ともかく、きちがいヘビメタ騒音の……連続するきちがい騒音の、足のひっぱり方というのが、尋常じゃないんだよね。そして、それをやられたことがない人は、どれだけ、その当日も、翌日も、きちがい騒音の影響をうけるかわかってない。毎日続いたら、前日のつかれや、だ猿がとれないまま、今日のつかれやだるさがつみかさなってしまう。そして、ほんとうに、意思では、それをどうすることもできない。これ、努力でどうにでもなるようなことを言う人がいるけど、その人は、じゃあ、その人が「この世で」一番きらいな音で、俺とおなじ経験をしたことがあるのかということだ。からだがぶっこわれる。しかも、「よその人は」たいしたこと、ないと思っている。そんなに影響が出るはずがないと思っている。ここの乖離がひどいんだよな。普通なら、問題がない睡眠が、ものすごく、問題のある睡眠になる。これが、でかい。ともかく、あびせられると、不可避的に、脳みそがダメになってしまうのである。どうしても、眠れなくなってしまうのである。これは、深刻な問題で、不可避的な問題なのである。けど、ほかの人は、不可避的な問題だと思ってないのである。自分なら大丈夫だと思っているのである。想像で、ものを言っている。そして、言霊主義者なら「眠れると言えば眠れる」と言うわけだし、思霊主義者なら「眠れると思えば眠れる」と言うわけだ。そして、努力主義者・根性主義者なら、どんな状態だって、努力ができる」と言うわけだ。けど、それ、おなじようにやられている人たちが言っていることじゃないからね。その人たちは、ぼくと同等の騒音を経験してない。「受け止め方の問題だ」という人だって、経験してない。「つらいと思うからつらいんだ」と言う人だって、経験してない。俺をダメ人間のように言い、さぼっているように言い、あまえているように言う人間だって、ほんとうは、ぼくと同等の騒音を、おなじ時期に経験してない。おなじ時期というのは、人生の同じ時期ということだ。これだって、年数の長さとは別に、「ある種」の条件をうみだす。そりゃ、親と一緒すんでいるときに、家族にやられるわけだから、自分だけ引っ越して問題を解決することなんてできない。普通の家族なら、うちで起こったことは、起こらないのだ。だかし、言霊主義者、思霊主義者、努力主義者、根性主義者、受け止め方主義者、だって、実際には、ぼくとおなじ期間の長さ、おなじ人生の時季に、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音を経験しているわけではない。きちがい家族がいる人であって、なおかつ、そのきちがい家族が、きちがい兄貴とおなじような脳みそのクセをもっていて、なおかつ、きちがい兄貴のように、自分が思った音で、音を鳴らすということに、きちがい的にこだわっている家族がいる家じゃないと、うちのきちがい家族(兄貴)による騒音と、同等の騒音を経験することができない。経験するはずがない。だから、経験がないという意味で、まったくひとごとなんたけど、「自分なら、こうする」「自分ならこうできるはずだ」という前提でものを言ってくる。ものを言ってくると書いたけど、「無理なことを」言ってくるということだ。ともかく、きちがい兄貴のようにヘビメタを鳴らす人はそんなにはいないのだけど、みんな、騒音体験はあるので、それぞれの騒音体験をもとにして、俺に無理なことを言ってくる。空想的な無理なこと……。妄想的な無理なこと、なのだ。けど、言っている本人は、妄想的な無理なことだとは思ってないのである。こういう構えがある以上、トラブルがしょうじやすい。相手にこういう構えがあり、ぼくのほうに、言い切れないいろいろな思いがあるのだから、両者は、同意しない。かならず、ぼくが、言っていることを、ぼくが通そうとすれば、言い争いになる。その場合、ぼくのほうが、立場が弱いのである。ぼくは、きちがい兄貴に、やられているので、数々の問題をかかえてしまっている。相手は、数々の問題をかかえていない。きちがい兄貴がもたらす、騒音で、眠れなくなり、遅刻をするという場合についてだけ考えてみても、遅刻をするのは、ぼくなので、立場が弱いのである。相手の人が、遅刻をしないのは、きちがい兄貴相当の、きちがい家族がいないからなのである。別に、相手のほうがすぐれているわけではない。ところが、ぼくの立場が、きちがいヘビメタ騒音ですでに弱くなっているので、相手が、強く出てくるのである。たとえば、言霊主義者は、言霊理論を信じているのである。こんなのは、ここでずっと書いてきたように、妄想だ。言霊理論というのは、理論的にまちがっていることなのである。けど、こど玉主義者がそれを認めることはない。「単純なことが正しい」「単純だから正しい」「言ったことが、現実化する」「これが正しい」と言って、ゆずらない。そういうことを言う言霊主義者は、きちがいヘビメタ騒音にたたられてないときの、ぼくのように、きちがいヘビメタにたたられているぼくよりも、有利な立場にいるのである。まあ、ほんとうは、「立場にたっている」と言いたいところだけど、二重表現の疑いがあるので、いちおう、さける。表現の問題は、横に置いておくとして、ともかく、きちがいヘビメタ騒音に、実際にやられてない相手のほうが、優位なのである。優越した立場にいるのである。事実、自分が遅刻しないのだから、遅刻するやつよりも立派だという考えがあるのかもしれない。自分は、立派で、相手は、立派じゃないと思っているのかもしれない。自分というのは、この場合、言霊主義者で、相手というのは、ぼくのことだ。そうなると、立場的にすぐれているので、相手の言っていることをきかなくてもいいという態度になるやつが、多数いる。この世にはそういうやつが多数いる。きちがい兄貴が知らないところで、きちがい兄貴のやったことについて、きちがい兄貴にやられてないやつと、ぼくとのあいだに、トラブルがしょうじるのである。意見の相違がしょうじるのである。はっきり言えば、言い争いになるのである。もう、決まっている。もちろん、ぼくがゆずるということもできる。けど、ゆずると、相手は、もっと自分が、優位にたったような感じになるのだ。感じがする。ゆずると、やばいことになるのである。ゆずらなくても、やばいことになっている。
こういうことが、多数の他者と発生して、いいわけがない。いいわけがない。けど、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音で自動的に(人間というのは)遅刻するようになる。けど、ほかの人には、きちがい兄貴相当のきちがい家族がいないので、それがわからない。だから、わからない人が、無理難題をふっかけてくるのである。できるのだから、無理難題ではないと思うかもしれないけど、それは、きちがいヘビメタ騒音相当の騒音下で、できることではなくて、 きちがいヘビメタ騒音相当の騒音が鳴ってないときにできることなのだ。ここがちがう。けど、こういうちがいを、よその人は、(自分がさらされたことがないので)自動的に無視してしまうのである。