に理解しない。
『いやな経験』のひとつだと言ったけど、『いやな経験』がつみかさなることは、こころの根本に影響をあたえる。どいつもこいつも、無理難題を言ってくるのであれば……無理解ぶりを発揮して無理なことを言ってくるのであれば、それは、言われたほうは、気分が悪くなる。不愉快な経験だ。たとえば、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」などということを言うやつがいるけど、こいつは、バカだ。頭がわるい。こういうバカなやつにえらそうなことを言われる。そして、大多数が、こういうバカなやつに、賛成する。俺の側に立たない。こういう状態になる。きちがい的な家族に、やられると、そういうことになる。
ようするに、きちがい家族にやられていない普通の人が、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と言うたびに、いやな経験がひとつずつ、増えていくのだ。異口同音。いろいろな、異なる個人が、普通の感覚で「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と言うわけだから、回数が増えていくことになる。
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「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」だけではなくて、「過去は関係がない」ということもおなじ効果がある。基本、こいつらは、ヘビメタ騒音の影響を無視している。無視できるのは、やられてないからだ。本人がやられてないからだ。やられていたら、そんなことは言えない。
感じ方の総体と言うことを言うのであれば、まさしく、こいつらが、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」「過去は関係がない」と言えば言うほど、ぼくの「楽しみを感じる回路」がこわされていくのだ。まあ、もちろん、きちがい兄貴の実際の行為によって、ぼくの「楽しみを感じる回路」というのはこわれているのだけど……すでにこわれているのだけど、なんか、後押しをする部分があるのだ。そりゃ、きちがい兄貴がやったことにくらべれば、ずっとずっとずっと、軽いことだ。一無量大数分の一なのだろう。けど、こういうのも、つもっていく。「楽しみを感じる回路」がよけいに、こわれていく。むしろ、そういう発言は、「楽しみを感じる回路」をこわす。修復しない。修復するほうの力にならない。修復する方向で後押しをするわけではなくて、破壊する方向で後押しをする。
ようするに、「楽しい楽しいと言えば、楽しくなる」と言われるたびに、「楽しくない体験」が増え、「楽しみを感じる回路」がしなびていくのである。